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蝋梅!
蝋梅!
何度も呼ぶ。けれど声は届かない。
「ああもう、何してんだ俺」
歯がゆさを、やるせなさを壁に叩きつける。
この中にいれば、怨嗟の焔は身を焼いてはこない。その焔も、祓われれば視界が開けて自由がきいた。けれどそれも完全ではない。
小さな小さな体は、彼女を抱き上げることもできないし、言葉は封じられて話すこともできない。こうして、苦しんで倒れていたって。
怒りがこみあげてくる。
何もできない自分。蝋梅に架せられた使命。それを疑いなく受け入れるしか道をなくしてしまった、過去の自分の積み重ね。
どの分岐を選べばよかった? どうしたら理想の未来を描けた?
そんな後悔は、先に立たない。今しか自分にはない。
「ここで助けられなくて、側にいられなくて、どうして胸張って一緒に生きてくれって言えるんだよ!」
霊符を握り締めた拳で壁を殴る。反動がぐわんぐわんと全身に伝播した。それでも止めない。
「俺は守られたいんじゃない。守りたいんだ!」
どこかから、光の粒が落ちてくる。先程突き立てられた剣の欠片だ。望は手を伸ばす。
それは鋭利な破片のように見えたが、迷わず握って壁に刺した。
「届け!」
光の破片は、刺したところから元の空へ帰ろうと伸びる。
「蝋梅!」
眩い光が、辺り一面に広がった。
「……い、蝋梅……!」
鳴き声が、形をなしてゆく。聞き覚えのある、いや、一番聞きたかった声だ。
「まさか……殿下なのですか?」
蝋梅の方も、掠れてはいるが言葉になる。伝わったと気づいたのか、猫の尻尾がぴくりと動いた。
「……そうだ」
その一言に、蝋梅の胸が熱くなる。良かった、という胸のうちを吐息に混ぜて、何とか手でその毛並みを撫でた。
「こんな姿だぞ」
望は憮然としている。が、蝋梅はいいえと力を込めて返した。
「生きていてくださったら、それだけでよいのです」
声が、次第に震えてゆく。鼻のあたりがつんとして、目頭が熱くなって、ついにはぽろりと雫となって溢れた。
「心配させて悪かった」
次々溢れてくる涙を、黒猫は舌先で舐める。
「すみません、何だか、止まらなくて……。まだ、解決したわけじゃないのに」
袖口で拭うも、なかなか止まらない。
望は袖と頬の間に入り込むと、涙をひとつ残らず吸い上げた。
いつの間にか香りが移ったのだろうか。黒いふわふわした身体から、同じ香の匂いがする。それに満たされてゆくと、少しずつ落ち着いてきた。
「まずは元に戻らないといけませんね」
気を取り直して言うと、黒猫は目を三角にした。
「もう剣は使うなよ」
そうだ、と蝋梅は思い起こす。ずっと一緒にいたのだ。何もかも聞かれている。
「聞かれちゃいましたね、いろいろ。私、普通の人間じゃなかったみたいです」
ひとまず何とか体を起こす。床に直接寝ていたから、呪いにかかわらず体が痛かった。
はらりと望からもらった上衣が落ちた。小さい体ながら、頑張ってかけてくれたのだろう。猫と上衣をかき抱いて、寝台まで辿りつく。
「強がるなよ。辛いなら辛いって言ってくれ」
首を振るには頭が重い。いいえと口にすると、すぐさま望の声が飛んできた。
「嘘だ」
鋭い声音だ。
「お前、話聞いてた時も今も、ずっと目を合わせない。嘘ついてる時の癖だ」
「嘘なのかもしれません。でも、殿下を死なせたくないのは本当です。それが私にできることなら、使命であるなら、全うしたいのです。友だと言ってくださって、一緒にいてくださって、とても嬉しかったのです。幸せだったのです。だから」
猫は蝋梅の視界に入るよう回り込む。
「だから、結果さえ成せばいいだろう。異境の神とやらを排除するのが目的なら、一人でやらなくても、命をかけなくても。お前は一人じゃない。苦しいことも、悲しいことも、俺に分けてくれ。逆に嬉しいことや楽しいことだって。お前が願ったように、俺も蝋梅に生きてほしい。一緒に生きてほしいんだ。友達でいたいからじゃない。好きだからだ」
望の言葉が、染み入ってくる。呪いや星の神の話で強ばっていた心が、体が解けてゆく。春先に雪や氷が雪解け水に変わっていくように。
けれど。ちくりと刺さるのは。
「……でも吉兆は、」
「星の導きじゃなくて、俺はお前自身の答えが聞きたい」
望は膝の上に乗る。
「それ見たの昔なんだろ、今はどうなんだ? 状況は変わった。俺は違う未来をきっと選ぶ。お前のこと、好きになったから。俺の妃になって、これからも俺と生きてくれ」
何て返したらいいのか、わからない。ただ胸の熱さが体中に広がって呪いの根を枯らしていくのがわかった。
(私の、願いは)
たくさんしがらみがあるはずだ。本当は。それでも彼は真っ直ぐにぶつかってきてくれる。何を敵に回しても。
――願いも求めもしないのに、手に入るわけないだろ。
銀華の言葉が脳裏に浮かぶ。
(空っぽなはずの私でも、それでも、本当は願いがある。なかったのは覚悟だ)
「ああもう、なんでよりによってこの姿の時に! カッコつかないな……」
いろいろ求婚の仕方を考えていたのに、全部ぶち壊しだ。望は嘆く。
「でも俺は諦めないから。少しずつ、好きになってもらえたらいい」
蝋梅は黒猫を抱き上げた。
「殿下は、いつだってカッコいいですよ。どんな姿でも」
蝋梅の呪いを解いてくれるのは、いつだって彼だ。破邪の力なんて与えられていなくたって。星のように自ら輝けずとも、満月は道を照らしてくれる。
「私も、あなたと一緒に生きたいのです。そうしてたくさんあなたのことを知りたい。ずっと、そう願っていたのです。それが好きだとか愛なのかはわからないのですが、こんなふうに欲しいと思うのは、殿下だけなのです」
きちんと目を見てそう告げる。
猫の表情はよくわからないけれど、目を細めて笑んでいるような気がした。自然と、唇が引き寄せられる。
瞼を閉じるのとほぼ同じ頃、唇が触れ合う。触れあっていると、輪郭がだんだんと変わってきているのがわかった。ふわふわした毛並みは消え、人間の形へと。
どれくらい口づければいいのかわからなくて、ひたすらに目を瞑り続けた。こんなの、彼が初めてだ。
「息、していいんだぞ」
見透かしたような声を契機に、息を吸い込む。けれどそれはすぐに塞がれた。
目を開けると、月明かりに照らし出された顔だけが見えた。ずっと焦がれていた姿で。
望は、それに気づいて僅かに瞼を開けて微笑む。が、すぐに唇を重ね直した。
蝋梅は、その背に指を、腕を這わせてゆく。抱きしめる腕に、力がこもる。このまま、こんな境界なんて、なくなってしまえばいいのに。それくらい、今は離れたくない。唇を離してはまた捕らえ。その繰り返し。
「殿下、知らせに……」
心にもない言葉ではあるが、他にも心配している人たちはいる。望は悪戯っぽく笑んだ。
「朝になってからでいい。もう陛下もお休みだろうしな。それに今夜は、離したくないんだ。今日の月は、今までで一番綺麗だから」
寝台に体を委ねれば、真上に望月が見える。自分からは光らないけれど、窓から差し込んでくる光を浴びて、優しく蝋梅を見下ろしている。
そういえば、と蝋梅は月も星であったことを思い出した。近すぎて忘れていたけれど。
手を伸ばせばそこにある星に、蝋梅は触れた。満月はゆっくりと下りてくる。月と星は夜の中でひとつに溶け合った。