60
月は西へと沈み、新しい日が晴れやかな空に昇っていく。
しかし蝋梅は、心ここにあらずといった様子で、ひとり自室で椅子に座っていた。
何も一人になりたかったわけではない。目の前には二つ、茶が並べられていた。それももう、すっかり冷めきってしまっている。
(どうしたんだろう、殿下)
結局、彼は昨日一日姿を見せなかった。使者も伝言もよこしていない。
(……初めて、かも)
蝋梅の胸は、嫌な感じにざわめく。どんな日も、どんなに短くても、来てくれていたというのに。
(でも、その方が本当は珍しいんだよね)
ここは限られた者しか入れない場所。友に会うからなどという理由で、毎日訪れる者は他にいない。
(いらっしゃらないのが、普通)
蝋梅はそう自分に言い聞かせた。
(これからもっと、政務で忙しくなって。妃を迎えて。そうしたらここにいらっしゃる余裕なんてなくなっていく。そうしたらこれが、普通になってく。そういうものだ)
そろそろ朝礼が始まる。蝋梅は入れた茶を二杯とも胃に流し込んだ。香りが飛んでしまっているのもそうだし、味もよくわからない。
寝台では、朝一で呪いをできる限り取り払われた黒猫が、寝息を立てて眠っていた。唸る回数は減ってきている。蝋梅は寝台に腰掛けて、その背を撫でた。呪いでうなされるのは、気持ちのいいものではない。
その時、扉を叩く音がして、蝋梅は顔を上げた。慌てて立ち上がると、小走りに扉を開ける。
天色の瞳、濡羽色の髪。けれど、ふっと香ってくる匂いも、雪をも溶かす春の陽気のような、暖かい眼差しも感じられない。蝋梅は思わず体を凍らせた。
目の前の人物はにっこりと微笑んで、そうして素早く扉の内側に入り込んでくる。
「やあ、突然ごめん。あんまりここにいるのを見られるのはよくないからさ」
立てた人差し指を唇に当てて。悪戯っぽく笑んでみせる。蝋梅はようやく我に返った。
待ち人と違ったからと言ってがっかりするのは失礼だ。勝手に期待していたのは、自分なのだから。
「……わざわざいらっしゃるとは、どのようなご用事ですか、王太子殿下」
平静を装って、蝋梅は尋ねる。今日は特に望を装っているふうではない。最新の流行の衣、香で身を包んでいる。
朔はちらと窓が閉まっているのを確認して、それから口を開いた。
「どうも惚れ薬を使っていた者が姿を消しているらしい。ここに望が一つ持ってきているんだろう。それがどうなったか知りたくてね」
前半部分に、蝋梅は眉根を寄せる。呪いの気配は感じられなかった。なのに。
「星守補佐のところに持ち込まれているはずです。姿を消しているというのは、どういうことなのですか」
「文字通りだよ。街中でもこの宮殿内でも、行方不明者が出ている。何の前触れもなく、忽然とだ。望の部下が周辺を洗っていたら、巷で流行りの惚れ薬を買い求めている点が共通点として浮かび上がってきた。まあ、あくまでもまだ仮説だけど」
唇から紡がれる名に、耳がつい反応する。優先すべきではない質問だとわかっていながら、蝋梅は遠慮がちに問うた。
「――殿下は、その調査でお忙しいのですか」
「昨日、望はここへ来たのかい」
質問で返されて、蝋梅は面食らう。いいえと否定の返答をすると、みるみるうちに朔の表情が温度を失っていった。
「……星守さまは、本当に何も掴んでいらっしゃらないんだな。きみも」
驚くほど、その声音は冷たい。
「どういうことですか」
「――望は行方不明だ」
ひりつくような眼差しでもって見下ろして。朔は告げる。蝋梅は息をのんだ。
冗談を言っているようにはとても見えない。怒りを含んだ気配が、彼から漂っている。それを極力気取られぬよう、抑えようとしているのも。それがいっそう、信憑性を上げた。
蝋梅の身体からも熱が失われていく。
「その様子じゃ、きみが惚れ薬を使ったわけじゃなさそうだな。駆け落ちでもなし」
「殿下が、いつからですか」
声が、震える。
「昨日の朝からだよ。宮殿中を密命を帯びた兵が探したが、見つからなかった」
散ってゆきそうな集中を強引にかき集めて、星冠に注ぎ込む。枝分かれする分岐の、ほんの少しだけ未来を見回してゆく。
(殿下、どこに……!)
目まぐるしく変わってゆく場面に、頭が熱暴走しそうだ。けれどそれでも、描きたい姿が見当たらない。
そんな蝋梅を、朔は刺すように見つめていた。しばらく見つめて、そうして苛立ちを募らせるように声を上げる。
「もうやめろ」
「嫌です。やめません」
なおも別の光景を探し続けるに、朔は吐き捨てた。
「陛下が星守さまに占いを依頼しなかったのは、愛想を尽かしてのこと。その星冠、大事な時に役に立たないんだな。母上の時も、今回も。望はずっと、きみのことを吉星だと信じ続けていた。それなのに」
心の揺れに、星を読見取る速度が、次第に遅くなってゆく。それをひと睨みして、朔は踵を返した。
音もなく扉が閉められ、部屋はまた蝋梅と黒猫だけになる。静まり返った部屋で、蝋梅はうつむいた。場面の転換が遅くなる。映像も鮮明さを欠いてゆく。かき集めているはずの集中力が、逃げ出して戻ってこない。もう星冠のきらめきは弱弱しく、最後の抵抗とばかりに空しく点滅するばかり。
「殿下……」
息の仕方がわからないくらい、胸が苦しい。呼ぶ声は静寂にただ沈んでいった。
術に飲まれた瞬間、許さないという叫びを聞いた。
頭が割れんばかりの怨念、怨念、怨念。激しい滝壺に吸い込まれていく中、霊符を握った。そのお陰だろうか。霊符が薄い薄い防壁となって守っている。これがなかったら、おぞましいほどの怨嗟に、四肢が引き裂かれてしまうだろう。
許さない、許さない、許さない。
障壁を割らんと、怨嗟の焔は怨念を叩きつける。耳を塞ぎたくなるような轟音だ。
ひたすらに霊符を握り締め、胸にその製作者の姿を描く。
「蝋梅……」
どれくらい経っただろうか。怨嗟の焔は少しずつその渦を減らしていった。
隙間から、どこかの光景が、音がうかがい知れる。兄が蝋梅に投げつけていった言葉も。
(――それは違う)
否定したかった。顔に影を落としてしまった蝋梅に、寄り添いたかった。抱きしめたかった。
けれどその頃にはもう望は疲弊していて、緞帳が下りていくように意識が遠のいていった。
「ええい、まだ見つからんのか」
獣の唸り声のような怒声が、玉座から発される。びりびりと、目の前に跪く兵たちにそれは響き渡る。
「あれは正妃の残した忘れ形見、必ず探し出せ!」
是、と威勢よく声を上げて、兵たちは小走りにその場を離れる。これ以上いても、王の機嫌が悪くなるばかりだ。近衛兵を除き、全員が王の不興を買うのを恐れて出て行った。
苛立たしげに王は肘掛けを指で叩く。しかしそう簡単に状況は変わらない。
王が左右に目配せすると、近衛兵も入り口を固めるべく、扉へと向かう。全ての気配と足音が消えたのを感じて、王は低い声で尋ねた。
「檀、何か術はないのか」
すると玉座の影から、するりと人影が現れる。飾り気のない女官の姿だが、その美しさは消しきれない。人前で顔を見せては、印象に残ってしまうだろう。密やかな逢瀬のようになってしまうが仕方がない。
檀は雷でも充満しているような室内に怯むことなく、礼をした。
「は、探索範囲を広げとうございます。兵では街中を探すのは限度がありますでしょう」
「あやつはよく宮殿を抜け出しておったようだからな。自覚のないことよ。よい、どんな手段を使ってもかまわん」
いま一度首を垂れて、檀は音もなく姿を消す。
入れ替わりに扉が開かれた。似た容姿ではあるが、さすがに父にはわかる。近づいてくる彼に、王は叱責した。
「朔、どこへ行っていた。こんな時に護衛を撒くな」
にこやかに、王太子は返す。
「申し訳ありません。どうしても確かめたいことがありまして」
「確かめたいことだと?」
「駆け落ちですよ。父上がなかなかお認めにならないから、やけを起こしたんじゃないかと思いましてね」
王は不満げに鼻を鳴らす。
「破邪の娘は塔にいると聞いたぞ」
「ええ、それどころか、気づいてもいませんでしたよ」
にこやかに、しかし冷ややかに、朔は述べる。その表情は、望にはないものだ。
誰しもが仮面の下に刃を隠し持っている。その形はひとつとして同じではない。双子であってもそう。
この鋭利さが、彼を王位に近づけていると王は考えていた。だがまだそれは先の話。
「あれの近くに置いておけば、保険になるだろうと我慢しておったが、何の役にも立たんではないか。星守も星守だ。耄碌したか。王位と一蓮托生でなければ廃せたものを……」
「今はそのような議論をしている場合ではありません。望の捜索の指揮に注力なさるべきです。手探りではありますが、望の部下が犯人を探しております」
こういったことに、この国は慣れていない。これまではすべて星守が事前に見抜いていたから。
(あれにはもう頼らない。頼れない)
星の神々を、物心ついた頃から信奉してきた。星に願いを。そう教えられてきた。
けれど、一番強く願ったことは叶わなかった。この身を捧げてもと願ったのに。
(蓮)
拳を、王は強く強く握る。
「そなたはここより動くな。何よりも身の安全を第一とせよ。そなたの他に、次の王はおらぬ」
しかし、朔はすぐに返事をしなかった。
「陛下はなぜ」
言いかけて、止まる。
「何だ」
先を促すも、彼は逡巡して結局かぶりを振った。
「いえ。何でもありません」