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「おや、殿下。人が口説いているのを攫っていくなんて、無粋では? この簪の贈り主は、“大切な友人”だそうですよ。ご丁寧に印までつけたのに、残念でしたね」
「夜はこれからだっつーの」
望は大きく息を吸い、そして吐いた。
「それならなおのこと、まだあなたの花でもないでしょう。選ぶのは彼女です。ま、あなたが命じれば僕など吹いて飛びますけどね」
どこまで本気か、悪戯っぽく、連翹は笑ってみせる。それを望はねめつけた。蝋梅を抱く腕に力がこもる。
「……俺は強制はしない。が、噂につられてちょっかいをかけにきただけなら、容赦はしない。耳の早い次期青家当主が、俺のつけ入る隙になりうる人間に興味を示さないわけがないからな。これは政治の道具にはさせない」
きっぱりと。言い切る腕の中で、蝋梅は聞き捨てならぬ台詞を
拾い上げた。
「私がつけ入る隙に……? まさか。それほどの価値はありません」
「あなたはそう思わなくとも、そう考えてしまう輩がごまんといるのは確かですよ、殿下の秘蔵の花」
あくまでも爽やかに。連翹は教える。
「でも、僕はちゃんと真剣です。いいお返事を待っていますよ」
さりげなく簪を握らせて。そうして彼は離れてゆく。蝋梅はぽかんと呆けたまま彼の背を見送った。
受け取ってしまった。つい。
「行くのか」
腕を解いて、望が問う。
「いえ、星の記録がありますので。職務優先です」
静かに蝋梅はかぶりを振った。納得のいっていない顔が、目の前にある。
「もし、いいって言われたら、行きたいか」
「社会勉強ですか……。確かに、私は一般常識に欠けるところがあると思います。もっと積極的に、学ぶべきなのかもしれません。占いに生かすためにも」
貴族の生態を知れば、未来の道筋も選び取りやすくなるだろう。
(書物ではこれまでも学んできたけど、より深く知るために、実地調査もしていかないと)
百聞は一見にしかず。そう考えを新たにしている蝋梅に、望はしばし逡巡した後、尋ねた。
「……なあ、俺とじゃダメか?」
その提案に、蝋梅は目を見張る。
「殿下と? 殿下だってお約束したい方がいらっしゃるでしょう。私のは、今日ではありませんから対象外でしょう。お邪魔はいたしません」
「そんなわけあるか! 今日着けてたら対象だ! だから、その、これは命令じゃないぞ。連翹じゃなくて、俺と――」
瞬間、地を震わすような音が轟いた。威嚇するような、攻撃的な、声。
一度は解かれた腕が、庇うように蝋梅を包む。
「何だ?」
蝋梅は腕の中で、音のした方を見やる。見渡す限りの野、花をほころばせた木々が広がるはずの向こうに、人の何倍もあろうかという大きな狼の姿がはっきり見てとれた。
突然の襲来だったらしい。その足元から、悲鳴が上がる。それを皮切りに、人々は我先にと逃げ出した。
「何だ、あのデカい狼は」
燃えるような毛並みに、鋭い牙。そしてぎらぎらと正気を失っている目。狼は体を揺らしたかと思うと、もう一度、牙を剥いて吠えた。
「我が妻はどこだ!」
雷鳴の如き声は、確かにそう吠えた。そうして、小さき人間に襲い掛かる。進行方向は、王や星守の天幕のある、中央方面。
「殿下はお下がりください。私が気を引きますので、その間に兵と合流を」
「は? 気を引く?」
「人語を解しています。話が通じるのでは?」
蝋梅は、望の腕の中からするりと抜けた。逃げ惑う人々の流れに逆らって、狼に近づいていく。
「お前はまたそういうことを!」
下がれと言われて、一人下がれるわけがない。望もそれに続いた。
「あなたは奥様をお探しなのですね! 詳しく聞かせてください!」
蝋梅は人の少ない方へ向かうと、狼の気を引こうとする。が、攻撃はおさまらない。
「ほら! 聞いてないだろ! 止めるのが先だ」
望は子猫を運ぶ親猫よろしく、蝋梅をひっつかむと無理やり下がらせた。そうして、同僚たちと合流させる。
天幕近くでは、菊花を先頭に、星守見習いたちが列をなしていた。
「強制的に沈静化させるしかないな、ゆくぞ。先の戦を経験している者は、中央を固めよ」
星守補佐の一声で、横一列に並んだ一団は、狼の方へ歩み始めた。戦の際は、神に仕える者の眼差しで相手を制し、呪いをはね返す。その役割を見習いが担っていた。
が、近づくにつれて明らかになってゆく、巨大さ、獰猛さ。対してこちらは十人ほどだ。霊符を持ってはいるが、武装は皆無。一人、また一人と歩みが止まる。蝋梅が横を見ると、青い顔をした百合が立ち竦んでいた。
「何なのよ、これ」
そんな声が、どこからともなく上がってくる。
「私が必ず止める。そなたらは結界の霊符に注力せよ」
先に立つ菊花が気を吐いた。
「恐怖を覚えれば、呪を弾く力が弱まります。怯んでいる暇はありませんよ!」
中央からも発破をかける声が飛ぶ。蝋梅は百合の手を握った。
「蝋梅」
声が掠れている。
「一緒に止めよう」
百合は大きく深呼吸する。そうして強く頷いた。
帯びた呪の類が反応するのか、狼は結界付近で足を止める。身を捩らせて、ひときわ大きく吠えた。びりびりと、空気が震える。背後で逃げる者たちの阿鼻叫喚が、祈りが響いた。
しかし、ここに踏みとどまるものはそうは言っていられない。菊花はぎりぎりまで近づくと、星冠を輝かせる。手にした霊符の文字も、それに呼応するように光った。
「凶悪を断却し、不祥を祓除す!」
霊符に書かれた文言は、黄金に輝いて中空へ舞い踊ると、狼の体に巻き付く。狼はのたうち回って抵抗した。
「ぐ、うっ」
菊花は必死にそれを抑え込む。すると次第に狼の体は動きを減らしていった。それでもまだ、眼光は強い。
「護符を持つ者は前へ! 外した天幕で視界を塞げ!」
残った少数の兵に、望は指示を出す。狩りの獲物の視界を遮って大人しくさせる要領で、布を頭部に掛ける。だんだんと、逆立っていた毛並みは寝てゆき、体は地に伏した。
菊花は膝をつき、支えられながらも、見習いたちに四方に霊符を置くよう指示する。やがて霊符の結界の中で、狼は眠っているような息遣いを辺りに響かせ始めた。