38
ぬらぬらと、天幕の中を灯りが這う。広いそこにいるのは、晶華の王と、もう一人だけ。
そのもう一人は、常に王に寄り添う寵姫ではなかった。簡素な衣を身につけた女官。それでも、華やかな異国情緒あふれる顔立ちは、どこか目をひく。そして何よりも目立つのは真紅の瞳。
外は宴もたけなわ。情熱的に愛を夜に溶かしているが、二人の間にその気配はない。むしろ、冷たさすらあった。
「柘榴の様子はどうだ」
そう尋ねる眼光は、壮年となった今、若い頃よりも凄みを増している。
「落ち着いています。医師の見立てでは、昼間の疲労は見られるものの、問題はみられないと。今は王太子殿下とご歓談中です」
「あれには母親も同然だからな。気にしておるのだろう。それに比べて望の方は……働きはともかく、見習いを下げ渡してほしいなどと不快にさせる。まったく、あのまま始末されてくれればよかったものを。見習いひとり消えたところで、貴族連中は何も言わぬ。むしろ、星守の面子が大いに潰れただろうに。なあ、檀」
不機嫌そうに、今代の王は言う。檀と呼ばれた女官の方を、見向きもしない。手元で弄んでいる胡桃を眺めていた。
「故郷の術とやらは役に立っておるが、気の回らないことよ。同郷の柘榴とは随分と違ったものだな」
檀の方も、返答もせず、そして表情ひとつ変えず、ただただ傍に控えている。まるでそこに常に置かれた家具のように。しかし、王はそれを気に留めることもない。
「お前も見ただろう。あれの舞は宝よ。しかし徐々に体が弱ってきておる。医者にも手を尽くさせてはいるが、もっと良い手段があると思わぬか」
「もっと良い手段、ですか」
ようやく檀は、反芻する。
「そうよ。星守が妃のかかる病を占えば、それを片端から潰してゆけばよいだけのこと。あれは占いの為におるのだぞ。占わずに何とする。しかも正妃の時、そうせずに失敗したというのに、一向に色よい返事をせぬ」
王は胡桃を皿に投げつける。籠に盛ってあった胡桃の一つが、音を立てて籠から飛び出した。
「よいか、もっと星守を揺さぶるのだ。わしの言うことを聞くようにな。こんどこそ、わしは柘榴を守ってみせる」
濃赤の衣を震わせて、目の前の女性は笑っている。なめらかなその生地は、最高級の素材と職人によって、その名を表す衣に仕立て上げられている。
はじめ、他の正妃の座を狙う妃たちが真似をしたが、王は眉を顰めて一蹴した。柘榴が纏うからこそ映えるのだ、他の者ではただ着せられているだけよ、と。その鶴の一声で、後宮の誰もがその色を着ることはなくなった。
ただ一人にのみ許されし色。夜、王に侍ることを許された、唯一の妃。
いつかは飽きるだろうと、五家の貴族たちは娘を差し出す。そのどれもを王は断った。
蠱惑的な紅榴石の瞳に真珠の肌。彼女が鈴のような声で笑うたび、金の耳飾りがしゃらしゃら鳴った。いつも彼女は楽しそうに話を聞く。だからつい朔も小さい頃から寝る前に話をするのを楽しみにしていた。
「まあ、意外とわからないものなのね」
昼間の入れ替わりの話に、柘榴は目を丸くした。
「ええ、でも弟のお気に入りの花には、すぐに見破られてしまいましたよ」
「まあまあ、真実の愛とはこのことを言うのかしらね。他にはどなたも気づかなかったの?」
朔は、柔らかな栗毛の少女を思い浮かべる。思わず二度見するほどの美しさと、恋に恋するような少女の瞳。
「いえ、他にもう一人だけ。望よりも僕派の星守見習いがいてくれましてね」
「よかったわ。きちんと本当のあなたを見分けられる方がいて。何という名前の花なのかしら」
(本当の、俺?)
王子。
その肩書はあまりにも大きすぎて、自分を覆ってしまうほど。核となるべきは自身のはずなのに、外骨格だけでなく芯までもが侵食されてしまいそうになる。王子としてどうあるべきか。皆の理想が、色眼鏡となって間に入る。
(どうして、わかったんだろう。うまく演技できているはずなのに)
「どうしたの?」
柘榴が心配そうに顔を覗き込んでくる。衣がこすれ合って、果物のような甘酸っぱい芳香が鼻をくすぐってきた。朔は思考を振り払う。
「百合と。五家の出ですから、星冠がなければ妃の有力候補の一人だったでしょうね」
なるほど、と柘榴は小さく二度、三度頷く。そうして悪戯っぽく微笑んだ。
「もしかしたら、あなたが初恋だったのかもしれないわね。初恋は、どこか特別なものだから」
「……そうかもしれませんね」
初恋。
朔は目の前の柘榴を見つめる。
(花、というよりも、熟れた果実のようだ)
花はどんなに匂い立とうとも、手折って愛でるだけ。では果実は? 口に含んで果汁を啜る。そこまでがひとつながり。
朔は気取られぬように唾を飲み込んだ。