17
早々に片付けて加勢するという菊花を見送って、もう随分時間が経つ。月はもう高々と昇り、雲間から覗いていた。静かな部屋は、本来なら今夜、菊花が決戦すべく吉兆を見出した部屋だ。そこに、望は一人気を張り巡らせている。
コト、と音がして扉が開いた。これまでの報告どおり、影の中で姿が変わる。今回は絶世の美女に。
「まあ、とんだ大物ですこと」
大仰に、美女は袖で口元を覆う。しかし、目はにんまりと三日月に笑んでいた。それに負けぬよう、待ち構えている方も笑ってみせる。
「星守見習いより、俺を落とせた方が楽しいんじゃないか。これでもこの国の第二王子なんだ」
ホホ、と美女は艶やかに声を上げる。
「まあ恐ろしい。そんなではか弱い娘は近寄れませんわ」
そう口では言いつつも、猫のようにするりと膝元に擦り寄ってきた。鈴の鳴るような声だ。こちらの姿でも、心地よく感じる声を出すらしい。
袖を振ると、高位の貴族の娘たちが好んでつけるような、華やかで自己主張の強い香が漂ってきた。相手に自分のお気に入りの香りをつけることで、自分のものだとわかるようにするのだと、女性経験豊富な兄から聞いている。後で念入りに洗おうと、望は心に決めた。それを知ってか知らずか、金華猫はなおもにじり寄ってくる。
「さ、お寛ぎになって。お近づきに琴でも弾きましょう」
距離が近づくにつれて、胸元に隠し持っていた護符が熱くなってくる。あまりの熱さに取り出すと、彼女に一瞥されたところから焦げて跡形もなく消えた。
星守補佐から、せめて持っていけと渡されたものだ。それすら歯が立たないとは。昨夜このような相手と対峙した蝋梅を望は思う。病に罹っても、滅多に弱さを見せない彼女が、あれほどまでにぐったりと身を預けてきたのだ。あの感触を思い起こして、自身を奮い立たせる。柔らかで、それでいて儚く消えてしまいそうな、あの身体。彼女を守るためには、ここで負けるわけにはいかない。
望は、今まで護符を摘んでいた手に、ふっと息を吹きかける。その腕に、金華猫がしなだれかかってきた。つう、と霊符の入っているあたりを細い指でなぞる。
「昨日はセーブしてたんですよ。今日は全力でいきましょうか。そんな物騒なものはおしまいになって。あなたもどんな女か気になっていたんじゃなくて」
「もちろん気になるから来たんだ」
感情を抑えるように、低い声で望は返す。
「でも自ら乗り込んでくるなんて、短慮が過ぎますわ。ファーストアプローチは部下に贈り物でも預けておけばよろしいのに」
「部下を守るのも上官の仕事だ。女に引っかかってこいとは言えん」
ついつい睨めつけてしまう。それを金華猫は妖艶な笑みで返した。
「自信がおありなのね、あなた自身はかからないと」
そう言って、側の琴を手慰みにかき鳴らす。それも妙な効果を発揮しているようで、望は眉根を寄せた。菊花の霊符が無惨にも散った以上、もう懐に潜めたいつもの魔除けの霊符しかない。自信なんて、どこにも。
「昨日男になってたとか知ってるのに、靡くと思ってるのか。どれだけ女官や貴族の娘を食い散らかした?」
強がりな台詞で何とか気を保たせる。
「ふふ、いつまでもつかしら? 昨日の彼女は、星読みに生涯を捧げるからだって言ってたけど、あなたはどうなのかしらね。報われない恋でもしてるのかしら」
「生憎、俺にはないぞ」
「本当に? 私の力を貸しましょうか。ほんの刹那の夢を見られるかも。恋のお守りよりも、実力行使に既成事実。本当は、どうにかしてしまいたいのではなくて?」
金華猫の言葉は、より強く脳に入り込んでくる。報われない恋かどうかはともかくとして。どうにかしてしまいたいのは事実。つい、そう心の奥で同意してしまう。あの春呼びの香りのする身体をかき抱いて、自分のものにしてしまいたい。自分だけのものに。
「猫の集会を侮ってはなりませんよ。全部筒抜けですから」
金華猫の指が、望の頬に触れる。しかし、あまりに目の前の上物に集中するあまり、外への警戒を怠った。扉は既に開けられ、すぐ側で、蝋梅が北斗を踏む。
「我が星冠の縁の元に、その加護を現せ! 天枢、天璇、天璣、天権、玉衝、開陽、揺光!」
声と共に、星冠の北斗七星が輝く。その形はそのまま拡大されて剣となり、蝋梅の手におさまった。大の大人でも振り回せるかというくらいの光の大剣。
「殿下を害すならお相手します! 七星剣!」
蝋梅は剣を高々と振り上げると、容赦なく金華猫に向かって振り下ろした。
刃が金華猫の長い髪を切り落とす。ぎゃっ、と踏み潰されたような悲鳴が上がった。
「私の、百年分くらいの功夫!」
「蝋梅!」
鈍痛のする頭を押さえて、望は名を呼んだ。
星屑を纏い、さながら軍神のように神々しく、彼女は輝いている。剣を携え、毅然とした表情で立つその姿に、思わず見惚れた。
「あなた、昨日の言葉はどうしたんですの! 殺意百パーセントじゃないの!」
先程までの余裕はどこへやら。金華猫は髪を振り乱して狼狽する。ぶるぶると身体は震え、少しずつ後ずさっていく。本能で察しているのだ。これはマズいと。
「殿下をお守りする時は別です」
「そんなにどでかい剣でお守りするのあなた!」
金華猫はくわっと目を見開いた。それを夜明けを閉じ込めた瞳が制す。
「手加減は一切いたしません。全力で排除します」
「き、今日は引きますわ! こんなの聞いてない!」
そそくさと金華猫は逃げ出そうとする。
しかし軍神はそれを許さない。ゴンと音を立てて、剣先で髪ごとその裾を縫いとめた。再び一部の髪が切られ、女は情けない声を上げる。蝋梅は容赦なく追い打ちをかけた。
「今日だけでは困ります。今後、城の敷居はまたがないとお約束ください」
「えっ、こんな楽しいところを?」
恥も外聞もかなぐり捨てて逃げようとしながら、まだ来る気でいたらしい。それに蝋梅は冷徹な瞳を向けた。
「でないと次は、全力で心臓を突かねばなりません。私は、あなたを死なせたいとまでは思いません」
「まてまて蝋梅」
次の一撃を構えようとする彼女の肩を、望は掴む。そこから金華猫の気が浄化されていくような心地がした。少しだけ回復して、望は金華猫に鋭い眼光を向ける。
「聞いてない、とは? お前をここへ仕向けた者がいるのか?」
えっ、と彼女は息を飲んだ。
「いるんだな」
強い口調で問う。女は激しく首を横に振った。
「いいえ、いいえ、仕向けられたわけではなく」
「今ここですべての功夫を無駄にするのと、どちらがよろしいか」
半ベソの相手に、蝋梅は一歩も引かない。そこへようやく菊花も到着した。更なる般若の登場に、金華猫は縮み上がる。しばしの睨み合いののち、彼女は負けを認めた。
「お酒の席でベロンベロンになりながら聞いたんです。楽しみがないんだろう? 美男美女の化かし合いを手玉に取れる、そなた向きの舞台だって。気づいたらもうここで兵を虜にしていて……その方に連れてこられたのか自分で入ったのかも定かではありません。彼女のことは、ものすごい美女ってことしかわかりません!」
やけになって、彼女はまくしたてる。
ふむ、と大般若は腕組みして金華猫を睨みつけた。背後に燃え盛る炎が見えるよう。
「悪意の有無はわかりませんが、元凶がいるとすれば、手がかりはこの猫だけです。生かしておくほうがよろしいでしょう」
望は落ち着いた声音で進言した。
「ふむ。ただし化けられぬようにせねばならんな」
菊花は、何やらたくさんの図や文字が書きつけられた首輪を取り出す。正面には、涼やかな音の鈴がつけられていた。それを、まだ女の姿のままの金華猫の首に巻き付ける。
すると、首輪に書きつけられた所が赤く発光したかと思うと、するする女の形は崩れて小さくなっていった。後には、ごく普通の白猫が一匹いるばかり。
菊花は、すぐさま首輪をしっかりと締めにかかった。ついでに首根っこを捕まえる。白猫は、可愛らしい声でにゃーんと鳴いた。
「喋れるだろう。誤魔化すな」
菊花が一喝すると、観念したのか、金華猫はだらりと身体の力を抜く。
「さ、楽しいおしゃべりのじかんだぞ。ずっとお前と話したかったんだ。ずいぶんいい声で鳴くそうじゃないか。ようく聞かせてくれよ」
響いた悲鳴は、女のものだったとも、男のものだったとも。とにかく声にならない声が、後に残された。
菊花が去るのを見届けて、蝋梅もほっとひと息つく。緊張の糸が切れるのと同時に、剣はほろほろと光の粒となって夜に溶けていった。足元がふらつくのを何とか踏ん張るのを、望が抱きとめる。しかしその望も、限界で。二人してその場に座り込んだ。
「殿下、大丈夫ですか。すぐに祓います」
望の膝の上で、蝋梅は彼を抱きしめる。触れたところから、金華猫の術が蝋梅を通じて抜けて行った。それを十分に確かめてから、蝋梅は身体を離そうとする。
しかし望が今度は腕を回したまま。
「祓えてませんか、殿下」
心配そうに、おずおずと蝋梅は尋ねる。いや、と望は否定して、そうして大きく息を吸い込んだ。繊細な甘い香りがする。無理矢理押し付けられた金華猫の香の代わりに、これで肺を満たしきるまで。
「もう少し、このままでもいいか?」
そう乞うと、蝋梅は遠慮がちに肩に顔を埋めた。
「……はい」