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当然のように蝋梅を抱きかかえ、星守の天幕に向かう望。それを蘭とその父・白将軍は見送った。蘭はどことなく腑に落ちた表情で、白将軍は戸惑ったような顔で。
「父上、殿下の妃の話ですが、殿下の希望に沿うようにお力添えいただけませんこと?」
「しかしなあ、それは俺なりにお前のことを考えているんだ。王妃になれば気苦労は絶えない。あの競争下には置きたくないんだ。それでも家のため、王族には嫁いでほしい。殿下はできた方だ。寵愛する者がいたところで、辛い思いはさせないだろう」
蘭はことさらに驚いたように目を丸くした。
「まあ、そんなことで? 将軍位にありながら野心が足りませんわ。父上、わたくし父上と同じように、兵たちも大事な家族同然だと思っておりますわ。それを守るために、より適切な地位があると思いませんこと?」
「まさか、」
白将軍は声を上げかけて、慌てて飲み込む。そうして側まで寄ると、小声で先を続けた。
「未来の王妃になるとか言い出すんじゃないだろうな」
その言葉に、蘭はにんまりと笑んだ。
「そのまさかですわ。そのために、殿下には大きな恩を売っておいた方がいいと思いますの。他の方のように、まだ希望を捨てずに第二王子妃にしがみつこうとするより、切り替えていくべきですわ。彼女ならば、どこの家が力を持つということもありませんし」
蘭の胸のうちは、台風一過の青空のように澄み渡っている。
彼女が初めて妃候補だとされた時。
彼は上手に表情を作り上げ、その場をやり過ごした。他の貴族と違って、品定めするでもなく。
「わたくしも王太子妃候補の集まりに行きたいんですの。勝手にこちらに組み入れられましたけど、どうせ嫁ぐなら、格上の王太子妃、なおかつ正妃になりたいですわ。これくらいでよろしいかしら」
どうぞと彼は、表情も変えずに言う。互いに興味は平行線。はじめは、まだお互い幼すぎるのだと思ったし、周りもそう評した。それでもいつかこの人と連れ添うのかとぼんやり思ってはいたけれど。
状況が大きく変わったのは、年が変わる前のこと。正妃にしたい人がいる。そう、彼ははっきり口にした。
「貴族の取り決めだ。正式なものではないが、周りも含めてそのつもりでいるかもしれないから断っておきたい。すまない」
彼の言う通り、言ってしまえばただの下馬評だ。
――青家が王太子妃、白家が第二王子妃。順序は揺らぎませんわ。
そう決めたのは五家の面々。情勢が変われば入れ替わることもある。わざわざ謝罪することではない。
律儀な人、と蘭は嘆息した。
「まあ、わたくし心の狭い人間ではありませんのよ。愛妾が何人いてもかまいませんわ。正々堂々。我が家の家訓です。陰湿に苛めたりするつもりもございません」
いささか大げさな言い回して、相手の様子をうかがう。
「殿下も、五家をいくつ取りこめたかが大事でいらっしゃるのではありませんか。王太子殿下よりも、多く。それがわからぬほどの方ではありますまい」
「妾を迎えるつもりはない。駒取り遊戯をするつもりもな。王は兄上。その下に五家が集うべきだ」
表情は変わることなく落ち着いている。兵たちといる時とも、娘たちといる時とも違う。
「陛下はご承知なのですか」
最後の一手に、相手は緩くかぶりを振った。
「いや、成さぬなら妃も迎え入れないつもりだ」
「固いお覚悟でいらっしゃるのですね。ですが、わたくしとて家が、兵がかかっておりますの。剣をお取りになって。不敬をお許しくださいませ」
勝てるはずもない。蘭はそう確信していた。
一度たりとて、演習で望が勝ったことはない。その結果を知っていてなお、彼は剣を取った。いつもとは逆の、左手で。
蘭は一瞬目を見張ったが、愛用の剣を手にすると、ゆっくりと構える。それを待って、彼は動いた。
一瞬のことだった。剣撃も眼光も、これまで感じたことのない鋭さで。それは龍の爪か虎の牙か。手には、剣を弾かれた感覚と重みしか残っていない。離れたところで、からからと剣の落ちる音がした。
将軍にも伝えておくと、彼は言って踵を返した。
それほどの人なのか、と。去ってゆく背に残念に思うよりも、蘭はむしろ興味がわいた。余程の傾国なら、愚かな男だったと笑えばいい。それとも、違うのか。
上から下まで、蘭は探した。どんな人物なのか、知りたくて。それでも、見つかることはなかった。こんなところに隠していたなんて。
蘭は自分を庇った背中を思い出す。傷だらけの体も。おそらくこの場にいる娘たちには、誰も真似のできないことだろう。
(ああ、とても清々しい。それに比べて)
蘭は奥の方の天幕に目をやる。ちらと、王妃と話をする朔が見えた。望以上に美しく躱してゆく王太子。つかみどころはまるでなく、こちらは相手でも探すかのように花から花へ味見してゆく。
「手ごわそうですが、やりがいはあるというものですわ」
不敵に、蘭は笑った。