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空でも見上げるふりをして扉から顔を出す。その度に灯りを手に警備する兵の姿が目に入った。右にも左にも。
普段こんな、犬も歩けば兵にあたる、なんてことはない。
(それもこれも、妙な鳥が来たせいよ。余計なことしてくれたわね)
山茶花は心の中で悪態をついた。
同僚が見つけたという、一本足の鶴に似た鳥。凶兆でも出たのか、昨夜から急に警備が増やされた。
詳細は女官たちには知らされないから、わからない。が、怖いわね、と言うのは口だけだ。奥では女官たちが噂話に興じながら、せっせと刺繍に勤しんでいる。明後日までに作り上げなくてはならない分だ。山茶花もそう。
けれど針はいっこうに進まない。原因はわかっている。山茶花は目の端で、気取られぬよう捉える。
「えっ、嘘。早いじゃない」
「だって明日、連翹さまとお会いするんだもの。今日のうちに終わらせておかないと。お会いしてからじゃ余韻で手につかなさそうだわ。さ、そろそろ寝ないとお肌に悪いわ」
表情が緩んでたまらないその女官を、山茶花は睨んだ。
(なんて、なんて忌々しい!)
怒りにまかせて針を刺す。するといつも通りやっているつもりでも、どこか乱雑な模様になった。花朝節の前、いつ簪をもらえるかと心弾ませていたのが嘘のようだ。
いつ簪をくれるのか、焦れて自分から尋ねると、ごめんねというたった四文字で、関係は終わった。
若手の有望株だ。言い寄る娘などいくらでもいる。けれど、こんな近くに、自分の次がいなくても。
提出するに相応しくない刺繍に、目を落とす。こんな調子では間に合いそうにない。
(だって、明日あの娘がいない時間、二人は会ってるってことでしょ? 集中なんて、できっこない)
山茶花はこっそりと良縁を結ぶ霊符を取り出した。
もっといい相手が、これからいるのかもしれない。けれど今はかつての縁で頭がいっぱいだ。
(この縁が結ばれないのなら)
手で弄ぶ霊符が、手元を照らす灯りに近寄る。止めようとしっかと握って、動きが止まる。動きとは逆に、鼓動は体の中で大きく響く。
(あの鳥はきっと、凶兆なのよ。急遽警備を増やさなきゃならないくらいの、凶兆。なら、何が起こったって、あれのせい)
小刻みに震える手で、鋏を手に取る。震えを抑えるように反対側の手で包むと、懐に落とした。
そうして、霊符を小さな燭台の火に近づける。霊符はその薄さのせいか、手の震えのせいか、ぶるぶると揺れて炎を掴まない。
(せめて、これくらい叶えてよ)
そう強く念じると、ぽっと霊符の先端に火がついた。
(ああ、)
火が大きくなって、指を飲み込もうかと言う時、山茶花は手を離した。ぼとりとそれは作りかけの刺繍に落ちる。
「誰か!」
気が動転したように、机の上のものをひっくり返す。燃えてるわ、と叫ぶ声に、早く逃げてと背中を押した。
女官たちは我先にと扉へ向かう。山茶花はそれには目もくれず、一心に、灯りをことごとく倒しながら部屋の奥へと向かった。
完成した刺繍は、誇らしげに机に広げられている。それをひっつかんで鋏を入れようとした。
「はいちょっと待った」
声と同時に、力強く腕を掴まれる。誰にも掴まれたことがないくらいに強く。
その腕は警備の兵のもので。振り払おうにも払えなかった。
引きずられるように、部屋から連れ出される。目に入ったのは、既に火に対処している兵たちの姿と、廊下の向こうで目を凝らしている女官たち、そして星冠を浮かべた少女。
星冠の娘は兵に押さえていてくれるよう頼むと、失礼しますと言いながら、山茶花の懐から鋏を抜き取った。
ああ、と嘆息する間もなく、きらりと星冠がきらめく。すると、体がすっと軽くなったような気がした。ぐらぐらと煮えたつ鍋のようだった感情が、冷やされてゆく。
「火事の経緯を説明してもらおうか」
煌々と照らされる明かりの中で、問うてきたのは他でもない第二王子。いつもより険しい表情で睨んでいる。
「あの鳥のせいなんです」
温度を下げられた感情では、声からも熱が逃げてゆく。
それでも唇は保身の台詞を紡いだ。が。
「火をつけたのは鳥じゃない」
そう冷ややかに返された。
「盗られたんです、私。これくらい許されないと、報われません」
屈強な兵たちは、山茶花がどんなに身をよじろうとも離さない。山茶花はついにうなだれた。
力なく座り込む上で、「ひっぽーう」と声がする。聞き慣れないその声に、山茶花は顔を上げた。
暗い屋根の上に、大きな鳥がとまっている。細長い足に、首。鶴に似た鳥だ。しかし、思い描く鶴よりもひとまわりもふたまわりも大きい。
その瞳が、突如ぎらりと光った気がして、そしてそれが自分に向けられている気がして、山茶花はぶるりと震えた。何か、空恐ろしいものを感じる。
「何、何なの……?」
「あれは……」
その脇で、第二王子と星冠の娘は顔を見合わせた。
新たな来訪者は、姿形はそのままに、拡大してみせたような感じだった。
小さな畢方は、大きな畢方にぴょこぴょこと近づく。そうしていかにも親しげに擦り寄った。大きい方も、頭を下ろして顔を近づける。
「迎えが来てくれたのね」
と、水仙は喜ぶ。
「それにしても、よくわかったわね、ここだって」
大畢方は首をもたげて水仙の方を向いた。瞼を二、三瞬かせて、そうして嘴を開く。
「ああ、人には見えないのね。ここはこんなにも燃えているのに」
通訳しようとしていた金華は、目を見張った。話していると言うよりは、念を送ってくるのに近い。頭の中で僅かに反響するような音だった。
「こんな大きな焔なら、必ず惹かれてくる。そう思ったから来たのよ」
嘴は、宮殿の方向で大きく楕円を描く。
「燃えている……? どういうことだ?」
菊花は眉根を寄せた。
「宮殿全体が、黒い焔に巻かれている。幻想の炎は、執念や怨念でも灯るの。そして、想いが強ければ強いほど、力が強ければ強いほど、熱を帯びる」
あっけらかんと、大畢方は返す。さも当然と言わんばかりだ。
「何が原因か、わかるものか?」
「さあ。我々は暖かければ何でもかまわない。寒いのはごめんだ。こうして答えているのも、ここがそれなりに暖かいのと、きみたちが攻撃的でないからで、それ以上でもそれ以下でもない。ああでも一度、遠目に似たような色を見たことがある。きみたちが珠と呼ぶ国で燃えていたのを」
「珠?」
表情だけでなく、声音も厳しくなってゆく。
「ええ。すぐに見えなくなったから、暖を取りにはいけなかったけど。きっとあの燃え方なら、相当暖かいはず」
「いつのこと?」
矢継ぎ早に、今度は百合が尋ねる。
「つい最近のことよ。十回ばかり季節が巡ったかな」
一同は顔を見合わせた。ちょうど、珠が滅んだ頃だ。
「じゃあこれは、人間のものなのですか?」
大畢方は、答えを待つ蝋梅をまじまじと見つめた。見つめると言うより、観察していると言った方が正しいか。頭のてっぺんから爪先まで眺めて、そうして、まさか、といかにもおかしげに笑った。
「これほどまでに強いものを、生み出せるわけがないでしょう。……そういえば、あの国は変わった噂話があったわ。あの国の人間に惚れ込んで道を外した神がいるとか。よく知らないけど」
そんな記述どこにもなかったわよ、と水仙がぼやく。小畢方は眠たげに短く鳴いた。