53
朝日が差し込んでくる方へ向かって、望は回廊を進んでゆく。
ただし、頭の中は空と違い、曇天のよう。原因は昨日の報告書。
(市井で神隠しにあった者の報告が数件上がっている。それも街中だ。宮殿でも下働きの者が消息が知れなくなっている。星守さまから予兆や対策は下されていない……とすれば檀絡みか)
空の眩しさが目にしみる。
(あまり無茶はさせたくないが、蝋梅にも話を振ってみるか。……ちょっと様子がおかしいのが気になるが)
これまでも触れたり、抱きしめたりしたことがないわけじゃない。けれどいつも寂しくなるくらい無反応だった。それが。
(……あんなに赤くなるなんて)
身体は冷え切っていたくせに、耳まで紅葉したかのように染め上げて。冷めた眼差しどころか、少し熱っぽく潤んでいた。
そこまで思い出して、望はある可能性に思い至る。
(熱出してるかもしれない。あいつ、口に出さないから)
嫌な予感がして、望は足を早めた。
塔の扉からいつものように入ろうとすると、そこには小さな門番が丸くなっていた。
いつもは日当たりのいいところで遅くまで寝ていて姿を見ない。望が一瞥だけして入ろうとすると、向こうの方から声をかけてきた。
「聞きましたよ。陛下に下げ渡しを願い出ているとか」
誰とは言わない。他に誰もいないから。
「何だよ。急いでるんだ」
無視して扉に手をかけようとすると、白猫は瓦から音もなく降り立った。
「なぜ彼女は何も知らないのですか」
きらりとまんまるの瞳が光る。ただ好奇心に駆られた時のようなしたり顔ではないのを察して、望は手を下ろした。
「言えるわけないだろ。期待させて結局妃にできなければ、傷つける」
テテ、と白猫は扉と望の間に座った。
「誰をです?」
「ん?」
「対象が抜けていますよ。傷つくのは貴方でしょう。しかも、妃にするのに失敗する前提です」
猫を見下ろす望の表情に、影が落ちる。
「だいたい口説き文句のひとつも言わずに手に入れようなんて、無粋にもほどがありますよ。手を汚さない卑怯者のようではありませんか」
「随分な言いようだな」
「嫌ですねえ。自覚、なかったんですか? それならもうやめておしまいなさい。貴方は言われたとおりの相手を娶ればいい。あの子は貴方が鳥籠に入れた雛鳥のようなもの。外の世界を教えずに、貴方だけ刷り込んで。さぞや心地よかったでしょう。無条件で慕ってくれるのは。それは愛などではありませんよ。もう放しておやりなさい。あの子はずっと、貴方が決められた相手と結ばれると思っているんですから。貴方は選択肢に入っていないのですよ」
容赦なく、金華猫は研ぎ澄ました刃でもって刺してくる。的確に、急所がどこか見切ってでもいるかのように。
茶化すことも誤魔化すこともできずに、望は唇を引き結ぶ。
「求愛行動の下手な雄は、番になれないんですよ。そんな単純なことがわからないんですか」
望はしゃがみ込むと、白猫をひょいと持ち上げ、元に戻す。おしゃべり猫は、面白くなさげに鼻を鳴らした。
頭の中で、色々なことがぐるぐる渦巻いている。何から話すべきか。最適解を探すのにまだ時間を必要としていて、望は大きく息を吐いた。だから、金華猫にあそこまで言わせてしまうのだ。
あの大きな中庭に、小さな黄色い花の木があることを知ったのは、蝋梅に名をつけてからのことだった。それまでは見向きもしなかったのに。
兄と一緒に、商人から香を求めた時もそう。それまでまるで興味を示さなかったのが、数ある中であまり買い求められることがない蝋梅という名の香を手に取って驚かれた。
気分によって変えたっていいんだぞ。そう言われて流行りの香を渡されたけれど、使う気にはなれなかった。どんな気持ちの時も、そこにあって欲しいから。
扉を静かに開けると、いつもの挨拶がない。部屋もいささか暗い。中を見渡すと、机で霊符に埋もれて寝落ちでいる彼女が見えた。
まずは一番懸念していたことから。そっと額に手をやると、いつもとさほど変わらぬ様子で、望はひとまずほっとした。が、このまま寝かせておくわけにもいかない。
「風邪ひくぞ」
そう声をかけるが反応はない。よくあることだ。彼女は熱中していると周りが見えなくなる。
仕方なく望は、寝台に運ぼうと抱きかかえた。が。
(何だ、この匂い)
華やかな心誘う香りではない。どちらかと言えば昔懐かしいような、それでいて薬のような。とにかく。
(知らない香だ。しかも服にしっかり染みついてる。夜のうちに)
血の気が引いた。腹の底が冷えてゆく。
(金華猫が珍しく挑発してきたのは、身を引けってことだったのか?)
蝋梅はまだ目を覚まさない。それどころか、寝台に下ろそうとするとすり寄ってきた。否が応でも、あの匂いを嗅がされる。胃の奥がむかりとした。
「でん、か……」
望の気も知らずに、春を先導する花は彼の胸元に顔を埋める。が、ようやく何かに気づいたらしい。はっと目を覚ました。
「殿下……! し、失礼しました!」
落ちそうになるのを、望は抱きとめてゆっくり足をつけさせる。
「昨日の夜、誰かと会ったのか?」
無礼よりも何よりも。気になることを尋ねる。
起きぬけの彼女は質問の意図が読めなくて、怪訝そうな顔をした。
「聞いたことのない香りがする。男か?」
思い当たる節でもあったのか、蝋梅の表情が固まった。伏魔殿で生きる第二王子は、それを見逃さない。
「もう香を移しあう仲なのか?」
望は蝋梅の手首を掴んで持ち上げた。袖がずり落ちて、肌が晒される。鼓動が短く早く耳に響くのを感じながら、望はその滑らかな肌を頬に寄せた。そこからするのは、いつもの香り。
まだそこまでは侵されていないとわかって、少しばかり安堵した。が。
「殿下には関係のないことです! これは私たちの問題ですから、ご心配いただく必要はありません!」
殿下には関係のないこと。
私たちの問題。
頭から雷にでも打たれたかのような衝撃が、全身を駆け巡る。二の句がつげない。
心を真っ二つに割られて動けずにいると、蝋梅はそっぽを向いたまま口を尖らせた。
「匂いのことをおっしゃるなら、殿下だってお茶会だとかで、いろんな花の香りを漂わせていらっしゃるじゃないですか」
声が先細る。滅多に言わない恨み言に、望は目を見張った。
「気にしてたのか……?」
「いいえ、いいえっ」
勢いよく蝋梅は首を横に振る。明らかに動揺しているようで、視線が泳いでいる。
離れるように下ろす腕を、望は再び絡めとる。
「悪かった。ここに来てたのは、早く蝋梅の香に書き換えたかったからなんだ」
「……いつもの香を焚けばよろしいのですか?」
目を伏せて、何とか合わせないようにする相手。対して望は真っ直ぐに見つめた。
「蝋梅の香を移したいんだ」
「移すって、どうやって」
「こうやって」
可能な限り触れられるように。望は抱きしめる。
もう遅いかもしれないと、暗い考えが頭をよぎる。こんなことになるなら、もっと早く行動すべきだったのだ、と。
(我儘だ、俺。ずるいし。でも、ごめん。諦められない)
苦しいとか、意味がわからないですとか、想定していた返事は返ってこない。ゆるゆるとほんの僅か、体を離す。
すると腕の中には茜色に染まった小さな花がいた。染まり具合を慌てて袖で隠そうとするが、そうはさせない。
「あのさ、蝋梅、俺」
告げようとして、けれど目の前の表情が横の何かを気に留めて、冷えていくのに気がついた。視線の先を望も追う。
うっすらと。本当にうっすら向こうの窓を透かして、男の姿が見える。
引き締まった体躯の青年だ。男はにっかり笑む。
「俺は空気だ。甘酸っぱいものも砂糖漬けもどっちもイケる空気だ。続けてくれ」
続けられるか。闖入者を、望は全身全霊で睨む。
「誰だお前は」
「ええと、あれはこちらで保護している幽霊で」
腕の中で慌てて蝋梅が説明するのを、野次馬が声高に遮った。
「安心しろ、本体(仮)は水仙の部屋にあるぞ。彼女のところに置いておくと大変なことになると聞いたからな。あんたがそうか? 嬢ちゃんがえらくうっとりした顔で語ってたから、どんな男か気になってなあ」
身体は薄く、見えるかどうかも怪しいのに、自己主張だけは強い。
望は本人の申告どおり、水仙の部屋へと向かった。
(他人の部屋に勝手に入り込める男の幽霊なんて、危険すぎる)
つい、扉を叩く手が強くなる。中では、まだ集合時間じゃないわよね、と慌てる声。
横で陽の光にかき消えてしまいそうな幽霊が、すっと扉を通り抜けて入っていった。
自ら事情を説明したのだろうか。この馬鹿! と叫ぶ声。中から頭を抱えた水仙が、扉を開ける。望の顔を見て、大人しく道を開けた。
「邪魔するぞ」
蝋梅の部屋以外に入るのは、これが初めてだ。さすがに一人で入るのはまずいと、蝋梅を先にして足を踏み入れる。
すると、途端にむわっと例の香が襲いかかってきた。かなり重ねて焚きしめられている。
(これはまあ、香りがついてもしかたないな)
はっきりとした状態で嗅いで、確信する。これは心安らぐ香でもない。何か別の目的で使うものだ。
「これは?」
顔を顰めていると、蝋梅は傍らに並び立った。
「おそらく反魂香に類するものかと」
「反魂香だと……?」
反魂香と言えば、死者の魂をこの世に留めおくためのもの。
ひと息、ふた息と香りが鼻に馴染んでくるにつれて、件の男の姿がはっきりと見えてきた。
鍛錬をするかのような軽装から、鍛え上げられた体躯がわかる。眼は鷹のように鋭く、それでいて破顔すると少年のような人懐っこさを見せる。
いや、それよりも。望は目を見張った。
記憶の渦が、急激に逆流する。流されそうになる中で、ひとつふたつと拾いあげる。
小さい頃に遊んでもらった記憶。
剣の稽古をつけてもらった記憶。
碁を教えてもらった記憶。
温かな思い出だ。楽しかった。嬉しかった。心待ちにしていた。
その全てに、同じ人がいる。
「……叔父上?」
本当は、駆け出したい。駆け寄りたい。幼き日のように。けれど。鼓動が、警鐘となって頭の中を響き渡る。
「叔父上なのですか? なぜ、ここに」
声は険しさを帯びてゆく。望は蝋梅を後ろにやった。
「叔父? 俺が? お前さんは……」
透けたまなこに、望の顔は映り込まない。その分刻みつけるように強く、望は告げた。
「甥の望ですよ。呪いをかけた相手を忘れたとは言わせません」
「呪った? 俺が? 望? 俺は、俺は」
見開かれた瞳が揺れる。動揺にぐらぐらと。
知らぬ記憶を洗っているのか。忘れた記憶を探しているのか。
少しずつ、少しずつ揺れは落ち着き、焦点が合ってゆく。
「望」
心なしか低い声で、朧な男は名を呼ぶ。それは記憶の中の声と重なった。
「ちょっとちょっと何? 瓢箪がめちゃくちゃ熱くなってきたわよ!」
水仙は思わず手を離す。放り投げた瓢箪は、机の上に転がった。その拍子にか、ぽんとあれほど固かった口が開く。そうして虚像を勢いよく吸い込んだ。
あっという間の出来事に、皆その場で固まる。瓢箪は一気に男の姿を飲み込むと、元のように栓で蓋をする。そしてまた、ぱたりと動きを止めた。
固唾を飲んで見守るも、もうぴくりとも動かない。
「殿下、あれは本当にあなたの叔父上……長庚さまなのですか?」
沈黙を破ったのは蝋梅。望は混乱した声で返した。
「そうだ。見間違えるはずがない。少し若くはあるが、あれは」
後ろからひょいと望を追い越すと、蝋梅は瓢箪を拾い上げる。
「やめろ、何があるか」
止めようとするが、それより早く、ななつ星の星冠がきらりと光る。しばし見守っていると、ゆっくりと伏せていた瞼を上げた。
「呪いは変わらず感じられません。とはいえ、何か変化はあるのでしょう。……金華猫、あなたはこうなることを知っていたの?」
白猫は後ろ足で頭を掻いた。
「まさか。こんな面倒ごとに自分から首を突っ込んだりしませんよ。彼のことなら、晶華の端まで聞こえています。王とその子を呪い殺そうとしたのでしょう? 人ならざるほどの力で」
蝋梅が、窘めるように名を呼ぶ。望はそれを手で制した。
「私財は没収。可愛がっていた部下は左遷か辞職。方々遊び歩いていて、妻子を持たなかったのは幸いというべきでしょうか」
「ホント、よく知ってるのねえ」
水仙の一言に、金華猫は香炉に目をやる。まだ小さく開けられた穴から、細い煙が立ち昇っていた。
「衝撃的な事件でもありましたけどね、惜しむ声が多かったんですよ。先の戦でも先陣を切って戦い、民から人気がありましたからね。どうしてそんなことをしたのか、と」
「俺だって、叔父上に直接聞きたい」
干からびたような瓢箪は、何の反応もない。先程まで大の男が存在感を示していたあたりも、ただ反魂香だけが空しく満ちている。
蝋梅は目の端で窓の外を見遣った。日が、かなり高く昇ってきている。それに気づいて、望に目配せした。
「菊花さまにも報告して、経過を見ます。殿下はそろそろお戻りください」
「しかし、危険だ」
その細い肩に手をやると、真っすぐに彼女は見上げてくる。薄明の色が。
「危険だからこそ、殿下は近くにいらっしゃるべきではありません。何かあればここでくい止めます」
くい止める。
望の脳裏を、床に伏した彼女の姿がよぎる。いつ目覚めるかしれぬ眠り姫。
「蝋梅に何かあったら、心配なんだって」
「私はそのためにいるのですから、ご心配なく。それにかの方の霊は、明らかに殿下がきっかけで変異を起こしています。事態が詳らかになるまで、立ち入らぬ方がよいでしょう。殿下は他にすべきことがある。いたずらに時間を消費すべきではありません」
眉ひとつ動かさずに、蝋梅は言い切る。
心配が心の大半を占めてはいるが、ここに残ることで幽霊の存在が塔の外へ明るみにされるのは本意ではない。逡巡する手に力がこもる。それでも彼は振り絞るようにして言った。
「……必ず、経過を報せてくれ。蝋梅に話さなきゃいけないことがあるんだ」
「わかりました」
新しい霊符を、と彼女は小さな袋を渡す。望は古いそれと入れ替わりに、しっかりと懐にしまった。