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水仙が百合を訪ねると、扉からまだ青い顔が見えた。今日は髪を結うこともしていない。具合はどうかと聞くと、彼女は僅かに微笑んだ。
「昨日よりはだいぶ良くなったわ。状況はどうなの?」
これまでのことを、水仙はかいつまんで話す。これから蝋梅の手伝いをするのだと告げると、百合は表情を曇らせた。儚げな美しさが、目を伏せることでよりいっそう強調される。
「……そう、それで、ね」
そんな返答に、水仙は首を傾げた。
「何かあったの?」
「いいえ、何も。それにしても、王族に呪いが向けられているってことは、王太子殿下もよね」
「……まだ確証はないけど、可能性はあるわ」
水仙は相手の表情をうかがう。何か思案しているようだったが、取り乱すふうではない。と、水仙はここにきた目的のひとつを思い出した。
「そうだ、王太子殿下で思い出した。あなたあの怪しい惚れ薬、菊花さまに渡してくれた? 受け取ってないそうなんだけど」
百合はバツが悪そうな顔をする。
「瓶を落として割ってしまったの。部屋中変な匂いになっちゃって困ったわ。何の効果もなさそうだったけど」
前回からしていた妙な匂いはそれだったのかと、水仙は気取られぬよう心持ち大きく息を吸う。確かに匂いは和らいでいた。
惚れ薬というからには、それらしい効果が期待できるはずだが、百合にそんなそぶりも見られない。
「ねえ、何かあったら言ってよ?」
「わかってるわよ。だって、水仙くらいしか聞いてくれる人いないんだから。水仙こそ、どうしたの? そんなこと言うなんて」
百合は笑ってみせる。それがぎこちないように見えて、水仙は眉尻を下げた。
「王太子殿下のこと、心配してるだろうなって。私じゃどうにもできないのはわかってるけど」
「蝋梅だったら、すっ飛んでいきそうね」
「いきそうねじゃなくて、もうすっ飛んでいったんだってば」
入れるところは全部探すと、槃瓠と黒猫を引き連れて屋根裏へ向かった。徹夜明けにはきついはずだ。
「そろそろ行かなきゃ、じゃあね」
水仙は助太刀すべく、手を振って百合の部屋を後にする。百合はそれを見送った。
(辛いでしょうね、蝋梅)
その気持ちは、痛いほど百合にはわかる。会えない。会いたい。
(だって、同じだもの)
扉を閉めて、それにもたれかかると、天を仰いだ。天井の木目が見えるだけで、星は浮かびはしない。
「朔さま」
小さな小さな呟きは、静寂に融けた。
――陛下は呪いに冒されています。
静かな私室に戻ると、一番はじめに思い起こされたのは、その言葉だった。
誰もが顔色をうかがうのに。あの娘は、それがさらに王の怒りを逆撫でするとわかりながら、怯むことなく口にした。
「小娘めが、忌々しい」
精一杯の虚勢で、誤魔化していたのは疲労。徹夜明けの文官よりも、敵軍近くで夜通し行軍した兵の方が近いか。
「ならば、誰が」
王は口元の髭を弄ぶ。
(件の狼のことは把握している。しかし、これに関しては檀に指示など出していない。ましてや子に危害を加えるなど、もってのほか)
「檀」
短く口にすると、傍らで衣擦れの音がした。
「は、お側に」
「そなたの見立てはどうだ」
そちらには見向きもせずに問う。跪いた檀は、顔を上げることなく答えた。
「まだ何も。異国の者が怪しげな商売をしておりましたが、殿下の消息には関わりがないようでした。本当に星守の塔にいらっしゃるのであれば、手出しは不可能です」
「そなたの手の者ではないのだな」
眼差しだけ、彼女の方に向ける。彼女には少しの揺らぎも見えない。いや、一度でも見たことがあったろうか。
「はい。私自身も、柘榴さまの看護をしていた身であることは、陛下もご存知のはずです」
柘榴付きの女官は、たいそう気を遣った。五家の息のかかった者ばかりであれば、たちまち彼女を脅かすだろうから。わざわざ、亡国の民の中から二心のなさそうな者を選ばせた。もう十年近く、彼女たちは尽くしてくれているし、怪しげなそぶりもない。王は目を逸らした。
廊下の方から、誰か近づいてくる音がする。かけられた声に返事をすると、ぱっと部屋中に華やかな香が広がった。
「まあ、陛下。お戻りになったのですね」
心地よい声に、王は口元を緩める。
「おお柘榴。わしはどうやら何者かに呪われているらしい」
入ってくるなりの台詞に、彼女は目を見張った。
「一体誰が」
「候補なぞ、山とおるわ」
柘榴はそっと頬に触れる。紅い紅い瞳に、吸い込まれそうになる。
「わたくしには呪いを解くことはできませぬが、病は気からと申します。少しおやすみになられてはいかがですか。きっといい夢がみられますわ」
いい夢。王は一人の姿を眼裏に描いた。
「……蓮」