表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/123

32

 大きく跳躍したのち、槃瓠は駆けた。猛り狂う竜巻のように。しかし、それは長くは続かない。次第に息を荒くすると、ついには足を止めた。

 身を隠せるほどの木々の中、蝋梅を放り出すと地に伏せる。そうして苦しげに唸った。

(まだ術の効果が残ってるんだ)

 しかし、頼みの綱となる菊花の霊符は、破けてしまっている。やぶれかぶれでも再度術をかけるのは難しそうだ。

 蝋梅は、痛みをこらえながら起き上がると、槃瓠、と名を呼びかける。槃瓠の片耳が、ぴくりと反応した。

「……我が妻はどこだ。どこへ隠した」

 こちらもぐっと前足に力を越えて体を起こす。

「隠してなどいません。ただ――彼女は戸惑っているのです。あなたの姿が、記憶とあまりに変わっているから」

「記憶と違わずとも、彼女たちは遠ざけた」

 嘆きも哀しみも怒りも、一緒くたに混ざった低い声だ。 

「それとも、お前が我が妻になるというのか。彼女の代償に。我が怒りの鎮静に」

 どろりどろりと、毛先から呪いに染まった気が溢れている。望まぬ狂化は、彼をも苦しめているのだ。周囲の木々が、恐れ慄いているのを肌で感じる。それほどまでの強さ。

「……そうしたら、彼女のことは諦めるんですか。今後被害を出さず、立ち去ってくださいますか」

 槃瓠の呪いの毛先は、ぱちりとはねた。答えは返ってこない。

「あなたの気持ちは、おさまるのですか」

 ややあって、大きな牙を隠した口が、僅かに開いた。否、と。

 爪で地面をかき、土を抉り取る。牙を剥き、木の幹に突き立てる。バキリとそれほど細くない幹が、顎の力で割れた。それを吐き出して、彼は倒れ込む。

(たぶんだけど、衝動を抑えようとしてる?)

「私は、」

 荒い息の合間に、意志ある言葉を彼は紡いだ。

「私は、希望を持ってしまったのだ」

 半分開いた瞼から、瞳を覗かせてくる。そこに映るのは、澱んだ呪いではない。

「欲しかった。あの方の心が。けれどそれは叶わなかった。狼の首を持って行った時の、あの表情で悟ってしまった。そもそも私は、希望を抱くに値しないのだと。嘆き、悲しみ、そして怒った。守れもしない約束と、それに浮かれた自分に」

「あなたの呪いは、あなたの気持ちを吸い上げて、そうして矛先を求めているように見えます。破壊はあなたの本当の望みですか。あなたは満たされるのですか」

「……否。私は、こんなことを、したいわけでは……しかし」

 揺らぐ呪いの炎は、勢いを取り戻そうと抵抗する。

「これが、私の正気を阻む! 怒りを、恨みを、正しきものだと! あの方を思い起こす度に、忘れるなと、燃え広がる!」

 呪いの焔は勢いを増す。目に狂気が宿っているのがわかった。

(もう、言葉は効かない)

 覚悟を決めて、蝋梅は意識を集中する。星冠をきらめかせ、七つの星で剣をかたどった。ここで止めねば、また人々を襲うだろう。両足に力を込めて、剣を掲げる。

 その瞬間、呪いの塊が突進してきた。剣で受けるが、簡単に跳ね飛ばされる。全身がひりひりと、ずきずきと痛んだ。が、目を閉じてはいられない。のたうち回りながら、槃瓠は体を木に擦りつける。すると、残っていた霊符は完全に取れた。

 雄叫びだろうか。槃瓠はひときわ大きく声を上げる。びりびりと枝葉が揺れた。

 もう一度、と蝋梅は剣を構える。

(こんなことなら、もっと体を鍛えておけばよかったな)

 振り下ろすだけではどうにもならない相手は、これが初めてだ。しかし、大きくかぶりを振って、思考を振り払う。

(そんなこと考えてる場合じゃない。少しでも、呪を削る!)

 迫り来る牙を、再び剣で受ける。刃のない剣は呪いを削ぐも、その量は僅か。拒絶する鼻先で、また吹き飛ばされた。痛みで体がすぐに動かせない。

(弾いてもあまり削れない。腹の肉でも食べさせている間に、体に剣を刺せば、そこから解呪できるか……?)

 蝋梅は体を晒すように、上段に構える。

 その時、風を裂く音がした。鈍い音がして、槃瓠に矢が刺さるのが見えた。二本目、三本目と、矢は続く。その数九本。

 巨体に対して、矢はあまりにも細い。しかし、槃瓠は体をくねらせて拒否反応を起こした。よく見れば、矢で霊符が縫い止められている。

「蝋梅!」

 駆け寄ってくる望の姿に、蝋梅は目を見開いた。

「殿下」

 確かめるように、望は蝋梅を強く抱きしめる。何も解決してはいないのに、どうしてか蝋梅の心に安堵が広がった。

「遅くなってすまなかった」

 ぱっと腕を離すと、望は上から下までざっと目視で確認する。衣があちこち破れ、土や血がついているのに、唇を噛んだ。すぐに自分の上衣を脱いで、蝋梅をくるむ。蝋梅は慌てた。

「殿下、お召し物に汚れがついてしまいます」

「いいから」

 すっぽりと包み込んでくる上衣は、ほんのりと望の匂いがする。蝋梅は胸元で端を握り締めた。

「私もいるんですけどねえ」

 足元で恨めしそうな声が上がる。望も息が上がっていたが、こちらもそう。蝋梅は礼を言った。

 その後ろで、槃瓠がまた苦しみ始める。燃え盛る呪いが、毛先からぱちぱち弾けて散っていく。少し、また少しと巨体は縮んで、人間よりひとまわり大きいくらいまでになった。

「星守様が遠隔で霊符を発動してくださってるんだ」

「人間の分際で、なかなかやるものですねえ」

 金華猫は憎まれ口を叩く。

「でも、ここからはこっちで引き受けるさ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ