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「蝋梅!」

 全速力で走りかけて止めた。あの速さで、追いつけるはずもない。

 周囲の時はまだ茫然として止まっていた。近くに繋がれていた馬も、怯えてまだ走りそうにない。

 望はそのうちの一人の兵の肩を強く叩く。ようやく彼ははっとして望を見た。

「馬を用意しておいてくれ」

「殿下はどちらへ」

「星守補佐に場所をうかがってくる。すぐに発てるようにしておいてくれ」

 来たときは早足だったのが、全力で野を駆ける。

 星守の天幕へ転がり込むと、予測されていたのか、星守の元へすぐに通された。星守から直接占われるのは、国の大事か王族のこと。蝋梅が国の存亡にでも関わらない限り、占ってはくれないだろう。それはよくわかっている。

 望は逸る気持ちを押さえて、膝をつく。

「蝋梅の場所は、星守補佐が導くじゃろう。金華猫も連れてゆくがよい。役に立つ」

 厳かな声ではあるが手短に、星守は告げた。それから、と控えていた見習いに目配せする。しずしずと近づいてきたその両手には、ひと振りの剣が捧げ持たれていた。

「破邪の宝剣じゃ。損壊の咎はこちらで負う」

 望はそれを受け取る。星守所有の刻印はない。

 そもそも、彼女たちは武器を持たない。神の加護という最大の武器を持つがゆえに、反逆を許されぬのだ。例外があるとすれば、殺傷能力のない木剣。しかしこれは、本物だ。ずしりとした重みが、手に伝わってくる。何か、得体の知れない気配も。

「僭越ながら申し上げます」

 望は首を垂れた。

「私が優先するのは、蝋梅の救出。事態の収拾は二の次です。咎はこの身に受けましょう」

 しゃらしゃらと、星守の簪についた細工が音を立てる。

「宝剣は、害する目的のものにはその真価を発揮せぬ。だからこそそなたに託した。あれは見習いにして、我が妹、我が子にも等しい。ただの私情じゃ」

 さあ、行け。

 促されて望は勢いよく立ち上がる。天幕の外には菊花が金華猫を連れて、既に待機していた。

 目を離してはいけなかったのだ。いついかなる時でも。彼女は自分よりも他人を優先してしまうから。

 十年前、彼女を塔に連れてきた時。呪に魘されながら、彼女は口にした。

 苦しい、と。そして、早く消えてしまいたい、とも。

(それが本当の願いなら、なんて酷なことだろう)

 それから二年近く経ってからも。変えられはしなかったのだ。望は過去に思いを馳せた。

 あの日は、さらさらと柔らかな音が続いていた。

湿った頁をめくって、望は顔を上げた。もうこれから暗くなろうというのに、朝からの糸雨は止む気配はない。

「雨はいつ止む?」

「三日は止みません」

 傍らで同じく本を読んでいた蝋梅は、ひと呼吸おいて答えた。ちかりと星冠が光る。

「雨に流されるのと、鳥の血肉になるの、どちらも辛かろう」

 窓の外を見遣ってそう呟くと、彼女は窘めた。

「殿下、発言に気をつけてくださいませ。王宮では、関係者がいないか血眼です」

「雨で聞こえないさ。お前が言わなければわからないよ」

「告げ口するかもしれません」

「そんなことしないだろ」

 そんな性根の曲がった人間でないことは、よくわかっている。むしろ、少し曲がってくれても構わないくらいに、真っすぐだ。だから、顔色をうかがうようなこともせず、窓の向こうを眺める。

 その先には、先の騒動で処刑されたものたちがまだ晒されているはずだ。

 叔父上、そうぽつりとこぼす。

 突如として数名の大臣を味方に王位簒奪を試みた、王弟。戦で多くの武勲を立て、人気は王と並ぶほど。

 他国の踊り子であった柘榴を妃とするのを反対したり、平和な世になり不要とされた兵の待遇改善を訴えたり、王と意見を違えることはあったものの、叛意があるようには見えなかった。むしろ、国をよくしようという気概に満ちていた。望にもあれこれと世話を焼いてくれる、気さくな叔父だった。だのに。

 死の間際、残る王族に深い呪いを吐き出した。望や、兄に対しても。

 なぜ、なぜ。問うても答えは出ない。

「帰りたくありませんか」

 腰を上げようとしない望に、蝋梅は直球を投げてくる。

「そういうわけじゃないが」

 本に栞を挟むものの、閉じる気が起きない。蝋梅の方は、立ち上がると裾を翻した。ふわりと花の香りが後を追う。

「では今晩、星図の整理の手伝いをお願いできますか。許可は貰っておきます。見習いのする手習いですから、機密でも何でもありません」

「そんなもの、いつも一人でやってるだろ」

「ここに紙と筆を置いておきますね。それから綴じる糸です」

「聞いてるか?」

 望の返事を待たずに、蝋梅は星守補佐の元へ向かい、許可を取りつけてきた。悪態をつきながらも、望は蝋梅を手伝う。

 蝋梅はずっと、何も聞かなかった。何日でも。友人とは、何もなくても来るものなのでしょうと。

 それまで、朝の鍛錬の前に来ていたのが、昼間の勉学の時間にもこっそり来るようになった。時々、城下で売られている菓子付きで。

 使いのものが、第二王子が来ていないか尋ねに来ても、蝋梅は何食わぬ顔で知りませんと言い切った。

「兄上の警護が固くなった」

 連日、曇り空が続き、昼にしては暗い中で、蝋梅は表情を変えることなく聞いている。猫撫で声ですり寄ることも、耳ざわりのいいことを言うこともない。代わりに、静かに窓を閉めた。

「俺とも、目を合わせようともしない。疑心暗鬼になってるんだ。周りが煽るのもあるんだろうけど、伯父上が、そんなふうに思っているなんて、考えたこともなかったから。衝撃的だったんだろうな。人が変わったみたいだ」

「だから、ここでサボっていらっしゃるのですか。王位を囁かれないくらい暗愚に見せると。うまくいくでしょうか」

 蝋梅の推察に、望は思わず苦笑いを浮かべた。星はそんなことも見通せるのだろうか。

「やりぬくしかないよ。俺は兄上と、あんなふうになりたいわけじゃない」

 もう、雨の音はしない。鳥はどこまで食べつくしただろうか。叔父の体に染み込んだ怨念までも飲み込んで、空を覆うつもりなのか。

 生まれる前、双子の自分たちは、魂さえも一つだったに違いない。二つに分かたれて、肉体で隔てられて。そうして年月と共にまったく別のものになってゆく。望はか細く息を吐きだした。なんと、残酷なことか。

「お茶でもいかがです」

 蝋梅は空になった椀に茶を継ぎ足そうとする。

「もらおうかな」

と返すと、緑色の茶がなみなみと注がれた。うっすら湯気の立つ先に、なめらかな髪が揺れる。つい、名がこぼれた。

「蝋梅」

 呼ばれて彼女は、いつもと変わらぬ静かな表情で、それでも決意に満ちたような声音で言葉を紡いだ。

「私は友人であると同時に殿下の剣です。殿下をお守りする以外に、選択肢はありません。あなたが覚悟を持って進むなら、私もそれに従います」

 望にかけられた呪は、もれなく彼女が解いた。強力な呪だった。退けた彼女にもかなりの負担だったろう。何日もこんこんと眠っていた。その中で。彼女は塔に来た時と同じ言葉をこぼしたのだ。どちらも眠りの中でだ。

 人には言うこともできずにいた思い。恨んで、恨んで、恨んで、憎めばよかった。その資格があった。自分の境遇を、運命を、人間を、神を。

 しかし彼女はそうはしなかった。ただ泡のように消えることを望んだ。他人のことは守ると、強く口にしておきながら。

 彼女が初めて笑った時。本当に微かな微笑みで。それでもようやく彼女に温かなものを宿すことができたのだと、嬉しかった。

 食事の量が増えて、結い上げられるほど髪が伸びて。霊符や破邪の術も扱えるものが増えていって。自分の学んだ学問を真剣に吸収しようと、質問攻めにしてきたりして。それに負けじと自分も勉強してみたり。時には喧嘩もして話さないくせに、義務感で顔を出す日もあったりして。

 楽しかった。自分自身が、蝋梅といるのが楽しかった。そうして、朝日の中でいってらっしゃいませと送り出す彼女の手を離すのが、たまらなく苦しくなっているのに気づいた。

 反対に、眠る時に、朝が来て蝋梅に会えると思うと、胸が躍った。

蝋梅だけが、心安らげる止まり木だったのだ。村から連れてくる途中、望は一枝、蝋梅を手折った。あの枝が今、ここで育っている。

(他の手で手折らせるものか)

 かつて心に刻んだ決意を、望は今一度刻みなおす。先行する馬上には望と金華猫。そしてやや遅れて菊花が続いていた。

 兵が続いてくる様子は今のところない。無理もない。守るべきは王や貴族たち。本当は、望もこの場にいるべきではないのだろう。

 しかし、望の優先順位は違う。彼女が他を守るなら、自分が彼女を守るまで。

(無事でいてくれよ、蝋梅)

 林の向こう。星守補佐の示した先に、禍々しい気が立ち昇っているのが目視できる。望は手綱を握る手に力を込めた。


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