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大きく跳躍したのち、槃瓠は駆けた。猛り狂う竜巻のように。しかし、それは長くは続かない。次第に息を荒くすると、ついには足を止めた。
身を隠せるほどの木々の中、蝋梅を放り出すと地に伏せる。そうして苦しげに唸った。
(まだ術の効果が残ってるんだ)
しかし、頼みの綱となる菊花の霊符は、破けてしまっている。やぶれかぶれでも再度術をかけるのは難しそうだ。
蝋梅は、痛みをこらえながら起き上がると、槃瓠、と名を呼びかける。槃瓠の片耳が、ぴくりと反応した。
「……我が妻はどこだ。どこへ隠した」
こちらもぐっと前足に力を越えて体を起こす。
「隠してなどいません。ただ――彼女は戸惑っているのです。あなたの姿が、記憶とあまりに変わっているから」
「記憶と違わずとも、彼女たちは遠ざけた」
嘆きも哀しみも怒りも、一緒くたに混ざった低い声だ。
「それとも、お前が我が妻になるというのか。彼女の代償に。我が怒りの鎮静に」
どろりどろりと、毛先から呪いに染まった気が溢れている。望まぬ狂化は、彼をも苦しめているのだ。周囲の木々が、恐れ慄いているのを肌で感じる。それほどまでの強さ。
「……そうしたら、彼女のことは諦めるんですか。今後被害を出さず、立ち去ってくださいますか」
槃瓠の呪いの毛先は、ぱちりとはねた。答えは返ってこない。
「あなたの気持ちは、おさまるのですか」
ややあって、大きな牙を隠した口が、僅かに開いた。否、と。
爪で地面をかき、土を抉り取る。牙を剥き、木の幹に突き立てる。バキリとそれほど細くない幹が、顎の力で割れた。それを吐き出して、彼は倒れ込む。
(たぶんだけど、衝動を抑えようとしてる?)
「私は、」
荒い息の合間に、意志ある言葉を彼は紡いだ。
「私は、希望を持ってしまったのだ」
半分開いた瞼から、瞳を覗かせてくる。そこに映るのは、澱んだ呪いではない。
「欲しかった。あの方の心が。けれどそれは叶わなかった。狼の首を持って行った時の、あの表情で悟ってしまった。そもそも私は、希望を抱くに値しないのだと。嘆き、悲しみ、そして怒った。守れもしない約束と、それに浮かれた自分に」
「あなたの呪いは、あなたの気持ちを吸い上げて、そうして矛先を求めているように見えます。破壊はあなたの本当の望みですか。あなたは満たされるのですか」
「……否。私は、こんなことを、したいわけでは……しかし」
揺らぐ呪いの炎は、勢いを取り戻そうと抵抗する。
「これが、私の正気を阻む! 怒りを、恨みを、正しきものだと! あの方を思い起こす度に、忘れるなと、燃え広がる!」
呪いの焔は勢いを増す。目に狂気が宿っているのがわかった。
(もう、言葉は効かない)
覚悟を決めて、蝋梅は意識を集中する。星冠をきらめかせ、七つの星で剣をかたどった。ここで止めねば、また人々を襲うだろう。両足に力を込めて、剣を掲げる。
その瞬間、呪いの塊が突進してきた。剣で受けるが、簡単に跳ね飛ばされる。全身がひりひりと、ずきずきと痛んだ。が、目を閉じてはいられない。のたうち回りながら、槃瓠は体を木に擦りつける。すると、残っていた霊符は完全に取れた。
雄叫びだろうか。槃瓠はひときわ大きく声を上げる。びりびりと枝葉が揺れた。
もう一度、と蝋梅は剣を構える。
(こんなことなら、もっと体を鍛えておけばよかったな)
振り下ろすだけではどうにもならない相手は、これが初めてだ。しかし、大きくかぶりを振って、思考を振り払う。
(そんなこと考えてる場合じゃない。少しでも、呪を削る!)
迫り来る牙を、再び剣で受ける。刃のない剣は呪いを削ぐも、その量は僅か。拒絶する鼻先で、また吹き飛ばされた。痛みで体がすぐに動かせない。
(弾いてもあまり削れない。腹の肉でも食べさせている間に、体に剣を刺せば、そこから解呪できるか……?)
蝋梅は体を晒すように、上段に構える。
その時、風を裂く音がした。鈍い音がして、槃瓠に矢が刺さるのが見えた。二本目、三本目と、矢は続く。その数九本。
巨体に対して、矢はあまりにも細い。しかし、槃瓠は体をくねらせて拒否反応を起こした。よく見れば、矢で霊符が縫い止められている。
「蝋梅!」
駆け寄ってくる望の姿に、蝋梅は目を見開いた。
「殿下」
確かめるように、望は蝋梅を強く抱きしめる。何も解決してはいないのに、どうしてか蝋梅の心に安堵が広がった。
「遅くなってすまなかった」
ぱっと腕を離すと、望は上から下までざっと目視で確認する。衣があちこち破れ、土や血がついているのに、唇を噛んだ。すぐに自分の上衣を脱いで、蝋梅をくるむ。蝋梅は慌てた。
「殿下、お召し物に汚れがついてしまいます」
「いいから」
すっぽりと包み込んでくる上衣は、ほんのりと望の匂いがする。蝋梅は胸元で端を握り締めた。
「私もいるんですけどねえ」
足元で恨めしそうな声が上がる。望も息が上がっていたが、こちらもそう。蝋梅は礼を言った。
その後ろで、槃瓠がまた苦しみ始める。燃え盛る呪いが、毛先からぱちぱち弾けて散っていく。少し、また少しと巨体は縮んで、人間よりひとまわり大きいくらいまでになった。
「星守様が遠隔で霊符を発動してくださってるんだ」
「人間の分際で、なかなかやるものですねえ」
金華猫は憎まれ口を叩く。
「でも、ここからはこっちで引き受けるさ」