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同じ頃。とある急ごしらえの天幕では、その中心に水鏡が据えられていた。澄んだ水面には、星守の星が映りこんでいる。一つ一つが虹色に燦燦と輝きを放っていた。
それを囲むのは、王と柘榴。そして祭祀の記録を書き留める年長の星守見習いが一人、筆を持っていた。
花朝節の続行は、吉か否か。
そう、手元の紙には既に書きつけられている。静寂の中、水鏡に波紋が浮かぶ。星守はうっすらと瞼を上げた。厳粛な雰囲気の中、口を開く。
「此度の結果を告げる。疾く下がれ。祭祀の場は、王と星守だけのものじゃ」
出てきたのは結果ではなく、妃への言葉。
「今日は元々、吉とでていたのでしょう。外れた占いで陛下の御身を守れるとは思いませぬ。速やかにお開きにすべきですわ」
柘榴は王の袖を引いて、強い口調で訴える。
「しかしな、豊穣の祈念の祭祀の場、途中で切り上げるというのはあまりよいものではない。実りがなければ人は飢える。何としても済まさねば。あらかじめわかっておれば、日を改めもしたのだが」
王はそう言って、やや恨めしそうな眼差しを星守に向けた。
「吉と出たものを、王が覆すことはできん。星守のもたらす結果が晶華のすべてだ」
星守はしばし口を噤む。沈黙の続く中でも、王は妃を下がらせなかった。どの口が言うか、と菊花であれば声高に叫んでいたことだろう。しかし、この場に彼女はいない。
――黒幕はわかったのか。
と、その彼女が問うてきたのは金華猫を捕らえた数日後のことだった。星守はそれに、かぶりを振った。
「陛下の命運を辿ろうとも、一向に現れぬ」
「ただ面白いと唆しただけなのか、何か意図あってのことなのか」
星守補佐の眉間の皺は深くなるばかり。
「菊花、そなたの心配はわかる。だが、見えぬものを凶とするのは星の神の加護を否定し、己が私見を挟み込むもの。それは星守としてできぬ。今観測できる凶事はなく、黒幕は晶華の未来に関わらぬ。それだけが事実だ。陛下も対策は水鏡に現れてからとの仰せじゃ。此度の件は、好色なものが惑っただけ。王宮を揺るがすほどのことでもない。そう結論付けている」
星守は、そうきっぱり言い切った。彼女も迷いがないと言えば嘘になる。しかし彼女の立場は、それを許さない。いかなる時も堂々と、導かねばならないのだ。
(たとえ星が見えぬ時も)
「星守よ、未曽有の事態だ。どのように導くというのかね」
なおも続ける王に、星守は回想を頭の隅に押しやり、星を湛えた瞳を伏せた。同時に星冠の光もぱたりと消える。一気に天幕の中は暗くなった。
「私を試すと?」
光を失って、空気もいささか冷えるよう。
「まさか。間違いは誰にでもあるものだ。歴代の星守も、星守自体は神ではない。ゆえに完全ではなかった。そなたはそれを認め、被害を最小限に食い止めるべきだ」
王は困ったように肩をすくめる。星守は、鋭い眼差しを送った。
「被害を最小限にするのは私も同意見じゃ。下手な横やりを入れる輩がいるようじゃからな」
そう言って、踵を返すと天幕を出る。記録係の星守見習いも、慌ててそれに続いた。
杜鵑の元から戻ってきた金華猫は、自ら猫に戻ると、くるりと丸まった。
「金華の気持ちはわかるけど。私だって、あんなグルグル牙を剥いてくる相手に嫁げと言われても怖いわ。さっきだって、逃げたかったくらい」
水仙はそう言って白い背中を撫でてやる。意気揚々と向かったのが嘘のようだ。
「それにしたって、詫びの一言くらいあってもいいでしょうに。あの槃瓠とやらは、話通りなら命がけで狼の首を取ってきたんですよ。その結果がああだとするなら、あの娘でも父でも責任を取るべきですよ」
「責任の取り方を考える前に、まずはあれをどうにかしないとな」
望は顎で槃瓠であった獣を示す。霊符に抑えられて、ぷすぷす寝息を立てている。しかし揺らめく炎のような毛並みが、凶暴性がその身に残っていることを示しているようだった。
「話しぶりからするに、金華のように長命で霊気を溜めたわけではないようだな。だとすると、何者かが手を加えたか。怒り狂った状態で突然現れたことといい、裏で手を引く者がいるはずだ」
「彼女の為になりたいという願い、約束を反故にされた怒りを糧にして……でしょうか。なぜそんなことを」
蝋梅は眉を顰める。星守補佐は、険しい顔でかぶりを振った。
「さあな。しかし探ろうにも見えん」
その言葉に、皆が目を見張る。悔しげに菊花は言葉を繋いだ。
「力を与えている時点で察しはついたろうが、おそらくは星の神に対抗しうる神霊の仕業だな。こちらを追うのは骨が折れる。ひとまず槃瓠を元に戻すのが先決だ。幸いにも、新たな力の供給もないようだからな」
最後の一文に、望は顔を上げる。
「力を発散させればいいということですか。消耗戦なら、兵を出して持久戦を仕掛けましょう」