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 朱塗りが少しばかり剥げた扉を、水仙は軽く叩く。名を呼ぶと衣擦れの音がして、顔がやっと見えるくらいに開かれた。

「百合、ここにいたの」

 清めた水の壺を持ち直して、水仙は部屋を覗き込む。

 昼間ではあるが、やや暗い。そのせいか、顔色もいつもより青く感じた。

「手が足りないの。手伝ってよ。部屋から漏れないように結界張って、呪いを移すんですって」

 一気にまくしたてるが、百合の反応は鈍い。悩ましげにやや目を伏せていた。結いかけの髪が、崩れている。

「具合でも悪いの?」

 ええちょっと、と細い声で百合は返す。

「このところ、忙しくてあまり休めてなくて」

 その気持ちは水仙にもわかる。檀の調査もしつつ、菊花の手伝いもしつつ、銀華の話も聞いていたのだ。気を抜くと眠気が襲ってくる。弱っていると呪いにつけこまれるから、要注意だ。

「わかったわ。今日はよく休んで」

 返事もそこそこに百合は扉を閉める。不意に甘い香りが、水仙の鼻をくすぐった。

(今の、何の匂い?)

 塔の中の人間が買えるものは限られている。勿論、香も。一緒に買うから、お互い試したものはだいたいわかる。なのに。

(花でも香木でもない、あんなの売ってたかしら)

 扉の前で、しばし足が止まる。しかし、上の階から漏れてきた話し声に我に返った。今はそれどころではない。水仙は早足で上階へ向かった。




 じりじりと、身が焼け焦げてゆくような気がした。炎天下の中で、じわじわと肌を焼かれ、それが表層に止まらず、内部へと入り込んでくるよう。

(呪いを取り込むというのは、かくも苦しいことなのだな)

 菊花は大きく深呼吸する。呪いは、凶兆は、祓うものだった。はねのけるものだった。だから受け入れたことはない。

 祓うことを知らぬ小さな少女がそれをしていて、初めて知ったやり方だ。報告によれば、かなり苦痛を伴うものらしい。

(そんなこと、またさせられるものか)

 静まり返った部屋で一人、菊花は横になった。後のことは先代の星守に任せてきた。しばらく宮殿から呼ばれることもないだろう。

(今は、こやつと向き合う時)

 内へ内へと入るにつれ、呪いの焔はここぞとばかりに勢いを増す。

 何を憎み、何を恨み、このように膨れ上がったのか。心を静めて、菊花は聞き耳を立てる。

 めらり、ゆらり。

 焔が燃えている。焼いている。

 責め苦のような苦しさに、菊花は手放してしまいそうになる。振り払ってしまいそうになる。しかしぐっとこらえた。

 顔には出さないが、無力さに震えていた友の顔が浮かぶ。何か得なければ。補佐になった意味がない。

 ひたすらに耐えて耐えて。耐えた先に蠢く影があった。髪を振り乱し、慟哭している。

 ――なぜ、あなたが死なねばならなかったの。

 ――許さない、許さない、なぜ、私から愛する者を奪った! お前たちさえいなければ!

 焔が、感情と共に爆発する。菊花はその風圧に耐え切れずに、意識を手放した。





 昼間の喧騒をよそに、夜の帳はしんみり降ろされてゆく。菊花が嵐のように呪を集めて自室へ籠ったのはまだ太陽が高かった頃のこと。しかし、まだ被害者たちは目を開けるのがやっとといった様子だった。

「呪いを受けた動物たちは新顔だそうですよ」

 宮殿内に住み着いている、或いは飼われている動物から聴き込みしてきた金華猫も、帳に身を隠すようにしてようやく戻ってきた。

「呪いが撒きたかったってことかしら」

 蝋梅はそっと近くにいた一匹に触れる。

 引き取った黒猫と同じく、術にまだうっすら呪いが絡みついていた。できる限り受け取って、その毛並みを撫でる。

 取り除いたそれは、菊花がここに集めるようにと用意した藁人形にそのまま移した。外に漏れぬよう、霊符の貼られた箱に入れられてはいるものの、暗い中でそれを直視するのは何だか怖い。他の見習いもおっかなびっくり近くを通っていた。

「さあ。でも起きているものもあるようですし、話を聞いてみましょう」

 金華猫は意にも介さず、猫たちに近づく。にゃごにゃご話しかけていたが、しばらくすると尻尾を垂らして戻ってきた。

「軽く麻酔でも打たれているような状態です。ぼんやりしていて話になりません」

「取り除かない限り、変わらないでしょうね」

 身体を起こすこともままならなかった昔を、蝋梅は思い出す。そこから連れ出した彼のことも。

(殿下)

 まだ今日は顔を見ていない。こんなこと、初めてだ。ぎゅっと、袖の中で内側を握る。

 危険だから来ないのかもしれない。

 叔父さまのことが、整理がつかないのかもしれない。

 色々と理由になりそうなことを並べてみて。でも、それでも。

(いつも殿下なら、来てくださるのに)

 胸の中が、夜に聴く細波のように揺れる。

「どうしました」

 白猫は真ん丸の瞳で覗き込んでくる。いつもの笑みは口元にない。どこか見透かすようにして蝋梅を見ている。

「ううん、何でもない」

 そう口にして、唇を強く引き結ぶ。

 狼狽えるようなことではない。気持ち深めに息を吸い、ゆっくりと吐き出した。気取られぬよう慎重に。

 部屋を後にしようとすると、慌ただしい足音がして、金華猫の耳がぴくぴく動いた。

「ちょっとちょっと来て、二人とも!」

 早く早くと、飛び込んできた水仙は急かす。

 そんなに騒々しくすれば、鬼教官に背後に立たれることは、本人がよくわかっているはず。けれど。

「銀華が起きたのよ!」

 皆の間を緊張が走る。蝋梅もまた、躊躇いなく走り出していた。



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