30
菊花たちと別れて、望は将軍の避難している天幕へと足早に向かった。半歩後ろを、蝋梅は小走りでついて行く。
「殿下の分、菊花さまのお作りになった霊符を預かっています。お持ちください」
礼を言って、望は受け取る。一瞬、思うところのあるような顔をした。
「あのさ、」
言いにくそうに、言葉を続ける。
「金華の時もいただいただろ、霊符」
魅了術から望を守って燃え尽きたのだと、後で蝋梅は聞いた。霊符がそんな状態になったのを、ついぞ見たことはない。生半可な霊符では、神霊に太刀打ちできないのだ。
「お前からもらったやつは、残ったんだ。そのおかげで、最後まで意識が保てたんだと思ってる」
「私の執念が勝ったのですね」
毎日念入りにチェックして、定期的に交換しているのだ。アフターケアは万全だ。
「執念かどうかは知らんけど。それはお前が持ってろ。俺にはこれがあるから大丈夫だよ」
ぽんぽんと、蝋梅謹製の霊符が入っている辺りを、望は指で示す。
「はい。精進しますね」
蝋梅は頬を緩めた。体を支配していた緊張が、少しだけ和らぐ。(そういうお人だ。殿下は。いらっしゃるだけで、心強い)
そう思いながら望の横顔を眺めていると、それに気づいた望は、照れた表情を隠すように、話を変える。
「いいか、俺より前に出るなよ?」
「お約束できかねます」
「ダメだっつの」
そうこうしているうちに、二人は白将軍の元へとたどり着いた。 将兵たちの中でも飛びぬけて大柄な彼は、遠目からでもわかる。怪我の治療状況や薬の受け渡しをする声が飛び交う中で、望はすぐさま本題に入った。
「白将軍、兵を借りる。早急に練度の高い兵を選抜して、霊符でガチガチに固めてくれ。やつを消耗させたい」
「承知しました」
将軍も即座に左右に命じる。その傍らに、軽装になった一人の女性がいた。花簪は取ったのだろう。しかし、溢れ出んばかりの美貌はそれをものともしない。手の空いている兵は、ちらちらと彼女の様子をうかがっていた。その彼女が、つかつかと蝋梅の前に歩み寄る。
「初めまして。白蘭と申します」
この方だ。
薄ぼんやりとしていた星読の中で見た彼女。それが今、目の前で何年か越しに話しかけてきている。
(この方が、殿下の隣に並ぶ方)
運命との邂逅に、ちかちかと細かな星が瞬くようだ。
「蝋梅と申します」
そう告げると、存じ上げていますわ、とぴしゃりとした声が返ってきた。
「かねがね白黒つけたいと思っていましたの。お会いできて嬉しいですわ」
辺りから、どよめきが起こる。蘭さまに勝てる相手なんているのか、俺たちだって勝てないのに。そんなさざめきが広がった。
「白黒?」
「ええ。外野の声というものがありますでしょう」
彼女は肩をすくめる。
「蘭、彼女は」
望が間に入ろうとするが、蘭は手にしていた槍でいとも簡単にそれを止める。
「わたくしたちの間のことですわ。殿下は口出し無用です」
冬眠から覚め、餌を探すヒグマの如き眼光に、辺りが震える。と、それとは別の空気を震わす声が響き渡った。低い低い、槃瓠の唸り声た。まだ完全ではないものの、術を打ち破ろうとでもしているようだ。
「まずい、まだ準備ができてないぞ」
白将軍が部下をせかす。向こうで、退避だ、退避だと叫ぶ声と悲鳴が混じり合った。
バチン、と雷が弾けるような音が轟く。
「術が、破られた……!」
望の背に庇われながら、蝋梅は槃瓠の捕らわれている方向を見遣る。揺らめく炎の毛並みが、再び燃え盛るのが見えた。が、それは長くはそこに留まらなかった。炎が、大きく跳躍して飛びのく。ややあって、ドスンと、近くに相当な重量の物が落下した衝撃が広がった。
「――我が妻はどこだ!」
憎しみを煮詰めた叫び声だ。望は素早く剣を抜いた。が、多くの者は恐怖に駆られ、動くこともできないでいる。威圧。それは獣としての迫力なのか、呪によるものなのか。あるいはその両方。
「いるだろう! 出せぬと言うなら、代わりを寄こせ。誓約を果たすのだ!」
大きく首を振って、牙を剥く。まだふらつく頭ではあるが、視線の照準を合わせようとする。
(守らなきゃ)
ぱち、と星が爆ぜる。吸い込まれるようにして星の波に体を委ねると、その牙の先に、じりじりと下がる蘭が見えた。意識をそこから断ち切って、走り出す。
(助けなきゃ。殿下の未来の為に)
不意を突かれた望の腕をかいくぐって、蝋梅は蘭を全身全霊の力を込めて突き飛ばす。同時に体が宙に浮いた。見えたのは、驚きを隠せない蘭の顔。聞こえたのは、名を呼ぶ望の声。けれどそれも一瞬で。風に飲まれてかき消された。