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蝋梅に弓と矢筒を持たせて下がらせると、望は剣を抜いた。金属の擦れ合う音が、鋭く響く。
「勝負をしよう、槃瓠。俺が勝ったら、蝋梅のことは諦めてもらう。もちろん、他に代償を求めることも」
「この牙を爪をかいくぐり、倒せると?」
言葉を交わせるほどに、狂化はおさまってきたらしい。
「倒せるかどうかじゃない。倒すんだよ」
怒りを押し殺したような声に、蝋梅は驚いて望を見た。背を向けている彼の表情はわからない。が。
「殿下、御身に何かあってはいけません。ここは私が」
「やらせてやりなさい。男の矜持というやつですよ。馬鹿馬鹿しい」
止めようとする蝋梅の足に、金華猫は猫がするようにまとわりついた。
「私、耳がいいんですよ。話はひととおり聞かせてもらいましたし、殿下と共有もしています。あれらは、王子や獣の立場を超えて、ただ自分を納得させたいだけなのです。目標は違うのに、それだけは一致している。ちょうどいいじゃありませんか」
望は間合いを詰めると、牙を避け、槃瓠の身を焦がす呪いを削いでゆく。猛る呪いは盛り返そうとするが、相手はただの剣ではなく、破邪の宝剣。刻んだ呪いの再生を許さない。
「おや、なかなかの剣捌きですね。単騎で先行した時はどうなることかと思いましたが、追加の援護は必要なさそうじゃありませんか」
金華猫は目を丸くして、蝋梅の腕に飛び乗る。蝋梅はそれを抱きかかえた。
「殿下はお強いですよ。並の将軍では太刀打ちできないほどに」
「なら、貴女も座って休んでいたらいかがです? その怪我では辛いでしょう」
その言葉に、蝋梅は微かに笑んだ。
「私が膝をつけば、殿下が気を取られてしまうでしょう。お優しい方ですから。隙を生む行動はとりたくありません」
意識は、戦う望へ。もっと言えば、彼の持つ霊符へ。彼の身を、散った呪いから守るよう集中する。どうか、どうか、彼が蝕まれて苦しむことがないようにと。ぞぞ、ぞぞ、と寄る辺を失った呪が集まりだす。傷ついた体に、次第に負荷がかかってくるのを、蝋梅は感じた。傷の痛みよりもはるかに重く。
(こんなものを抱えていたら、苦しいに決まっている)
そう槃瓠の心情を慮りながら、表情が歪みそうになるのを必死でこらえた。
その様子を、金華猫は背中で感じていた。けれど、振り返ったりはしない。そんなことしなくても、長く生きた分だけ本来目には映らないものが彼には見えてしまうし、苦しげな呼吸だってわかってしまう。
しばらくそれを捉えていた耳が、ぴくりと別のものに反応する。その向いた方から、菊花と百合が草をかき分けて現れた。菊花は蝋梅を見るなり眉間の皺を深くし、百合は悲鳴にも似た声を飲み込んで、蝋梅の肩を抱いた。
「援護を」
すぐさま霊符を取り出そうとする菊花を、蝋梅は制した。
「殿下は勝ちます」
望の方は鋭い牙も爪も受け流し、攻撃を続ける。槃瓠とて、やられっぱなしではない。獣の五感を総動員して望に襲いかかる。
望は地に、木の幹に叩きつけられ、牙や爪で裂かれながらも、何度も立ち上がった。長引けば、ただの人間である望の方が不利。次第に剣先が鈍る。それでも歯を食いしばって剣を振るった。
槃瓠の体は、もう普通の狼ほど。足取りも威嚇も、体が小さくなるにつれてどこか躊躇いがちになっていった。やがて、完全に止まる。どうっと地面に倒れ込むと、毛並みはぺたりとおとなしくなった。
「もうとどめをさせるころでしょう」
腕の中で金華猫は冷めた声で言う。望はひとつ深呼吸して、剣を構えた。剣先を槃瓠の喉元へ向ける。が、そこでぴたりと止めた。
「とどめをささぬのか」
槃瓠は苦しげな息遣いをしながら、望を見上げる。
「俺は勝負をしただけだ。お前が負けを認めて矛を収めれば、それで話は終わり。お前の命を絶たずに話がつくなら、その方がいい。ただ、また呪いにのまれるなら、仕方ない。ここでとどめをさす」
丸いビー玉のような瞳が、天色の瞳を覗き込んでいる。もはや辺りの木々は怯えるのを止め、さらさらと風を通すのみ。望は言葉を続けた。
「俺は、自分の運命を呪わずに受け入れた人を知ってる。お前も呪に打ち勝ってその先を新たに生きるなら、最後は自分で消さなきゃならない。でないと、何度でも狙われる」
「私は、こうなりたかったわけではない。なぜ受け入れてくれぬのか、悩み、苦しんだ。でも、殺したいわけではない。むしろまだ、彼女の幸せを願っている……」
槃瓠は体を起こすと、深々と首を垂れた。
「時間を、いただけませんか。昇華する時間を」
望は剣を下ろして後方に目をやる。目のあった菊花が進み出た。
「そなたは、そなたに呪いをかけたものを見たか?」
問いかけに槃瓠は頷く。
「はい。檀と名乗っていました。良い木の香りをさせた、身なりのよい女です」
百合と蝋梅は顔を見合わせた。名は重要な情報だ。菊花も大きく頷く。
「そなたに呪いが残っているのは、こちらとしても好都合だ。何か手がかりが掴めるやもしれんからな。殿下、ここから先は星守の塔で預かりましょう。念のため霊符は貼らせてもらいます。それにしても、あそこは動物園ではないのだぞ……」
最後の方は愚痴になってはいたが、それでも前進だ。望は剣を鞘に収めた。
ようやく張りつめていた緊張が解けてゆく。その足に槃瓠は鼻先をつけた。
「私はあなたさまに負けました。これより私の主人はあなたさま。残りの命、すべてお使いください」
金華猫は呆れたように息を吐く。
「生真面目ですねえ、あなた。だからいいように使われるんですよ。この男だって、あなたを従えた功績でもって立身出世を目論んでいるだけかもしれません」
「構わない。私への処罰も、いくらでも受けよう」
塔の保護下に入る二匹は、どうにも水と油であるらしい。百合と蝋梅は、顔を見合わせた。間に菊花が入って、話を切る。
「処罰云々はひとまず後だ。戻るぞ」