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蝋梅の枝の下に、彼女は立っていた。陽光のもと、その肌は透けてしまいそう。桜桃の唇は柔らかく微笑んで、呼びかけた。
殿下。
はらはらと花が溢れ落ちて、視界を遮る。するとつられて彼女もほろほろと蝋梅の花と化し、溢れていった。甘やかな香りが、体を包み込む。ああもう彼女は、花になってしまったのだ。身体の一片も残さずに。
慌てて抱きしめようとする腕からすりぬけて、花は地面に降り積もる。花弁はひどく冷たくて。膝をついて崩れてゆく花弁をさらう。花の名を、喉が枯れるほど呼びかけて。返ってくることがないとわかっていながら。何度も、何度も。
朝、目が覚めると目元が湿っていた。何度も見ている夢だ。
小さい頃の方が、怖い夢の種類は多かった気がする。怪物に追いかけられるとか、狙われるとか。母の手が固く開かなくなったとか、叔父から喉をかきむしりたくなるような呪いをかけられたとか。
ひとつひとつ、蝋梅が丁寧に祓っていったから。他の夢は怖いものではなくなった。
蝋梅がいなくなったら。
(多分、今一番恐れてることなんだろうな)
夢だとわかっていながら、早く確かめずにはいられない。そこに確かにいるのだと。
(今日は槃瓠から話を聞く前に、怪我の具合も見ておかないと)
目の届くところに、置いていると思っていたのに。少しも届かなかった。いともたやすく手は空を切って、彼女は攫われた。
後悔は、してもしきれない。けれど、後悔に囚われるより乗り越える努力をするべきだ。
彼誰時の鍛錬場は、まだ見分けるような相手はいない。望の振るう剣の音だけが、静かに響いていた。新たにかけた負荷の重さに、身体のあちこちが痛い。
昼間付き合ってくれる将軍にも、無茶はするなと念を押された。それでも。
ビン、と突いた剣が震える。
(あれは、まだ本体じゃない)
対峙した呪いは、槃瓠にかけられたもの。それであの強さであれば、本物はもっとだ。
上段に蹴りを放つ。雑念を振り払い、強く強く。
呪いの恐ろしさを、望は身をもって知っていた。
五年前の、あの青天の霹靂。
水の中に引き摺り込まれたみたいに、突然自由を奪われた。息すらもうまくできない。あまりの苦しさに、もがいてもがいて。それでも助けてくれる手はなく、それでいて底も見えず。ただただ沈んでゆく。
周りの阿鼻叫喚が、壁を隔てた向こう側のことのように聞こえる。
――長庚さまの呪いだ! 今際の際に王族を呪うと!
――星守さまは?
――陛下と王太子殿下で、手いっぱいだそうだ。
――ありったけの霊符を、祈祷を!
――我らも離れよう。巻き添えをくうぞ。
どうして。
怒りや憎しみよりも、疑問と悲しみが先行する。叔父の人懐こい破顔した顔や、稽古をつけてくれた剣の感触。それらが現れては沈んでいった。この儚くも消えたものは一体何だったのだろう。沈みながら望は思う。
命を燃やし尽くす呪いは重く、浮上できる気配はなかった。
(ああ、こんなにも呪いは辛いものなのか)
蝋梅の苦しみが、ようやくわかる。意識を早く手放してしまいたくなるほどの。救いを望むことすらも放棄したくなるほどの。
沈んでゆく。呪いの底へ。
くるしい、つらい、かなしい。
(約束を、破ってしまうな)
呪いの底へと沈むにつれて、光は失われ、目を開けているのか閉じているのか、わからなくなってくる。けれども、蝋梅の顔を描こうとした水面に、望は小さな小さな星を見つけた。
砂粒かと思うほどそれは細か。もう手を伸ばすのも億劫だ。それでも星の輝きは、看過できないほどに強くなってゆく。
(星守さまだろうか)
助けるのなら、兄を優先してください。
言葉が発せられるかどうかもわからない喉で、そう伝えた。すると、こんな時までお人好しですねと、星は笑った。
よく知っている声だ。意識の片隅で、名を呼ぶ。
(蝋梅)
星は優しく強く、望の意識を掬いあげた。
必ず、お守りします。そう耳元で声がする。
久方ぶりに息らしい息を吸えた時、視界に飛び込んできたのは輝く剣を手にする蝋梅だった。
七色に輝く星冠を背負って、神々しいそのさまは、これまで見た誰よりも鮮烈で美しかった。膝をついて縋らずにはいられないような。
「蝋梅」
彼女がいなければ、今ここに、自分はいない。
けれども彼女自身は、自分を助けた後、何日も目覚めなかった。あんなにも苛烈に救っておきながら、一人倒れていたのだという。
息をしているか、何度も確かめた。眠る彼女の手に、そっと指を這わす。柔らかく、そして温かい。また、生きている。無理を言って、夜かたわらで起きるのを待った。
ようやく弱々しい声を聞けた時、自分が解放された瞬間よりも嬉しかった。
彼女は神なんかじゃない。それでも強くあろうとしている。自分ではなく他人のために。淀みを引き受けて抱えながらも、その光で隠している。それなら誰が彼女の支えとなれるのか。
(できるならそれは、俺でありたい)
その気持ちは、五年経ってよりいっそう強くなっていた。
夜の明けるのは日ごとに早くなってきている。群青は次第に空の奥へ奥へと押し込められ、黄金色の光が差し込んでいた。
宮殿内も人の動きが忙しなくなる。望は身支度を整えると、鍛錬場を出た。向かう先はいつも同じ。
「おはよう蝋梅」
朝日を浴びて、髪がきらめくのが眩しい。夢で見るよりもずっとずっと。
「おはようございます、殿下」
本当は抱きしめたい衝動を、望は抑える。花と化してしまわないか、確かめたくてたまらない。
部屋へと誘うのにかこつけて、そっとその背に触れた。花は溢れてこない。風に流れてしまうようなことも。当然と言えば当然なのだが、望はそれにほっと息をついた。