61
「私の星の示すところによれば、これは、恐らく遥か西の神による術ね。誰の、どのようなものかまではもっと調べてみないと。神はお互い不干渉だから、少し時間と手間がかかるのよ。ああ、蝋梅。無理に切ろうと思わないように。呪いは祓えばいいけど、これは違う。何もしてこないから、どんな作用の術かわからない。下手に手出しをして何か反動があった時、困るわ。あなたにだけじゃないのよ。かけられた側にも」
星冠の中でも、とりわけ二つの大きな星を輝かせ、茉莉花は告げた。釘をさすのも忘れない。さすがは先代星守と言ったところか。先王が亡くなったことでその地位を退いてはいるが、それからも生き字引として裏方の仕事に勤しんでいる。用件だけ話すと、また術の解析に戻っていった。
陽は西に傾き、姿を消そうとしている。蝋梅はそれを横目に、彼女を見送った。
蝋梅は腕の中の黒猫を見る。視線に気づいたのか、彼は丸い目を蝋梅の方に向けた。勿忘草色の瞳に、胸が苦しくなる。が、彼に関しては一歩前進した。今日になって、気だるげではあるが少しずつ水を舐めることができるようになったのだ。食事はまだ早いようで、金華猫と同じものを出しても無反応なのが懸念事項ではあるが。
蝋梅は彼の頭を撫でる。撫でる手を止めて、そのまま呪いの気配を探った。また少しずつ湧いてきている。それを吸い上げると、その奥にあった術を探ってみた。相変わらず、何の動きもない。が、その更に奥深くにやはり何か他の術があるのを感じた。その波動は、どこか近しい。届かないのが悔しいくらいに。
(何だろう。他の子たちにはないらしいけど)
探索を止めて目を開けると、黒猫がまんじりともせず見つめていた。朝からずっと、彼は蝋梅から離れない。
「随分気に入られましたねえ。まあ、それだけ猫が義理堅いということです。人間の方がよっぽど薄情ですよ」
金華猫を訪ねると、彼は開口一番そう言った。
「ああ、そんなにしがみついて。術が解けても居残るんじゃありませんか」
「また菊花さまに叱られるわね。もう二匹いるのにって」
追い出さないなんて優しいですねと言いながら、金華猫は黒猫に近づく。いつもの猫言葉で話しかけるが、相手の反応は鈍いまま。
「何か声にはするんですがね、音だけで意味をなしていないんですよ。例の術とやらは、言葉でも封じているんでしょうか。まあ、他の子たちよりは回復が早いですから、また明日試してみましょう」
ちらと蝋梅は空を見る。太陽は今日最後の輝きとばかりに、茜色に眩く溶けている。背後からは、夜がすぐそこまで迫ってきていた。内緒話でもするように、蝋梅は身を寄せる。
「ねえ、金華、透明になれる薬、あれってまだあるの」
潜めた声でそう尋ねると、白猫は半眼で睨んだ。
「あの王子を探しに行く気ですか。兵はもう宮殿をひっくり返す勢いで探しているそうですよ。あなたが行ったところで」
「隠し通路があるの。見つからずにサボれるように行き来してたところが。兵たちは探さないだろうし、檀が絡んでるなら、星冠で見られてないかもしれない」
早く。ばくばくと心臓は早鐘を打っている。探さなくちゃと。見つけなくちゃと。
長かった太陽の時間がようやく終わる。今からなら少し、人目も減るはず。
「あれ、私の体液なんですよ。口づけのひとつでもしていただければ、唾液が混じり合って透明になれますとも」
金華猫は嗤う。そんなことできるはずもないと言わんばかりに。しかし蝋梅は即答した。
「わかった」
「あっ、冷たい。そんなんでいいんですか。口づけですよ?」
経験豊富なはずの化け猫は、狼狽した。蝋梅はもう首根っこを雑に掴んでいる。
「殿下を探すのに、何を躊躇うことがあるの」
「愛し合うものがすることです。もっとよく考えて」
「口をつけて体液を得るだけのことでしょう。早く。往生際が悪い」
据わった目で言葉を遮ると、金華猫はいよいよ暴れて抵抗し始めた。
「お待ちなさい、お待ちなさい。何かその猫から、ものすごい殺気を感じるんですよ。商売道具のこの体が傷ものにでもなったら、困ります」
言われて初めて、蝋梅は腕の中に目を落とす。
確かに下の方から、全身を震わせるような唸り声が上がっていた。三角につりあがった目が、白猫を睨んでいる。
「冗談ですよ。止めても特攻するでしょう、あなた」
金華猫はひょいと、丸くなっていた欄干から降りると姿を消す。ほどなく戻ってきた時には、口に小瓶を咥えていた。
「一人で行くんですか」
ぽとりと手のひらに小瓶を落として、金華猫は問う。
「ええ。この子は預かっていて」
蝋梅が黒猫を下ろそうとすると、彼は渾身の力を込めてしがみついた。ここにいなさいとか危ないからとか、あの手この手で諌めても、聞き入れようとしない。
睨み合う一人と一匹に、貴女たち似た者同士なのかもしれませんねえ、と金華猫は呆れた眼差しを向ける。時間がない。とうとう蝋梅は折れて、猫を片手に小瓶をあおった。
狭い上に、あちこち蜘蛛の巣が張り、埃くさい通路を蝋梅は進んだ。大っぴらに灯りも使えないから、手元の小さな灯りで、隅々まで照らして探す。
何度も導いた道だ。地図がなくとも道順はわかる。しかし、実際に通るのは初めてだ。探すのに夢中で進路に迷うと、黒猫は軽やかに降り立って先導した。時折、道の悪いところがあると、止まって鳴き声を上げる。
「あなた、すごいのね」
蝋梅がしゃがんで撫でると、黒猫は嬉しそうに頬を擦り寄せた。一時間、二時間、丹念に蝋梅は道を辿る。途中から万全ではない黒猫を懐に入れて。
しかし、手掛かりのひとつも見つけられなかった。風の通らない通路は、息も詰まる。
(一度外に出るか。殿下の部屋も見ておきたいし)
蝋梅が望の部屋へと通じる方へ舵をきると、向こうに小さな灯りが見えた。慌てて角に身を潜め、灯りを隠す。そっと様子を伺うと、灯りは足音を連れてこちらへ近づいてきていた。
(気づかれたか?)
急いで灯りを消して、息を殺す。足音は規則的に着実に、大きくなってきた。そしてついには、灯りがよく見えるところまで来る。
壁に背中でへばりついて、蝋梅は足音の主の顔を見た。薄暗くはあるが、見間違えるはずがない。
(王太子殿下)
二股の分岐を、朔は左から右へ灯りを動かす。右に向けたところで、その手が止まった。少しずつ、灯りを上へずらしていく。
「何だ、お前」
その言葉に、蝋梅は固まった。相手の表情も同じく硬い。
(まさか。まだ時間は大丈夫なはず。途中で追加で飲んだし)
それとも他にも探索者がいるのかと、辺りを見回す。しかし朔は呆れたように言い放った。
「お前だお前。蜘蛛の巣だの埃だの、しこたま汚れたせいで、うっすら形が見えてる。こんなところに来るのは、破邪の。お前くらいだろ」
「……おっしゃる通りです」
蝋梅は観念した。下手に黙っていて騒がれるわけにはいかない。それに。
「いつもよりくだけたご様子ですが」
ご婦人方の心臓を射止める、輝かんばかりの笑顔が今はない。弟の危機にと言われればそうだが、言葉遣いもとなると。
「俺の前に埃まみれで出てきて、取り繕いもしない相手に、こちらまで飾る必要はないだろ。こんなやつ、初めてだよ」
そういうものですか、と返すと、朔は嘲るように笑む。
「俺は王子だからな。皆、そういう目で見る。吐き気をもよおすような甘ったるい仕草、香。でも当然のことだ。俺は王子で、中でも王太子なんだからな」
朔は左方へ足を向ける。数歩進んで、振り返った。
「来ないのか。望の部屋を見たいんじゃないか」
渡りに船。お願いしますと蝋梅は後に続いた。
「殿下の足取り、わかるところまで教えていただけませんか」
「いつも通り執務室で、夜まで書類に目を通していた。どうもその日は、昼間から手が止まることがあったな。原因はもっと前かもしれない」
並んで歩くには狭い道幅では、朔の表情はわからない。しかし、声音は憂いを帯びているように聞こえた。
「俺は、夜に部屋を訪ねた。どこか具合でも悪いのか、何か悩みでもあるのかとな。大丈夫だと笑っていたが、何か隠してはいそうだった」
(長庚さまのことかな……)
思い当たる悩みといえば、それだ。大きすぎる悩み。
(かと言って、いなくなる理由にはならないはず。経過を知りたいとおっしゃっていたのは殿下だし、話したいこともきっとある)
長雨を見つめる望の横顔を、蝋梅は思い起こす。すると、朔は足を止めた。
「何か心当たりでもあるのか」
「えっ」
不意を突かれて、蝋梅は慌てた。
「いいえ、何も」
上擦る声に、朔は距離を詰める。まるでボロを出すのを待っているかのように不躾なまでに眺めてくる。唇を、三日月に歪めて。
蝋梅は、胸元で黒猫が唸りそうになるのを、袖でふんわり覆って制した。
「もし、あいつが戻って来なかったら、俺のものになるか」
「は?」
目を見開く蝋梅に対し、朔は愉快そうだ。
「あいつと同じ顔だ。気慰めくらいにはなるだろ。その破邪の力、俺の為に使え。望みとあれば、妃に加えてもいい」
だんだんと、台詞の意味を噛み砕くにつれ、蝋梅の眉間の皺が深くなる。黒猫の威嚇音より先に、蝋梅が爆発した。
「お断りします。殿下の代わりなどいらっしゃいません。私の命は殿下のものです」
外に漏れぬよう抑えた声で、それゆえに唸る獣のような声音になる。不敬であろうと、渾身の力で睨みつける。
朔は一瞬、目を見張るが、すぐにまた唇を三日月に戻した。
「冗談に決まってるだろ。そんなことしてみろ。星読見の記録にあいつからの祟りだって連日書かれるに決まってる。それにしても、本当に変わったやつだな。王太子の妃になれるなんて聞いたら、目の色を変えない者なんていないぞ」
冷めた声でそう告げて、王太子は再び背中を向ける。その意図が読みきれず、蝋梅は唇を結んだ。
抜け道を慎重に出ると、何やら廊下が騒がしかった。進展でもあったのかと、身を乗り出そうとすると、朔に押しとどめられる。
「俺の後ろから出るな。見つかるだろ」
そう言ってさっと埃を払うと、何食わぬ顔で一人、兵に話しかけた。
「何事だ」
「それが……」
警護の兵は言い淀む。その視線の先には、あろうことか柘榴の姿があった。朔は驚きの声を上げる。
「義母上、どうしてこちらに?」
「どうしても何もないでしょう。これでも私は、仮の母を仰せつかった身。子の心配をしなくてどうするの。今は少し調子がいいの。心配ないわ」
朔は困ったような顔をするが、最終的には言葉巧みに兵を散らした。そうして手招きして、蝋梅に共に入るよう示す。蝋梅はそれに従った。ゆっくりと閉められる扉に間に合うよう、滑り込む。
朔は、壁との間に一人入れるくらいの間隔を空けて立ってくれていた。そこに素早く入り込むと、そっと様子をうかがう。
黒猫は相変わらず顔だけ出して大人しくしていた。
柘榴は女官を一人従えて、部屋を見回している。先日、真夜中の訪問になってしまった時と同じ女官だ。滑らかな黒い髪に赤い瞳の、美しい女性だ。
(確か、芥子と呼ばれていたっけ)
布団をひっぺがして、中にいないか確認する柘榴を、いささかハラハラした面持ちで控えている。同じ顔を、朔もしていた。
「……もう、さっきから! 体調の方は本当に大丈夫なの! あなたこそ戻らなくていいの? 陛下がまた心配なさるわ」
視線には気づいていたらしい。柘榴は手を止めて振り返った。朔はしらじらしく目をそらす。そんな彼をしばし睨みつけて、そうして低めの声で尋ねた。
「さっきから動かないけど、後ろに何か隠してる?」
「――いいえ」
微かに声が揺れる。蝋梅も後ろでぎゅっと黒猫を抱きしめた。
柘榴は何かぴんときた顔をして、体も朔の方に向けた。艶やかに微笑んで、口を開く。
「当ててみせましょうか。……今回の件の資料?」
「持ってませんよ」
朔は両手を広げて、ひらひらと振ってみせた。
「じゃあ逆にあなたが犯人で、証拠隠滅に来たとか?」
「まさか」
ふふ、と柘榴は笑みをこぼす。
「それじゃあ、女の子を連れてるとか。あなたの相手じゃないわよ。将来の第二王子妃になる予定の方」
はは、と今度は朔が笑ってみせた。二人の背景に、一瞬ハブとマングースが見えた気がして、蝋梅は戸惑う。
「いませんよ。義母上が倒れないか、芥子と同じく心配しているだけです。もう遅いですから、早くお休みにならないと」
「まったく、子どもみたいに!」
柘榴はむっとした顔をしながらも、再び捜査に戻ろうとする。服と服の隙間を覗き込もうとして、そうして再び手を止めた。
「小さい頃に聞いた御伽話にね、動物に姿を変えられた王子さまが、お姫さまのキスで本当の姿をとりもどすっていうのがあったのよ。王子さまのキスで、呪いの眠りから目覚めるお姫さまもいたわ。愛は、時にとてつもない力を発揮する」
朔は、身じろぎもせず聞いている。赤の瞳は、肩越しに振り返って視線を合わせた。
「だからね、その方がもし探してくれていたなら、見つかるかもしれないって。そう思ったの。まあ、こんな真夜中には来ないわよね」
肩をすくめて、そうして作業に戻る。一着目、二着目、どれも蝋梅には覚えのある服だ。
「愛なんて、幻想のようなものですよ。それこそ御伽話だ」
蝋梅の前の青年は、そう冷めた声で言い放つ。柘榴は手を止めずに背中で返す。
「あら、御伽話の中には昔のまじないの名残を残しているものがあるそうよ。それに、愛と呪いとは、表裏一体なのかもしれないわ。虜にする呪い。その人のためならなんでもできてしまう。たとえ狂気をはらんでいても。この間の火難もそうだったでしょう」
衣装棚を見終わって、剣を立てかけてある棚の裏を彼女は覗く。
「……そうかもしれませんね」
その声はとても乾いていた。
その後、部屋を一巡した柘榴が芥子に背中を押されるようにして部屋を出ると、朔は大きく息をついた。好きに見ろと言わんばかりに、手で示す。
蝋梅は、たどたどしく机に近づいた。本が何冊か、それと地図が置かれている。広げると、宮殿と、その周りの街が記されていた。いくつか朱で印がつけられている。振り向くと、朔は「例の行方不明の人間の家だ」と言って椅子に腰掛けた。
「蘭さまは、殿下の捜索に加わってくださっているのですか」
「ああ、多分宮殿の外じゃないか。白将軍も人を出してくれてるらしいからな」
その印のつけられた箇所の少し未来には、求める姿はない。
蝋梅は地図を折りたたんで元のように置いた。振り返ると、不意に朔と目が合う。手を見れば、薬の効果が切れ始めたのか、色がついていた。まずい、と蝋梅は薬の瓶を取り出す。飲もうとすると声がかかった。
「何でそんなこと聞くんだ? 第二王子妃が蘭だって言われてるからか?」
瓶の蓋を取る手が止まる。胸元で丸い二つの目が、蝋梅を見上げていた。蝋梅は目を伏せる。
「少しでも確率の高い方法があるなら、試すべきでしょう」
「そしたら、探すのはやめるのか」
棘のある声だ。蝋梅は強くかぶりを振った。
「いいえ、諦めません。見つかるまで」
唇を引き結んで朔の目を見据える。ああそう、と気怠げな返事が返された。
(そう、諦められない)
ぐいと力強く例の液体を口に含む。黒猫も大人しく口を開いた。頬杖をついて眺めていた朔が、再び声をかけてくる。
「なあ、蝋梅。さっきの御伽話だけど。義母上はなにも、妃が奇跡を起こせるとはひと言もおっしゃってなかっただろ。奇跡を起こすのは愛で、たまたまそれが王子と姫だっただけだ」
机の上に置かれていた本を、朔は手繰ってゆく。晶華の建国から数代にわたる記録だ。頁も端が焼けてきている。栞のようなものが挟み込まれている箇所に目を通して、彼は笑った。
「俺も何度か話したがな。蘭の考えは間違っちゃいない。俺たちは王子で、そして俺は将来の王だ。そういうものとして、どうあるべきか求めてきてる。そして自分も、その妃としてあるべき姿でいようとしている」
「立派なことです」
だからこそ、吉兆に彼女は姿を現したのだろう。彼の隣に相応しいと。御伽話の主人公にだって、きっとなれる。
そう思案する中で、朔は「でも」と言葉を繋げた。
「それは、国への愛であって、望個人へのものじゃない。今必要なのは、あいつのことを、ちゃんと大事に思って探してくれる人だ。蜘蛛の巣引っ掛けて出てくるような、な」
そろそろ出なきゃなと、朔は立ち上がり、扉へ向かって歩き出す。ついでにひょいと、蝋梅の手に本を握らせた。
言葉の意味も行動の意図もわからずに、蝋梅は目を白黒させる。しかし、宮殿内は彼の先導なしには歩けないだろう。これ以上質問は重ねていられない。
薬が効いてきたのか、手は透明になってきている。蝋梅は朔の後に続いた。