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「出てこないわね、あの男」
水仙は遠巻きから、ただの瓢箪となってしまった銀華の本体の様子をうかがう。
空き部屋の中央に据えられたそれは、何の反応もない干からびかけた瓢箪だ。
叩いてみてはと提案する蝋梅を、金華猫は窘めた。
「止めておきなさい。我々昨日こってり絞られたところでしょう」
「誰のせいだと思ってんのよ、誰の!」
水仙は白猫の両頬をつまむ。金華猫はぺぺぺと小さな手でそれを払った。
「それにしてもあの般若、疲労が溜まった顔をしていましたね」
また怒らせそうな呼称を金華猫は使う。
「昨日は宮殿から何度かお呼びがかかってたみたいだからね。朝礼で詳しいこと聞けるかしら。殿下は何かおっしゃってた? 今日遅かったけど」
水仙の問いかけに、蝋梅は顔を曇らせる。
「……いらっしゃらなかったんです。何事もなければいいんですが」
最後に会ったのが、叔父との再会だっただけに気がかりだ。
その当の瓢箪の主も動きはない。
「百合はどうしました」「昨日は星図の番よ」という二人の会話が耳の近くを通り過ぎていく。
その時、入り口付近で呼び出しの鈴の音がした。そんなことせずに直接入ってくる望とは違うとわかっていても、蝋梅は足早に向かう。
扉を開けると、二歩ほど離れたところに門番をしているはずの兵が立っていた。手には何も持っていない。
蝋梅が僅かに肩を落とすと、困ったような顔で頭をかいた。
「門のところで、猫が行き倒れていまして。ただならぬようすなのです」
門のところでは、もう一人の兵が脇の生垣の側で手を振っていた。足元に、小さな黒猫が倒れている。腹は上下しているから生きているようだが、呼びかけには一切応じなかった。何より近づくとぞわぞわと鳥肌が立つ。
蝋梅は頭上の星冠を煌めかせ、膝を折る。手を伸ばすとためらいなく、その体に触れた。
ずしりと重苦しいものが手を伝って登ってくる。しかもそれは燃えるように熱く、知った感覚だ。
けれど、他にもある。
「呪いは檀のものだわ。でも他にも術がかけられてる」
術? と後からついてきた水仙が反芻する。
「ええ。星神に由来するものじゃない。星冠と相容れないもの
が一つ。それから本当に微弱な反応が奥深くに一つ。取り除くには時間がかかりそうね。ひとまず部屋へ連れて行くわ」
戸惑う水仙をよそに、蝋梅は黒猫をそっと抱き上げる。体はだらりと力ない。
そこへ、ぱたぱたと少し年上の見習いが、裾を持ち上げてかけ寄ってきた。
「ちょっと二人とも手伝って」
「どうしたんですか」
肩で息をしている。よほど慌てているのだろう。
「宮殿で呪いを受けた動物があちこちで見つかってるらしいの。昨日は菊花さまが対応されたみたいなんだけど、数が多いから被害が広がる前に場所を移したいって」
二人と一匹は顔を見合わせた。
「金華猫、知り合いかどうか一緒に見に来てよ」
水仙は白猫を抱え上げる。
「そうですね。顔見知りが被害に遭っているなら、いい気はしません。通訳くらいならできるでしょう」
「蝋梅はその猫を」
水仙の言葉に、蝋梅は頷いた。
蝋梅の部屋へ訪問者があったのは、太陽が頂を越えてからのことだった。
見つかった呪いを受けた動物は、ひとところに集めきったらしく、宮殿に散った星守見習いは引き上げてきていた。
殿を務めたのは、菊花。金華猫の言う通り、疲労の色が濃い。少し目の下にクマのようなものもできていた。普段発している覇気も、弱々しい。
それでも気遣わしげに蝋梅の顔をのぞいた。
「そちらはどうだ」
蝋梅は、寝台に寝かせた黒猫をちらと見遣る。
苦しげにもがく様子は見られなくなったが、それでも辛そうだ。ぴくりともしない。
「かけられた術は、解き方のわからない飾り結びのようです。きっちりと綺麗に結ばれています。隙がなくて、解くにも調べるにも簡単にはいきません。それにこの呪い。術と一緒に編み込まれているようです。完全な切除は術を解かないといけないと思います」
ふむ、と教官は何か思案しながら頷いた。
「菊花さま、提案があります」
「聞こう」
虚勢か癖か。菊花は腕を組み、仁王立ちする。
「呪いは強ければ強いほど、術者の思念を映します。あなたのこんなところが気にくわないから呪ってるんだって、恨み言が現れやすくなるのです」
「ああ、以前報告書に書いていたな」
「槃瓠の時は緊急事態ですから祓ってしまいましたが、呪いを集めて溜めて、呪われた状態になることで相手の目的を明らかにしたいのです。きっと術者の手がかりになるでしょう。塔の中なら外野から文句は言われないはずです」
「それはひとつの方法だと私も思っている。だが、そなたの役目ではない」
では誰の、と問いかけて、手を伸ばす。しかし菊花は身体をずらしてそれをかわした。それどころか、額を霊符でぺちりと叩いてくる。こっそり溜めていた黒猫の呪いが、まるっと取られてしまった。
「そなたの役目ではないと言っただろう」
菊花は反論をひと睨みで封じた。
「星守の不名誉は補佐の不名誉。これは私の戦いだ。ただ、その猫はそなたが手を付けたことだ、そなたに一任しよう。しっかり治してみなさい」
どこまでも強がるように、教官は背を見せる。星冠は、恒星から光を受けて鈍く煌めいた。