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畢方親子は朝を待ってどこかへ飛び去っていった。
一応鳥目らしく、夜はよほどいい温もりを求めないと飛びませんと言い切るので塔を仮の宿にしてもらったが、新しい情報は得られなかった。
「火難の予兆は消えて、今のところは目立った凶兆もないみたいだけど、檀に繋がる進展もなし、かあ」
水仙はため息を吐く。
その横で、蝋梅は目を閉じて手の中の瓶に意識を集中していた。ちかちかと頭上で星冠が輝いている。
「どう、呪の類は」
「特になさそう」
蝋梅は目を開けた。
「何です、それ」
水仙の膝の上で、金華が片目だけ開けて問うた。滅多に変身できないせいか、もはやただのしゃべる猫だ。膝の上でふかふかの毛並みを撫でられても、文句も言わない。
「昨日の火難の現場で押収された惚れ薬。出所が怪しいらしくて、一応呪いの類じゃないか見てほしいって言われたの。彼女の中に渦巻いていたのも、負の感情で檀ではなかったんだけど、一応ね」
「見たことない葉っぱの模様よね、この瓶」
ほら見て、と水仙は百合に手渡す。
繊細な線で、大ぶりの葉と楕円の実のようなものが描かれていた。
「何でも、異国で調合されたものだとか」
「金華、かいでみてよ。本当に惚れ薬なのか」
水仙は、金華の頬のあたりをわしゃわしゃする。
「嫌ですよ、そんなおもちゃの匂いなんて。鼻がおかしくなってしまいます。嗅ぐなら上等なお酒の匂いにしてほしいですね」
白猫は目を三角にした。
その横で、百合はぼんやりと瓶を眺めている。やりとりも聞こえているのかいないのか。
蝋梅はすすと近寄って、百合の目の前で手を振った。
「百合、どうしたの」
弾かれたように、百合は顔を上げる。ぎゅっと瓶を握り締めて、何でもないわ、と笑顔を作った。
星守補佐に渡しておくから、と言って預かった瓶を、百合は欄干にもたれて見つめる。
手に馴染む大きさのそれは、まるで百合の為にあるようだった。菊花はまだ戻らないから、急いで持っていく必要はない。
百合は目を伏せた。ちかり、ちかりと星冠が光って。
百合の眼前に少しばかり未来の光景が広がる。
黄昏の中庭で、王太子の笛を奏でる姿が、蜃気楼のように現れた。書類の積まれた机の前で話をする姿や、食事をとる姿、それぞれが場面を切り取るように現れては消えてゆく。同じ年頃の娘と親しげに話す姿も。
(また違う人)
百合は眉尻を下げた。
(いいな。私も、あんなふうに話してみたい)
見てしまえば羨ましくなる。でも見ずにはいられない。
いつもそのせめぎ合いだ。
最近、貴族の娘たちが招かれるお茶会が、前にも増して開かれているという。
へろへろになってやってきた望から、まぜこぜになった香が漂ってきて閉口したと蝋梅がぼやいていた。
(凌霄花は、うまくやってるのかしら。あの子、いつも私の後をついてきて……)
瓶を持つ手に、つい力がこもる。うまくいってほしい気持ちと、自分もそうありたい気持ち。
(ぐちゃぐちゃだわ)
ぐるぐる、ぐるぐる。
一人でいるとどうしようもなく沈んでいってしまう。
「どうしたんだ?」
そう下から声をかけられても、気づかないくらいに。百合は物思いにふけっていた。
声の主は何度となく呼びかける。そこでようやく百合は、自分が呼ばれていることに気がついた。身を乗り出すようにして下を見て。息を飲む。
普段小走りすることすらない廊下を、階段を、驚くくらい早足で降りた。
(うそ、うそ……)
心臓が、ありえないくらいばくばくと音を立てている。震える手で扉を開けた。
「王太子殿下!」
にこやかに。朔は微笑む。どうして、という問いが、口からこぼれ出た。
「弟は日参してるんだろう。たまには俺も来たっていいじゃないか」
ふわりと立ち昇る香は、確かに花朝節の時とは違う。どこか大人びた、優しくつつみこむような香りだ。
淡い青の瞳には、百合が映っている。こんなこと、滅多にない。
百合が言葉を失っていると、こういうことには慣れているのか朔は淡く笑んだ。
「ゆっくり話をしようって、言っただろう?」
正直なところ、社交辞令だと思っていた百合は面食らった。返す返事が、ふわふわとうわつく。
(話をしてみたいとは思っていたけど、いたけど! 心の準備ってものがあるの!)
先程までとは別の意味でぐるぐるしながら、百合は自室へと案内した。
「まぁた覗き見?」
後ろからひょいと水仙が顔を寄せてくる。
一日前の熱は丸一日経っても治まらず。浮かされたように欄干へと体が寄っていってしまう。そうしてぼんやりと、宮殿の方へと眼差しも心も吸い寄せられてしまうのだ。
けれど、今日は遠眼鏡ばかりで星冠は光らない。それほど集中力が維持できない状態なのだ。
「今日の百合、何か変」
水仙は額に手をやる。しかしすぐに、熱はなさそうねと首を傾げた。
「大丈夫よ、心配しないで」
いつも見ているからわかる。王太子殿下は特定の娘のところには通わない。だから、ここへ来たのも気まぐれ。
(悲しいけれど、願いは叶ったのよ。少しだけど)
「ならいいけど。百合も非番の時くらい、早く寝なさいよ」
「蝋梅はもう寝たの?」
「檀を爆散させる霊符を試作してるわ。ほっときなさい」
くすりと笑い合って、小さく百合は手を振る。部屋に消えた水仙を見送って、再び宮殿の方へ眼を向けた。
星灯りだけの夜は、遠眼鏡をもってしても望む姿を見ることは叶わない。
けれど、百合にはもっとよく見る方法がある。それがあまり褒められたやり方ではないと知りながら。
百合は星冠を煌めかせる。ほんの少しだけ先の未来。とっぷりと更けた夜の、朔の行く先を読見取ってゆく。
いつもならほんの少し、姿を見るだけだった。それ以上入り込めば、出て来れなくなりそうで。
しかし願いがほんのちょっぴり叶ったことで、百合の心は欲に傾いていた。
(もっと、あなたを見たい。知りたい)
向かった先は、柘榴の部屋。卓を隔てて、朔は笛を奏でている。
より気を高めれば、その音色すらも百合には汲み取れた。よく奏でている曲だ。
――ああ、母が褒めてくれた思い出の曲でね。
夢のような時間の中で、彼はそう答えた。
大事そうなその声音から、それがどれほど大切な曲かわかる。音色から、どれほど練度の高い曲なのかも。
ただし。目の前にいるのはその母ではない。義理の母として接してきた、新しい父王の妃だ。
百合は違和感を覚える。
じっと。百合は王太子の眼差しを見つめた。胸がどくどくと重く鳴る。ぎゅっと、袖を握る手が強くなる。
(見ては、気づいてはだめ)
頭の奥で警鐘が鳴る。けれど。
その潤むような眼差し。熱を帯びたそれに、百合は息を飲んだ。
ひどく寒い。夏も近いというのに、凍えるように寒い。
それから幾夜も、百合は他の逢瀬を覗いた。
いけないとわかりながらも、その扉の奥の、交わされる眼差しの温度を測ってしまう。向けられる熱の高さに対して。
甘い言葉を口にしながら、どこか冷めた目をした朔。
(あの方は誰も見ていない。誰も愛せない)
誰もかれも平等だ。
(それなら余計に、愛のない名前だけの妃よりも)
月のない夜に、ひたりひたりと百合は部屋の外に出る。
霞む夜空は、星の輪郭をやんわりぼかす。それでも星の神は、自分の欲のためにこの力を使っているのだと、見通してしまうだろう。
だとしても、止められない。
欄干に触れると、大きく息を吸って呼吸を整える。星冠に意識を集中しようとして。人の近づく気配にそれを止めた。
密やかに、まるで忍んで来るかのような足音だ。丁寧に気配を消して、息を潜めて。
夜とはいえ、そんなことまでする必要はない。けれど、その人物にはそれをするだけの理由があった。
声を上げかけて、百合は口を噤む。僅かな星灯りの下でもわかる。
直に見るその瞳は、これまでとは違う色を宿していた。