59
瓢箪は水仙の部屋から空き部屋に移されて、仰々しく厚手の座布団のようなものの上に置かれていた。星灯りの中、扉を開けると、朧げな輪郭に白い光が差す。姿形は変わっていない。銀華と名乗って人懐こく笑っていた、あの青年だ。しかし今、その佇まいは厳かだ。
蝋梅は先んじて、中へ一歩踏み出す。反魂香の香りが、部屋の中には染みていた。魂の形を留めさせる、あの香り。留められた形は、優しげな眼差しで蝋梅を見つめていた。
しかし、しかしだ。呪いを直接身に受けたからわかる。今にも捻り潰さんばかりの念の強さが。反射的に身体に力が入る。
「……長庚さま」
名を、呼ぶ。幾度となく、耳にしていた名を。
「俺は危害を加える気はない。話を聞いて欲しいんだ」
名を否定することなく静かに、彼は口を開いた。
「あなたは殿下に呪いをかけた方。であればその言葉、信じられると思いますか」
声に力が籠る。受け止める男は、もう瞳を揺らすことはしなかった。
「いや。自分で犯した罪だ。それはわかっている。ただ、どうして俺がここにいるのか。それをようやく思い出したんだ。拘束してくれてもかまわない。けど、話は聞いてほしい。檀にかかわることだ」
「私は、」
波立つ感情につられて、声も震える。
檀に関わる話だ。罠だったとしても、喉から手が出るほど欲しいもの。けれど。理性の前に心情が立つ。
「生前のあなたにお会いしたことはありませんでした。けれど、殿下から何度もお名前はうかがっていました。あなたとお会いするのを、剣や碁を教えてもらうのを、殊更楽しみにしていたのを。あなたがどれだけすごい腕前なのかを。あなたが呪いとなって、殿下を呪ったと聞いた時、耳を疑いました。体以上に、あの方の心を蝕むであろうことが明白でしたから」
「謗りはいくらでも受ける。俺はそれだけのことをしたんだ。煮るなり焼くなり好きにしてくれて構わない。でもそれでも、聞いてほしい」
今にも消えてしまいそうな輪郭。それでも、言葉には強さがある。
「私は、非難する立場ではありません。ただ、殿下の大事な思い出をこれ以上裂いてほしくないだけです」
長庚が処刑された後。
降り続く雨を、望はじっと眺めていた。泣き続ける空を。それを思うと、蝋梅は胸が締めつけられる。だから、余計なことだとわかっているけれど、言わずにはいられなかった。
「ありがとなあ、嬢ちゃん。いや、蝋梅。おまえさんが望を守ってくれたんだよな。ずっと礼をいいたかった。あんたがいなかったら、俺は大事な甥を死なせるところだった。恩に着る」
長庚は眉尻を下げる。今にも泣きそうなほどに表情を崩して。
「殿下にも、きちんとあなたが直接釈明してください。直接です。お願いします」
蝋梅は深々と頭を下げる。
長庚は頷いて、顔を上げるよう促した。顔を上げれば既に、彼は戦場を知る男の顔に変わっていた。ぴりりと緊張が漂う。
「改めて、あの時の真相を話したい。星守さまと面会させてくれ」
水仙が呼びに行くと、塔の頂点に立つ者は夜も更けているというのに、すぐさまやってきた。寝衣に着替えた様子はない。いつもと変わらぬ出立ちで、部屋へと入ってくる。
これほどまでに星空の似合う人がいるだろうか。星屑が彼女を包むように、その姿を照らし出している。まるで、星からの寵愛を一心に受けているように。
「いつぶりかの、長庚。あの年の花朝節以来か」
伏せぎみの長い睫毛の奥から、星守は幽霊を見遣る。長庚は武人らしくきびきびと礼をした。
「お久しゅうございます。過日は我が身のことで、星守さまのお手を煩わせました。申し訳ございません」
星守は目を細めてねめつける。
「本物の長庚であれば、そのような物言いはせぬ。あれはたいそうな無礼者じゃった。これなるは偽物ではないか?」
指摘されて青年は眉根を寄せる。
「……一応、俺なりにけじめをつけるべきだと思ってのことなんだがなあ」
「堅苦しいのは似合わぬ。いつも通りでよい。仔細を話せ」
星守はそう告げると、衣擦れの音をさせて奥の席へ座った。水仙と蝋梅もそれに続く。様子をうかがうように、白猫も水仙の膝の上に乗った。皆の視線が集まったのを確認して、長庚は口を開く。
「あれは、俺が陛下と大喧嘩した夜だった。あんまりにも急に軍に関する方針を変えるって聞いたもんだからな。警戒を解くには早い、いやもう要らないって、てっぺん越えても怒鳴り合ってた。結局どっちも折れなくてなあ。何であんなにわからずやになったのかって、むしゃくしゃしてた。そしたら、あの女官が来たんだ」
長庚の表情が、険しくなる。
「檀とかいう、華奢な美女だ。陛下からだって、美味い酒をたんまり持ってきてな。でも、考えを変える気はねえんだろって頭に血が上ったまんま眠れそうになかったんでな、付き合ってもらったんだよ。でも、それがいけなかった」
力の入らないはずの拳が、ぎゅっと握られる。
「きっとあの時、俺はおかしな術にかけられたんだ。そこから先はもう、意識も身体も俺のものじゃなくなった。信じられないかもしれないがな。身を焦がすような何かが、俺を駆り立てた。領地へ戻って、馬鹿みたいに大々的に謀反を叫んだ時も、それしか考えられなくなってた。信じ込んでた。星守さまに見つかって捕らえられてからは、皆知っての通りさ。体中から溢れてくる力で、呪詛を吐いた。呪いに呪った。呪いに消費されて搾りかすみたいになった俺は、多分消えるはずだったんだ。自分のせいで苦しんでる大事な人たちを見せられながらさ。悔しかった。悔しかったさ。何とかこの元凶を伝えたい。さもないとまた次がある。残りの力を振り絞って願ったらさ、俺の目の前にまさに、とある星の神が現れた」
「星の神……」
星守は、目の前の幽霊の言葉を反芻する。流れ星のように、星冠の輪に光が滑っていった。
この国の人々が信仰する存在。彼女たちに星冠を通じて助力するはずの存在。神と人とが分たれてからは、滅多にその姿を見せなくなった存在。それが。
「名は言えない。今はもう、神と人はそう近しくないから、積極的に関与はできないんだそうだ。だが、別の領域の神がちょっかいをかけてるなら、その抑止力を送り込むことくらいはできるらしい。その一つが俺だ。未練がましく現世に齧り付いていた魂魄に、役目を果たす力をくださった」
「やはり、相手は神であったか。してその名は、何と?」
長庚はゆるりとかぶりを振る。
「あれはもう神ではない。その存在も権能もすべて呪いに変質させた。ゆえに名が、存在が消えたのだと。そう星の神は言った」
少しでも取り残せば、心の隙を突き、悪夢を見せる呪い。
(神であったものが、自分の全てを反転させてまで呪いたいものって、理由って、何?)
蝋梅は唇をきゅっと結ぶ。眼前では、表情を変えぬ星守が、淡々と問うた。
「そなたを陥れた女官は、どこの所属の者じゃ」
「あれは陛下付きの女官だよ。極秘の護衛として雇われてるから、記録には一切載っていないらしい」
「陛下の……」
さすがの星守も、その情報には言葉を失った。国の要。そこにもう、向こうは食い込んでいる。
「陛下に近しい立場なら、我々のこと悪く吹き込んでるかも。だから風当たりが強いのかしら」
水仙が身体を寄せて、小声で話しかけてくる。しかし、小さな炎の揺らめく音すら聞こえそうな、静かな室内だ。星守の耳にはいくらか届いただろう。
「身柄を拘束できればいいが、星に出ぬ限り我らには動けぬ。何でもよい。小さくとも凶兆が見えれば対策の霊符を撒こう。見えぬのなら、見えるようにせねば」
言いながら、星守は窓の方へ目を向ける。
窓は中の様子が見えぬよう、もれぬよう締められている。しかしその瞳は、窓を透過して更に向こう、宮殿へと向けられていた。