49
腹の奥底から、大きなため息を吐き出して、水仙は欄干に体を預ける。ひっかけられた布団のように。
そうしていると、初夏の日差しがじわじわと水仙を熱した。
「ううー、菊花さま、私に補佐の補佐をとかおっしゃるけど、人使いが荒いのようー!」
ぶつぶつ愚痴っていると、どこからともなく白猫が現れて、その肩に乗った。
塔から出ることも、人間の姿になることも禁じられてはいるが、割ときままに生活している。
「もー、目が潰れるくらいのイケメンがどこかに落ちてたりしないー?」
くだをまくと、金華はてててと肩を通り越して、欄干に丸まった。
「落ちてたらどうするっていうんです。囲うんですか?」
水仙はずるずるとずり下がって、顔を金華の近くに寄せる。
「そりゃあ目の保養よ。ここにいる限り、別に落とそうとかじゃないの。どうせ見るなら、好みの顔を見た方が気分が上がるでしょ。私の住んでたところには、そんなにイケメンばっかりいなかったし、ましてやここみたいに、貴族とか王族なんていないもの」
まあそうですね、と金華猫は鼻を鳴らす。
「ここは、金に糸目をつけず、美しいものが集められますからね。ま、私にうってつけの場所というわけです」
ちょっとばかり自慢げだ。
胸を反らす猫に、水仙はにやりと笑む。
「でも、金華は自分の魅力だけで引っ掻き回したわけじゃないのよね」
「どういうことです?」
明らかに不満そうな声で、金華猫は問う。
「あなたの勝負は公平さに欠けるわ。だって魅了術なんて使ったら、その人の本来の魅力で惚れたわけじゃないじゃない。楽しさを追求するならいいのかもしれないけど」
「これも私の努力の結果ですよ」
「でも、心底惚れてるかって言われたら、術切れれば終わりでしょ? 使わなかったら落とせるの?」
売り言葉に買い言葉。
じゃあ使いませんよ、と金華猫は啖呵を切った。
「使わないで落としてみせます」
「え、やめてよ。塔の中ぐちゃぐちゃにしないで」
面白がって挑発したのが裏目に出たか。マズい、という顔で水仙は体を起こす。
「無分別なんて無粋な真似はしませんよ。怖い人がいますからね。これ以上首輪をきゅっとやられたら、死んでしまいますよ。でも、貴女ならどうです?」
人を狂わせる美声で、金華猫は囁く。
ただし、花朝節で一時的に許されたものの、未だ人の形を取るのは禁じられている。ゆえに見てくれは猫のまま。
いい声で囁く猫。
水仙は噴き出した。そのままわしゃわしゃと手触りのいい毛を撫でまわす。
「まったく、不便なものですねええ」
白猫は不貞腐れた。
「面白みの欠片もない。私は刺激を求めてここに来たんですよ?」
今度はこちらが、恨みがましくくだをまく。
「いいのよ、そんなの。御伽話の主人公になるより、平穏無事な人生を送れる方がいいわ」
そう言う水仙を目の端で見つめて。金華猫はふと何かに思い至ったように、目を見開く。
「貴女、イケメンが見たいんでしたよねえ」
「ええまあ、そうね」
ほんの数分前に、落ちてないかとかのたまっていたのは事実だ。
目を二、三しばたかせると、白猫は悪戯っぽく笑んだ。
「肉体派のとびきりのイケメンをご紹介しましょう」
すっかり夜の帳が下りた頃。
金華猫が指定した場所に三人は降り立った。
宮殿の中庭の最奥。灯りの灯された建物から離れ、木々に隠されたその場所は、ひときわ静かで目立たない場所だった。
とは言え、無許可でこの場所に立ち入るのは至難の業。それを可能にしたのは、怪我の癒えた槃瓠と、金華猫特製の謎の液体だった。
「これを飲めば、イケメンに会えますよ。ただし、長居は無用です」
どこかから取り出してきたそれを、水仙はねめつけた。
「記録に、金華猫の尿を飲むと、神隠しのように姿が見えなくなるとあったけど」
「そんな無粋なことはしませんよ。ただまあ、出所は秘密です。さあ、これを飲めば、安心安全に稀代のイケメンが拝めるのですよ」
ぐいぐい来る金華猫と稀代のイケメンに、水仙は屈した。
ぐいと飲み干すと、ややあって身体が透けてきた。
「やっぱり透明になってるじゃない!」
「すぐ効果は切れますから。さ、行きますよ」
金華猫が声をかけると、同じく透けた大きな犬が近づいてくる。騙された、と水仙は歯噛みした。
しかし、乗り掛かった船だ。中庭で水仙は拝むだけ、拝むだけ、と呪文のように唱える。
金華猫は、とある木の下で足を止めると、「香炉を」と抑えた声で告げた。水仙は手のひらに乗るくらいのその小さな香炉を、金華猫の傍らに置く。
香炉からは、控えめな木の香りが微かに漂っていた。しばらく置いておくと、僅かながらその香りが辺りに広がってゆく。
そこへ、一陣の風が吹いた。木の葉が、ざわりと揺れる。
「遅かったじゃないか、金華」
突然かけられた声に、三人は目を見張った。
夜に半分溶けたような姿で、香炉の側に青年が立っている。武人のようながっしりとした体躯に、精悍な顔立ち。そして夜空のような黒髪。
水仙は、口をあんぐりと開けたまま、この稀代のイケメンに見惚れた。百合に口を塞がれていなかったら、叫んでいただろう。過去一のイケメン、と。
ただし。蝋梅はじっと、肉体派イケメンを見つめる。
「身体が透けてる……」
夜に半分溶けたように見えるのは、比喩ではなく本当に背景を透かしているから。
水仙は今度は青くなった。それはまさしく天国と地獄。またもや百合がその口元を押さえた。
しかし本人は呑気なもの。いかにもいかにも、と鷹揚に笑ってみせた。
蝋梅はそっとイケメン幽霊に近づく。手を伸ばして、身体の見える辺りをかき混ぜてみた。勿論触れはしない。けれど、香の作用か、何かそこに存在しているような感覚があった。
「何となくだけど、敵意も邪念も感じ取れない。死後も残るくらいだから、何らかの強い思念があったのかと思ったんだけど」
「なんだ嬢ちゃんたち、金華から何も聞いては来なかったのか?」
頷く三人の傍らで、白猫はすまし顔。青年は苦笑した。
「あの者が月夜の下、中庭に漂う俺にまで色目を使ってきたのでな、せっかくだから飲み交わしたのだ。そうしていつか、話を聞いてくれる者をよこしてほしいと頼んでおいた。俺はこの庭から一人では出られんようだからな」
「聞いてないにもほどがあるわ。イケメンとしか教えられてないんだもの。宮殿のど真ん中だってことも」
口を尖らせる水仙に、青年はイケメンは合ってただろうとからから笑った。
「さて、本来ならここで名乗るべきなのだろうが、残念ながら俺は生前の記憶がない。そうだな銀華と。ひとまずそう呼んでくれ」
残念ながらというわりにはあっけらかんとしている。いや、そうせざるを得ないのか。
「では銀華。話というのは?」
さっそく、蝋梅は切り出した。
「いや、幽霊にはよくある話だ。俺はもう何年もここに留まっている。何をするでもなくな。何でかはさっぱりわからん。通りすがりの異国の霊に話してみたら、何か心残りがあって成仏できないのではないかと言われた。そいつの国では、死後の世界に行くことを成仏って言うらしい」
「なんてコミュ強なのこの幽霊……ていうか、そんなにここ幽霊が通るものなの?」
水仙は百合の背中に隠れて、きょろきょろ辺りを見回す。 木々のさざめきさえもが、疑わしくなってきそうだ。
銀華は、宮殿だからなあと、答えになっているのかわからない返事をした。
「だから、俺のことが見える人をよこしてくれたら、何か力になってもらえんじゃねえかと思ったんだ」
「ちなみに心当たりは?」
「酒と女」
きっぱり答える銀華。三人は顔を見合わせた。
「相手にしなくていいわよ、こんなやつ。ずっと後悔してて」
きっぱりすっぱり、水仙は言い切る。
「でも、ここにいるってことは、ここに何かあるんだよね。槃瓠、何か匂いとかでわかる?」
少し力を抑えて小さくなった槃瓠は、蝋梅と共に辺りを捜索し始める。その様子は、どこにでもいる犬のようだ。
水仙は屈みこんで金華猫に問うた。
「ねえ、猫の情報網に何かひっかからなかったの?」
「聞いてはみましたがね、ここの子は若い子ばかりで噂にもなってないそうですよ。そもそも私と違って見えませんしね」
私ただの猫じゃないんですよと主張する後ろで、槃瓠が足を止めた。前脚で地面をほりほりし始める。
蝋梅も落ちた木の枝で手伝った。
やがて何か硬いものに当たる。遺物を掘り出すように慎重に、一匹と一人は掘り進めた。
すると、茶色い土のこびりついた小さな酒瓶と盃が二つ、それから瓢箪が姿を現した。
「酒の方だったか」
銀華が感嘆の声を上げる。
「わからないわよ。呪いの類かもしれないし。庭に酒埋めるって、なかなかしないでしょ」
そっと、蝋梅は指先で触れる。
冷たいばかりで、呪いのようなどろりとした感覚はない。両手で持ち上げてぐるりと一周見てみるが、霊符の類も字もなかった。ちゃぷちゃぷとたっぷりと液体が入っている音だけがする。
「飲んで成仏しなさいよ」
水仙が指し示すが、飲めねえよと銀華は笑った。
瓢箪の方は、と蝋梅はこちらもはじめは探り探り触る。
こちらも嫌な感じはしない。からっぽで、お手玉できそうなほどに軽い。しかし、何か呪いとは違う不思議な感覚が手から伝わってきた。
(何だろう、これ)
こちらも何の書きつけもない。ただの瓢箪。だのに。じんわりと温かい。
「とりあえず、持って帰ってみる? ここじゃ暗くてよく見えないし」
百合は気乗りしない顔だが、蝋梅は一も二もなく頷く。槃瓠はあとしまつとばかりに、穴を埋め始めた。
その時。
「誰かいるのか?」
どかどかと足音が近づいてくる。おそらく警備兵だ。
「透明の効果が切れます、気づかれる前に早く」
百合と水仙は大型化した槃瓠の背へ急ぐ。
蝋梅も懐に瓢箪やら何やらを抱いて、それにしがみついた。
「槃瓠、違う方向へ。撹乱して」
槃瓠は力強く地を蹴り、一陣の旋風となる。塔とは逆の方向へ一旦飛んだ。
灯りを避けて、屋根の上を細心の注意を払って飛ぶ。夜も煌々と灯りを灯して権勢を誇る建物が多い中、柔らかな夜を過ごすそれへ、槃瓠は一旦降り立った。
「皆さま、大丈夫ですか」
そっと槃瓠が背中に問いかける。
水仙はぐるりと見回した。百合、蝋梅、金華猫、そしてふわふわとついてきている銀華。なぜついてこれたのか、という疑問はひとまず飲み込む。
「大丈夫よ、戻りましょう」
しかし。
「あら、本来の待ち人ではなかったけれど、珍しいお客さまね」
三人は一斉に声の方向を向く。
屋根のすぐ下で、灯りもなしにこちらを見上げる姿が一つ。昏い中でも、その鮮やかな赤の衣が目を引く。
「柘榴、さま……」
表情を凍らせる面々に対し、寵姫はころころと笑う。
「そんなに怖がらないで。あなたたちを兵に突き出す気はないわ。一度お話ししてみたかったの。降りてきてくださらない?」
たった一人、女官を連れただけで。艶やかな宮殿の華は笑んでみせた。