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林を出ると、そこには後から追ってきたらしい蘭と兵たちが待ち構えていた。蘭の周りには、さすがというべきか、武装した侍女が二人控えている。兵たちに先んじて、蘭が馬から降りてかけよった。
「殿下、すぐに手当を。この者たちには心得がございます」
「待て」
望は抱えていた蝋梅を下ろす。自分で歩けると蝋梅は何度も申し出たのだが、顔色が悪いの一点張りで、聞き入れられなかったのだ。
「こちらが先だ。兵たちに肌を見せるわけにいかない。俺が衣を広げているから、その中で処置してくれ」
「なりません、殿下が先です!」
さすがにそれは譲れない。蝋梅はぶんぶんと首を振った。が、望も負けてはいない。
「何言ってるんだ、お前が先だ!」
互いに相手が先だと睨み合っていると、見守っていた蘭がそれを引き剥がした。
「殿下、ここはわたくし付きの侍女にさせますので終わってからお越しください。あなたの部下が、あちらで手ぐすね引いて待っておりますので」
蘭の指し示す方を見れば、鍛え抜かれた肉体美の持ち主数名が、薬や布を持って待ち構えている。蘭が目配せすると、見事な連携で望を連れ去った。悲鳴のような声が、聞こえたような聞こえなかったような。
さて、とようやく落ち着いたところで蘭が話しかけてくる。蝋梅はつい身構えた。お付きの者は、てきぱきと無言で手当てをしてゆくのみ。つまり、会話は実質一対一。
「先程はありがとうございました」
蘭は礼をする。蝋梅はと言えば、彼女の侍女にされるがまま。服を剥がされ、傷の処置がされてゆく。
「貴女、あの狼……」
「槃瓠です」
「そう、槃瓠と戦ったんですの?」
はい、と蝋梅は頷く。
「単身で?」
「はい」
「どうして、そんなことができたのです? わたくしは、恥ずかしながらあの巨躯を前に、足が竦んでしまいましたわ。普段から武芸に親しんでいながら、いざという時にあの体たらく……。怖くはなかったんですの?」
蝋梅はその時のことを思い起こす。が、無我夢中だったせいで、思考まではっきりとは覚えていない。とにかく、守りたかった。ただそれだけ。
「おそらく私は、自分が死ぬより、守れない方が恐ろしかったのです」
蘭は静かに蝋梅を見つめていた。そんなに見つめられては、居心地が悪い。敵意があるわけでもなく、ただただ見つめられる。衣服も侍女たちの手で真新しいものに替えられて、何だか妙な感じだ。包まれる匂いがまったく知らないもの。
蝋梅は自由になった方の手で、望の上衣を手繰り寄せた。上から羽織ると、少しだけ慣れた匂いに戻る。
「お強いんですわね。貴女」
蝋梅は首を振った。強いなんて。
「……そんなことありません。剣もまともに扱うこともできずに、結局は殿下の手を煩わせてしまいました。その上、怪我まで……」
少し離れたところから、望の叫び声が聞こえる。もうちょっと丁重に扱えとか、傷に染みるとか。
「蘭さま、折り入ってお願いがございます。蘭さまは武芸の心得がおありとか。私も、剣を振るえるようになりたいのです。しかし、星守見習いに武芸はご法度。ですので体を、剣に負けないよう鍛えたいのです。よい方法を教えていただけませんか」
蝋梅は頭を下げる。蘭はぱちりと扇を閉じた。ふるふると、その手元が震える。どうかしたのかとこっそり顔を覗き込もうとすると、いきなり両手を掴まれた。
「ああ、何て健全な魂なのでしょう! わたくし感激いたしましたわ。わたくしの筋友になるに相応しい!」
「きんともとは……?」
その勢いに、蝋梅はうろたえる。
「筋肉を、そして健全な肉体を共に高め合う友人ですわ! おまかせください、蝋梅さま。必ずやわたくし、お力になりましょう。先程、勝負を申し込んだ無礼をお許しくださいます?」
「ええと、そもそもよくわからなかったですし、あなたと争わなくて済むなら、それに越したことはありません」
どんな反応が正解かわからずに、頭が混乱してくる。しかし、とにもかくにも、蘭は微笑んだ。
「まあ、寛大な方!」
艶美な花だ。蘭が微笑む様子に、蝋梅はどきりとした。仕草の一つ一つが洗練されている。髪のかき上げるさまも、口元を扇で隠すさまも、ぴんと伸びた背筋も何もかもが絵になる。
望の手当てが終わったのだろう。蘭はごめんあそばせ、とその場を後にして話しかけに向かう。望はそれに気づいて、彼女の愛馬まで送っていった。
(こういうことか)
――蘭様くらい。家柄も容姿も文句ない方が妃になられるならいざ知らず。
他の娘たちからそう言われたのを、蝋梅は思い出す。陛下と王妃。並び立つ二人には、高貴な雰囲気が漂っていた。そういったものが、二人には感じられる。それでも。
(私の急な頼みごとにも耳を傾けてくださる気さくな方だし、鍛錬にも余念がない。美しいだけじゃない。きっと、殿下を支えてくださる)
そんなことを考えているうちに。どういうわけか、胸がきゅっと苦しくなってきた。
(何だろう)
蝋梅は目を逸らす。
(さっき殿下の呪いを吸い上げたのが、うまく発散できてないのかな)
神経を研ぎ澄まし、体の中のそれを祓おうとする。が、気が散るばかりでうまくいかない。ぎゅっと、望の服の袖を握った。
(疲れてるのかな。もう少し休んでからもう一度やってみよう)
もう髪ももとのように結い直されている。蝋梅は、蘭のお付きの娘たちに礼を言って、その場を後にした。
百合や菊花と、早く合流しなければ。そう思って、二人を探していると、兵の一人が慌てて馬を引いてきた。
「どうぞこちらへ」
兵が手を取ろうとするが、途中でぎこちなく固まる。視線の先を辿ると、蘭といたはずの望が蝋梅の方へ向かってきていた。
「お勤めご苦労。あとは俺がやるから」
そう言うと、望は軽々と蝋梅を馬に乗せ、その後ろに自分も乗る。
「蘭さまはよろしいのですか?」
慌てて蝋梅が尋ねるも、望は不思議そうな顔をした。ああそうか、と蝋梅は気づく。
「殿下、負傷こそしていますが、手当は済んでいますから、私はひとりでも平気です。どうぞお気になさらずお戻りください」
張りのある声に聞こえるように、精一杯返す。
「気にならないわけないだろ。お前はもっと、自分を大事にしろ」
「殿下こそ。単騎で先駆けるなど、何かあったらどうするおつもりだったのですか」
「蝋梅が心配だったんだから、仕方ないだろ。お前の代わりは、誰もいない」
「殿下の代わりだって、いらっしゃいません」
馬上でお互い睨み合う。が、望はやめだとかぶりをふった。
「とにかく休め。天幕まで送っていくから。お前、俺の代わりに霊符を通じて槃瓠の呪いを受けてただろ。顔が真っ白だ」
そう言うと、蝋梅の体を倒して自分に預けさせる。起こそうにもしっかりと抱きしめられていて、離れられない。
「天幕で一人休むのと、今休むのどっちがいい」
怒っているような、呆れているような声だ。けれど、それに口元が緩む。蝋梅は観念して胸元に顔をうずめた。ほんのりと漂ってくる、花の香り。お揃いだと評された、あの。
「では、お言葉に甘えて少しだけ」
馬の揺れと望の体温で、次第に瞼が重くなってゆく。本当に少しだけで起きられるか、心配になってきた。それくらい、心が安らいでゆく。蝋梅は望の懐あたりの服を握った。