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演習場は、その日の朝いつになく、ざわついていた。
王太子殿下が演習場にいらっしゃるらしい。そんな噂がまわりまわっていたからだ。
珍しいですねと口にする周囲に、蘭は頬を紅潮させた。
「わたくしよりもお強いのかしら!」
「さすがに蘭さまとお手合わせされることはないんじゃないですかね」
「どちらかと言えば、文武の文の方を好まれると聞いていますよ」
「楽器の腕はどんな楽師よりも勝っているとか」
兵たちの声に、蘭は目を見開いた。
「まあ、女だからと軽んじていては足元をすくわれますわ。わたくし、かねがね自分よりも強い殿方と結ばれたいと思っておりましたの」
兵たちの脳裏に、ぽいぽい雑巾のように薙ぎ払われる望の姿が浮かぶ。あれでどうして件の巨大狼に勝てたのか、不思議でならない。よほど秘蔵の花の加護が強かったのだろうという結論に、彼らは落ち着いていた。
「地位と権力が完璧でも、それに耐えうる健全な精神の宿らない肉体など、王に相応しくありませんわ!」
蘭は力説する。
その優美さから、ひと目見ればどんな娘も虜にするという王太子と蘭、どちらに軍配が上がるのか、兵たちはこそこそと賭けを始めた。
供のものを引き連れて、仰々しく王太子は演習場に姿を現す。父の横で、蘭はその佇まいを見つめた。
(顔色がいつもよりいいですわね。晴れやか、とでもいうのかしら。いつもどこか愁いを帯びたような表情をしてらっしゃいましたけれど。目にも活力がありますわ)
意外そうに眺めていると、件の人物が二人の方へ歩いてきた。
畏まって礼をすると、王太子はくすくすと笑っていた。
「殿下、どうかなさいましたか」
「いやなに、周りが白将軍の娘とどちらが腕が立つのか興味があるみたいでね」
これは、と蘭は進み出て膝をついた。
「是非、お手合わせ願いたく存じますわ」
白将軍が窘めるが、蘭は挑発するような眼差しで王太子を見上げる。
「よい、将軍。うちの弟がかなり世話になったそうじゃないか。一度くらい、噂の女将軍と剣を交えてみたかった。もう、弟に遠慮する必要もないだろう?」
「勿論ですわ」
唇を三日月にして笑むと、目の前の王子は目を細めた。
軽んじられている、と即座に蘭は察した。これまでもそんな男たちと出会ってきたし、打ち負かしてもきた。
蘭は、目の前の王太子が、ただの優男だとは思っていない。大軍を率いた王の跡継ぎに相応しいよう、一流の師から武芸もひと通り仕込まれていることは知っている。
朔は横から鍛錬用の模擬刀を受け取ると、即座に構えた。
「殿下は右利きですか」
王太子の正面に歩を進めて、蘭は尋ねる。
「弟のように、利き腕を謀る理由はないよ」
「そうですか」
そう、彼の言う通り、あの第二王子は嘘をついていたのだ。本気で相対してくれたことなどなかった。一戦を除いて。
あの剣は、彼の大事なたった一つの花を守るためのものだったのだ。
(わたくしの剣は、誰がために?)
鈍い音が幾度となく響く。美しくはあるが、覇気なく受け流すそれに、蘭は攻勢をかけた。
足りない。足りない。
信念が、執着が。
王の正妃の座を奪い取るに相応しいほどの。
この男の目を覚ますほどの。
その想いは剣に乗り移る。鋭さが、重さが増してゆく。王太子は受けるのに精いっぱいで、じりじりと後退していった。最後には不敬にも王太子に切先を向ける形になった。ゆっくりと剣を下ろして、礼をする。
「お怪我はございませんか」
将軍の声に、肩で息をしながら朔は返す。
「ないよ。何の問題もない。彼女は良い剣士だな」
讃えるように肩を抱かれる。何とか余裕を見せようとする彼に、蘭は彼にだけ聞こえるように告げた。
「まだ夢の中にいらっしゃるのではありませんか。顔を洗ってお目覚めになってくださいまし。これでは陛下とお呼びするには足りませんわ。またお待ちしております。わたくしも腕を磨いておきますわ」
「こういう約束の仕方は初めてだな」
僅かに楽しさを滲ませて、朔は笑った。