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地平線から太陽が顔を出す直前の、少しばかり黒が群青に変わり始めた頃、蝋梅は塔へ戻った。欄干では丸くなって目を瞑っていた金華猫が、片目だけ蝋梅を見遣る。
「その顔だと、収穫はなかったみたいですね」
頭も体も、そして心もずしりと重い。それでも、王太子に散々言われた埃まみれの身体を清める。
部屋に戻った時には、空は白み始めていた。見上げれば星の姿が、心許なくなってゆく。
それを横目に、蝋梅は茶の支度をした。湯を沸かして、いつでも飲めるようにしておく。けれど、それが注がれる機会はなかなか訪れなかった。
蝋梅は、寝台で布団をかぶっている黒猫にそっと触れる。汚れてしまっただろうと一緒に身を清めに連れて行ったら、洗っている間じゅうガチガチに固まっていて、部屋に戻るなり布団の奥に隠れてしまっていたのだ。そんなに洗われるのが嫌だったか。悪いことをしたなと撫でながら、絡みついた呪いをさっと祓った。祓ったその手を、蝋梅は見つめる。
(悔しいな。呪いが祓えるようになっても、殿下を守れない)
どうやって。
蝋梅は壁にもたれて目を伏せる。
愛は奇跡を起こすのだと、王妃は語った。それがまじないなのだと。朔もまた、真に想う者こそが救いの手となるのだと言った。
(私のこれは、何なの? 奇跡を起こす資格があるの?)
恋だとしたら、持っていてはならないものだ。敬愛だとしたら呪いと表裏一体になるほどの欲深さはない。
(剣が使えるようになった時は、無我夢中だっただけ。瞬間的な爆発みたいな)
――殿下は私の道を開いて下さった方。ならば今度は私が彼の行く先を拓く剣となりたい。私に力が足りないのならば、対価が必要であるならば、この命でもって。
そう強く強く願って、長庚の命を燃やした呪いを消し飛ばした。けれど今、それだけでは届かない。
「……殿下」
唇から声が溢れる。ぽろりと、不意に出た涙のように。寝不足と疲労で、思考回路が鈍い。どうしたらいいか、考えが先へ進まない。
蝋梅は、望の衣を被った。そうするといつも、少し落ち着きが取り戻せる気がするから。
そうしていると、黒猫が布団から這いずり出てきて、頬を擦り寄せた。頭を撫でてやると、膝の上に乗ってくる。
改めて黒猫をしげしげと眺めてみれば、その二つの丸い目は綺麗な勿忘草色だった。それを今はじめてちゃんと認識して、苦笑する。
「あなた、殿下の目の色と似てる。晴れた空の色。――とても好きな色」
そう言って抱き上げると、猫は甘い鳴き声を上げた。触れたところが温かい。恐る恐る抱きしめると、黒猫はしなやかな身体を蝋梅に預けた。石鹸の匂いが、鼻をくすぐる。
「こんなふうに誰かと長くくっついてることないから、不思議な感じ。案外心地いいものなのね」
蝋梅は思わず笑みをこぼした。猫を飼いたがる女官の気持ちが、今ならわかる。これは離れがたい。伝わってくる温もりに瞼が重くなってきて、蝋梅は慌ててかぶりを振った。
「ねえ、朝礼までに寝ちゃうといけないから、少しだけおしゃべりに付き合ってくれる? 頭の中も、ちょっと整理したいし」
猫は同意するかのように短く鳴いた。ありがとう、と蝋梅はその背を撫でる。
「ここにくる前は、毎日苦しかった。呪いの子って言われて大なり小なり呪いを引き受けて。人への嫉妬とかも、呪いになるんだよ。相手がいなくたって、人生がうまくいかなくて、どうしてっていう気持ちも。瞋恚っていうらしいんだけどね。それで、そういうものは全部私が引き受ければいいんだって、いろんな人がやってきた。そのために私はいるんだって。でも、そういう存在らしくても、淀みの掃き溜めでいるのは辛かったんだよ。役目だとしても、早く消えたかった」
黒猫は身じろぎもせず、淡い空の瞳で見つめている。それが蝋梅にはありがたかった。
「同意も同情もいらない。これは私のものだから。他に私の存在する意味はないらしかったから。だから誰にも言わなかったんだ。でも、殿下が連れ出してくださって。初めて綺麗な空だって思った。殿下を守りたいって、初めて自分で生き続ける理由を見つけた。空っぽで、人から引き受けるだけだったのが。……初めてだよ」
外はもう黄金色に輝いている。なのに、とてつもなく静かだ。
「でもね。殿下がいらっしゃらない。何でかな、それだけで不安なんだ。呪いに押し潰されちゃいそうで。前は一人でいるのが当たり前だったのに。私は理由を見つけたって思ってたけど、私の存在理由とは、相反するものだったのかな」
ぺしりと、肉球が蝋梅の頬に触れる。蝋梅はその小さな手に、自分の手のひらを重ねた。
「……殿下、今、どちらに」
猫に額を寄せて、思いを馳せる。何にかえても守りたい人に。
頭上の星が瞬く。導きの星が。ちらちらと瞬いて、そうして答えを示す。霧の中にまだいるような、そんな道で。奥に本当に小さい光が教えてくれる。その先に見えたのは。
「この塔……?」
見慣れた建物だ。見間違えようはずがない。蝋梅は弾かれたように立ち上がり、かけだした。
皆が集う広間には、菊花が既に座っていた。まだ白い顔をしている。それでもいつもと変わらぬように、背筋を伸ばしていた。星読見の結果を報告すると、自ら星冠をきらめかせる。
「確かに、見えづらくはあるがこの塔から感じられるな。しかし、ここはもう昨日昼間のうちに探したのだろう?」
「もう一度、槃瓠を連れて回ります。場合によっては床下を剥がしたいのですが」
菊花は、剥がすって、と眉間に皺を寄せた。剥がしたら直すんだぞ、いやそれでいいのか? と混乱気味に呟く。
と、その時階下から騒がしい声が聞こえた。荒っぽい男の怒鳴り声に、広間にいた面々は顔を見合わせる。ちかりと一人が星冠を輝かせた。さっと青ざめた顔になる。
「陛下?」
菊花と蝋梅は、顔を見合わせる。
「即位以来、初めてだぞ」
言って菊花は立ち上がった。水仙がそれを助ける。足音は騒々しく階段を上がると、広間の前までやってきた。思いきり音を立てて、扉が開けられる。そこには晶華の王が仁王立ちしていた。巨躯の隙間から、慌てる近衛兵や半ベソの見習いの姿が見える。
「陛下御自らいらっしゃるとは」
菊花が仁王の前に立ち塞がる。しかし、王はそれには目もくれず、脇へ押しのけた。よろける菊花の隙をついて、一直線に、蝋梅へと突進してくる。さながら闘牛だ。その勢いのまま、襟首を掴む。
「お前ではないのか! 望を隠しているのは!」
びりびりと空気が震える。ひっ、と怯えた声が、後ろで上がった。相変わらず腕の中にいる黒猫が、小さな牙を剥き出しにして怒りをあらわにする。蝋梅はすっとんで行こうとするその黒い鉄砲玉を、懸命に抑えた。
恫喝されるのは久しぶりだが、かつては日常茶飯事だった。他の塔の住人のように、ことさらに怯えたりはしない。
「お前があれを誑かしたのだろう! でなくばなぜ、ここから望の反応が出る!」
(星守さまも、同じ結果になったのか)
朝の祭祀の結果を聞いたのだろう。三人も同じ結果を出しているなら、可能性は高い。
喜ばしいことではあるが、蝋梅にはもっと気になることがあった。襟首を掴む手。そこから背筋がぞわぞわするような呪いが溢れてきていた。
解こうとするふりをして、その手に触れる。が、それが想定外に重く強いもので。さしもの蝋梅も目眩がした。それでもなるべく素早く呪いをこちらへ吸い寄せる。しかし、満足に吸い出せないうちに手を弾かれた。
「お待ちください、陛下は呪いに冒されています。まだ取りきれておりません」
ぐらぐらする頭で、それでも足を踏みしめてそう告げる。広間に緊張が走った。王は片眉を跳ね上げる。
「そうやって望のことも拐かしたのか。自分の元へ来るように!」
悪意はないが、事実だ。蝋梅は言葉に詰まる。
「……殿下に来ていただいたのは、確かに呪いを祓うためでした。しかし」
「ええい、寄るな! 呪いなど虚言であろう!」
「頭が重くありませんか。悪い夢にうなされたりすることは?」
「玉座は重責を伴うものよ。そのような些事にかまけてはおれぬ。それよりも!」
食い下がる蝋梅に、王は何者も近づけぬほどの眼光で、睨みをきかせる。若くして晶華の版図を広げ、押しも押されぬ大国にした王だ。迫力が違う。
「もう、関わるな。そなたの過去は、報告書で読んでいる。災厄の子。そう呼ばれていたらしいな。そなたが来てからだ。王弟ともあろう者が反逆し、我々を呪い、また祭祀の場に化け物が現れた。今度は神隠しだと? 何の恨みがあるというのだ。我らに」
しかし蝋梅はひるまない。今にも喉笛にくらいつかんばかりに暴れている黒猫を抱く手は、微かに震えている。でもそれは畏怖ではなく、迸りそうになる感情を抑えるため。
「そのようなことはいたしません。殿下は、命にかえても見つけ出します。陛下のためではありません。殿下のために、そして自分のために、です」
殴りかからんばかりの怒気を放ちながら、王は拳を震わせる。
「お引き取りください、陛下。ここは、星の声に耳を傾ける場。荒事は持ち込むべきではありません」
菊花が再び間に割って入る。しばしこちらも火花を散らした後、王は吐き捨てた。
「見つけられなければ、刑に処す」
「構いません。殿下のいらっしゃらないところで生きていても、意味がありませんから」
踵を返す背中に、蝋梅は答えた。
いつの間にか黒猫は、唸るのを止め、蝋梅の頬に鼻を寄せる。そうして優しく頬ずりをした。気づかわしげな眼差しに、喉を撫でてやる。
その間に重い足音は塔を下りてゆき、広間は静かになった。緊張の糸が、ようやく緩んでゆく。扉の前から動かずにいた菊花も、ようやく振り向いた。
「陛下が呪われているというのは本当か」
振り向きざま、単刀直入に問うてくる。蝋梅は頷いた。
「はい。檀の呪いと似ていました。しかし、今までとは濃さが段違いです」
「本命というわけか……」
菊花は深く息を吐く。疲労の滲む表情だが、そうも言っていられない。すぐにぐるりと皆を見回した。
「皆にもこれから話すつもりではいたがな。檀の呪い、あれは王族や星守さまを狙うものだった。かけられていても、そしてそれを感知できずにいても、何ら不思議はない。不思議はないが、対処は早急にせねばならん」
言って蝋梅の肩を叩く。
「そなたは殿下を探すのに注力せよ。見つからねば、陛下は話を聞き入れてはくださらないだろう。許可ならいくらでも出す」
蝋梅は強く頷いた。