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さて、と水仙はわざとらしく咳払いしてみせる。綺麗に整頓された部屋には、あちこちに庭の花が飾られて、香とは違った自然な香りで満たされていた。
「情報共有しましょ。まずは私からね。檀って名前からは手がかりなし。訳語でもないわ」
「こっちは、どちらも夜に接触してるところから、夜に関わっていたり、呪いに長けてる神、神獣、怪異を挙げてみたよ。鳴き声を上げるくらいのもあったけど、一応ね。でも、その出現も厄災の内容も、星守さまの星読見の結果と合致してる。つまり対処済み」
蝋梅は書き出した紙を出す。横で百合が、他国の記録を記した冊子を開いた。
「私は菊花さまのおっしゃるように、恨みに思う力が強い人間っていう線で」
珠、とひと回り大きな字で国の名が書かれている。美しい玉や宝石の産地で、小国ながら交易で富んでいた。そう続く解説の後に、幾人かの王と王族の名が、家系図のように記されていた。百合はそのうちの二人を指し示す。
「先の大戦の敵国よ。滅亡した珠の王妃に王女。ただ、全員故人だし、もう十年くらい経つけど」
王女の先に連なる名はない。王子らしき名の先にも。
「王子の妃は?」
「全員その場で処刑されたようね。玉神は星神の下につけられて、祭祀を引き継いでる。問題はなさそうだけど、力のある神としては最有力候補よね。本来祭祀をするべき王族がいないんだもの」
百合は頁を手繰る。
「……苛烈ね」
ぽろりと、蝋梅の口から本音が漏れる。
「それだけ星守さまがすごいってことよ。何ものも恐れる必要がない。それだけの自信を陛下にもたらした」
「今じゃ考えられないわねー」
大きく水仙は息を吐いた。可能性は少しずつ潰せてはいるが、決定打は何もない。空気が、次第に重く沈んでゆく。
「あー、ダメよダメ! 休憩しましょ。気分転換!」
水仙の提案に、蝋梅は乗った。
「あのう、二人とも、休憩がてら相談しても?」
二人は潔く本を閉じて脇へやる。蝋梅は、ちょっと片手間に軽い感じで聞いてほしかったなと思いつつも、続きを口にした。
「贈り物に悩んでいるのです。殿下から上衣をお借りして、汚してしまったので別のものでお返しをと思っているのですが、服は色々お持ちでしょうし、何を差し上げたらいいかと」
何でも喜びそう。そんな回答を飲み込んで、二人は顔を見合わせる。茶器? 香炉? と案を出すが、蝋梅は「形に残らないもので」と首を横に振った。
「どうして?」
「長く残るものだと、妃になられた方が気を悪くされるのではないかと……」
二人は再び顔を見合わせた。呪文のように、形に残らないもの、残らないもの、と反芻する。
「お菓子を作るのはどうかしら。たくさん作って、私たちも食べたらいいし。行き詰まった時は甘いものよ!」
水仙はぽんと手を叩く。お菓子作り? と残りの二人は目を丸くした。水仙ははっとする。
「もしかして、二人とも作ったことない?」
二人は同時に強く頷いた。
空の青が紫へ、そして濃藍へと変わっていく頃。三人は窓を開け放って、その側に机を寄せた。小さな燭台を中心に置くと、星明かりがひときわよく見えた。
とっておきの茉莉花茶を注ぐと、ひりついた緊張が和らいでゆく。中央には花や結んだ形の揚げ菓子が山と積まれていた。
「いい香りだな」
窓の向こうから声がかかる。菊花さま! と水仙が嬉しそうに身を乗り出すも、途中で固まった。
「星守さま!」
意外な人物の来訪に、残りの二人も窓から顔を出す。
夜闇を払うようにしてそこにいたのは、他でもないこの塔の主その人だった。祭祀の時に見せる涼やかな眼差しではなく、にこやかな表情で笑いかける。
「今は牡丹と、そう呼んでくれ」
かつて数多の貴族を虜にしたという微笑みは、いまだ健在。
「美味いな!」
菊花は皆が席に着くと、さっそく菓子に手を伸ばした。三人がめいめい皿に盛ったのを、順番に食べてゆく。
その横で小鳥が食べるように少しずつ齧りながら、牡丹も頷いた。
「うむ。皆で食べるのはよいな。久しぶりじゃ。こんなに大勢なのは、見習いの時以来かの」
「お二人はどんな見習いだったんですか」
忙しい二人の昔語りなど、滅多に聞けるものではない。ここぞとばかりに水仙は尋ねた。
塔を支える二人は、ふふと顔を見合わせる。
「牡丹には、はじめから勝ち目なんてなかったよ。完成された星冠。十の時には、既に次の星守と言われていて、事実遠くないうちにそうなった」
懐かしむように遠くを見ながら、菊花は語る。
「よく言う。菊花にはよく世話を焼いてもらったものじゃ。朝が大の苦手でな、いつも布団を剥がされて引きずり下ろされておったし、食べ物の好き嫌いも嗜められておった」
意外、と三人は目を丸くした。稀代の星守と名高い彼女は、近寄りがたい孤高の存在のように映っていたから。
牡丹は悪戯っぽく笑った。大人になると見栄っ張りになるのじゃ、と。くすくすと笑うその袖の影から細身の酒瓶が出てきて、三人は再び驚いたし、菊花は口元を引き攣らせた。
昔語りは杯が進むごとに饒舌になってゆく。教官代わりだった補佐がとても怖かったこと。塔に秘密基地を作ったこと。菊花が牡丹狙いの男たちに、勇ましく啖呵を切ったこと。
見習いの時の思い出を語る二人の顔は、まるで少女のようにきらきらしていた。
「星を読む以外、私は何もできなかったよ。見えるものを受け止めるので精一杯だった。それなのに、」
何かに思い当たったように、牡丹は目を伏せる。ちり、ちり、と燭台の炎が揺らめいて、その表情を揺すぶった。指先にはまだ揚げ菓子が摘まれているものの、口には運ばれない。
その口は、しばしの沈黙の後、言葉を続けた。
「避けようのない凶兆が見えた時、どの分岐を取ったとしても、行き着く先は同じだと、わかってしまった時。私は淡々と、命の期限を告げることができなかった」
「伝えねばならないことなのですか」
蝋梅の問いに、牡丹は浅く頷く。
「それが大事であればなおさらな。事実、陛下にとっては、何をおいても大事だったのじゃ。星を告げるのに、感情は必要ではない。受け止める必要もない。ただ、何が見えたか。それだけじゃ。数多ある分岐を、星の標を頼りに読み取ってゆく。しかし、幸せの中、死に怯えながら生きるのは辛かろうと、要らぬ気を回してしまった。国を拡げたばかりで気負う王、まだ幼い子ども。せめてその日までは、とな……」
菊花は窓の外へ眼差しを放り出していた。眉間に皺を寄せて。怒りではなく、やりようのない哀しさで。
「陛下や殿下からすれば、見殺しにしたと、そう思われても仕方ない。避ける方法を見つけ出せたのではないかと。私の落ち度じゃ。陛下の憎しみは、私が受けるべきものじゃ。皆には不便をかける」
牡丹は三人の顔を順ぐりに見ていく。その微笑みは、先程までの、咲くのが待ち遠しくて仕方ない蕾ではなく、盛りを過ぎて萎れてゆく花のようだった。
「ああ、せっかくの茶会に水をさしてしまった。菊花、とっておきは持ってきてくれたのじゃろうな」
まったく、とぶつぶつ文句を言いながらも、菊花は小さな包みから可愛らしい花菓子を並べてゆく。空になりかけた皿が、再び満開になっていった。
「わ、これ今流行のじゃないですか!」
「こっちが薔薇餡で、こっちが桃餡で……あ、こら独り占めするな!」
水仙とのやりとりに、牡丹は相好を崩した。
「見習いたちはどうじゃ」
星が見える角度を変え、再び皿も空になった頃。少し離れたところで、欄干にもたれながら星を眺め出した三人の背を見ながら牡丹は尋ねる。着々と成長してるよ、と菊花は口元を緩めた。
「そろそろ仕事を教えても良いかもしれんの」
牡丹の言葉に、教官役は再び表情を硬くする。
「……そうだな。もう、関わるなとは言い切れない状況だ」
「あの子たちを導いてやってくれ。それができるのは、そなたしかおらん。今も昔も、私は自分のことで手いっぱいじゃ」
菊花は別の杯に白湯を入れてやる。そうして、揺らぐ表面を眺めるばかりの牡丹の手に握らせた。ちびりちびりと、唇は白湯を吸う。
「知っているよ。妬み嫉みを黙らせるために、影で相当努力したこともな。だが、今そなたは星守だ。先導するのはそなたでなければ。妙な考えはおこすなよ。最近よく部屋に籠ってるが」
「ただの調べものじゃ。皆頑張ってくれているのに、私だけいつも通りというわけにはいかんじゃろう」
牡丹は空を見上げる。飽くほどに眺め、その深遠までも読み取ろうとしてきた星々を。
最後に、ただ綺麗だと純粋に眺めたのはいつだったかも思い出せない。そこにあればどんな意味をもたらすか、探らずにはいられない。
隣で菊花も、星を見上げた。
かつて見習いだった二人と同じ星を、現見習いもまた眺めていた。
静かな空だ。悪意も妙な動きも見当たらない。ただひとつの夜。
平穏無事な空模様の下で、水仙が切り出す。
「流れ星に繰り返し願いごとをすると叶うって言うでしょ。二人だったら、何をお願いする?」
夜風に吹かれながら、蝋梅は二度、三度と瞬く。
「何だろう。……わからないや。そういう水仙は?」
問い返されて、冬の花の名の少女は、はにかんだように笑む。
「私は、今のまま楽しく過ごせたらいいなって。二人がいて、星守さまや補佐や、塔の皆がいて……。笑って過ごせたらいいな。だって、家族みたいなものでしょ」
そういう願いもあるのか、と蝋梅は少しばかり年上の少女の横顔を目の端で見た。情に厚い、彼女らしい答えだ。
今度は百合の番と言わんばかりに、彼女は反対側を向く。百合はしばらく逡巡して、そうして口にした。
「私は……星守になりたい」
辺りを憚るような抑えた、それでいて意思のこもった強い声だ。けれどその注意は空ではなく、宮殿の方に向いている。
「また王太子殿下の部屋の方見てるの?」
水仙が小声で尋ねると、百合は頬を色づく程度に染めた。
「何か凶兆が見えるの?」
身を乗り出し目を凝らすが、王宮の方に凶兆は感じられない。未熟ゆえに見えていないのかと、蝋梅は顔を強張らせた。百合は慌ててその袖を引いた。
「ち、違うわよ。そうじゃなくて、その…時々、夜に部屋を抜けていかれる殿下が見えて……」
ちり、と星冠の端々がきらめく。水仙は顔をしかめた。
「そんなの見ない方がいいわよ……。誰かのところに通ってるんでしょ?」
「うん。苦しいんだけどね」
百合は困ったように笑う。
「目で追っちゃうのよね。つい。お姿が見えた時の嬉しさがあるから。私は、行き先の候補にすらなれないのにね」
虚しい言葉は、夜に溶けてゆく。
蝋梅は無意識のうちに袖を握った。けしてひとごとではない。空虚さは蝋梅の胸のうちにも巣食っている。それがまだ、朝を迎えて望に会えることで抑えられているだけ。
(でも、いつかは。ううん、そう遠くない未来、お会いするべきではなくなる)
今は側に感じられる熱も、眼差しも、すべてが遠ざかる。その時自分はどうするのだろう。蝋梅はぶるりと震えた。
「蝋梅が、羨ましいわ」
冷めた声音に、どきりとして百合の方を向く。
星明かりが、月明かりが、妖艶さを演出させるのか。どこかいつもよりも大人びた表情で、百合は視線を流してきた。
星が遠くで瞬いている。百合の視線は、天上へは向かない。
返す言葉を失って、蝋梅は空を仰いだ。北極星の近くに、自らの冠を構成する星を探す。見慣れたそれはすぐに見つかった。
(私は、何を願おう。……もしも、叶うなら)