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曇り空の下は少し肌寒い。大量の星の記録を記した帳面を抱えて何往復もする日は、これくらいの方がちょうどいい。
本当は他の手を借りたかったが、誰もかれも渋い顔をして首を横に振った。
馴染みの文官は、口にするのも憚られるがせめてもの抵抗とばかりに、目線だけ東の方へやった。
そちらに置かれた宮の主と言えば。
(王太子殿下か)
彼が王になれば、ますます風当たりは強くなろう。
星の示す未来には檀の姿などなく、王太子が正妃に柘榴を迎え、第二王子妃に蘭がおさまっている。国はつつがなく営まれ、星守として蝋梅が星を読んでいた。
今はこの解釈が主流。しかし塔が壊滅するまで柘榴が正妃になる分岐は糸のように細かった。
(王太子殿下の選択が分岐を変えたのか、それとも、牡丹の星冠が割れたことで変わったのか)
もちろんこれまで、牡丹がこんなことになるなんて思った者はいない。
(いや本人は、はっきりせずとも察していたのか。星が見えなくなることを)
茉莉花が回廊をきびきび歩いてゆくと、足取りの重い星守補佐の背中が見えた。扉の前で一時停止すると、間をおいて中へ入る。茉莉花も後を追った。
水差しを持った見習いと入れ替わりに入った部屋は、牡丹の寝所だった。椅子に腰掛けている菊花の表情は、曇り空のせいか影を落としている。ひと呼吸おいて茉莉花に気づいたらしく、彼女はぱっと立ち上がった。
「菊花、そなたほとんど寝てないだろう。いざという時体が動かないよ」
無理もない。日々の祭祀だけでなく新王への代替わりの準備も行っているのだ。塔の復興作業の指揮をしている茉莉花は、補佐に回りきれない。
宮殿の中は中で、あちこちに飛び散った呪いだの厄だのを祓ってほしいという依頼がひっきりなしにくる。星告や見習いがあまりにもそれに引っ張り出されると、塔の復旧もままならない。それでなくとも、星を見る通常業務もある。
皆、疲労は溜まっていく一方だ。そうなると、口から出る言葉も暗澹としたものになる。
「牡丹はもう虫の息です。役目が終われば私は、それに殉じたいと思っています」
「寝ずに下した判断より信用ならないものはない。その話は後回しだ」
ぴしゃりと茉莉花は言い切る。
「見習いたちも立派に育ちました」
「しっかりなさい!」
襟首を掴んで、茉莉花は自分の方を向かせる。
「牡丹は確かに歴代最強の星守だった。でも、今何かすべきは我々だ。そなたが繋がなくてどうする! いつまでも牡丹の顔ばかり見てないで、さっさと寝なさい。彼女はもう星守ではない。終わったんだよ! これからは新しい世代を支えるんだ! 今あの子たちはめげずに踏ん張ってるんだよ! 泣き言は後で聞いてやる!」
今にも泣き出しそうな顔を、菊花はしている。鬼軍曹と呼ばれた彼女はいずこへ。まるで塔に来たばかりの、何も知らぬ少女だった時のようだ。それくらい、星守補佐の名が彼女を律していた。
「しかし」
「早よ寝ろ!」
ついに茉莉花はキレた。しょぼくれた彼女に喝を入れると、どうっとその体が倒れ込む。上半身を支えて、頭を打つのだけは避けた。
「おーい、誰かいない?」
扉を開けて呼びかけると、水差しに白湯を補充してきた見習いが戻ってきたところだった。床に転がっている菊花を見て、青ざめる。
「補佐!」
「ちょいと秘孔を突いただけのこと。寝かしておいて。補佐の午後の予定は私が替わる」
そう言い残すと、慌てる見習いを後に部屋を出る。扉のところで今度は水仙に会った。
「茉莉花さま。相談がございます」
「そなたも目の下にクマができてるな。あれと一緒に寝るか? ちょうど寝かしつけてきたところだから」
後ろを指差すと、この見習いは口元を引きつらせる。その両の手のひらの中に何かを隠しているのに気づいて、茉莉花はつついた。
「何だ、それは」
水仙はそっと蕾が開くように開ける。中には白い蝶がいた。
黒い翅脈とは別に、うっすらと模様のようなものが見える。目を凝らすとそれは文字のようだった。
蝶は、はたはたと茉莉花の手に移る。とまったかと思うと、するすると解けて文字の一群となった。
「なるほど」
茉莉花は感嘆の声をあげた。
「面白いね。でかした」
あれほどまでに美しい花を、知ることはない。それは実感でもあり、願望でもある。
重い頭を支えるように身を起こす。眠ってもなお鈍器のような重みがあるのは、おそらく寝不足が蓄積しているせい。
丁寧にかけられた布団をどけると寝台をおりた。まだあたりは暗い。けれど冷宮には煌々と灯りがともっていた。星を見るだけではない。扉を開けると、空を見上げる少女の姿があった。何ともたよりなげにぽつんとしている。
でもそれは暗闇の中に浮かび上がっているからで。その表情は、きりりと引き締まっていた。
「何をしている」
自分のことはひとまず棚へ。菊花は少女ーー水仙に尋ねる。
すると彼女はにこりと笑んだ。
「待ってるんです」
何をと言い終わらないうちに、水仙は中空を指し示す。その先にはほんの小さな明かりが見えた。だんだんとそれは近づいてくる。目をこらせば、消えかけの火くらいのほんのりとした光で構成された蝶であることが見てとれた。
光に吸い寄せられた虫ではない。迷わずに水仙の手のひらの上にのった。
室内に戻ると、蝶の姿は解けて文字になる。文面に、菊花は目を見張った。
「百合、星の加護を得たそうです」
防音の霊符の範囲の中で、水仙は読み解いた結果を口にする。
「なんと……」
菊花は感嘆の息をついた。
それは星冠を持つ者が、特定の星神から認められ、特別に力を授かったことを意味する。望んで得られるものでも、ましてや地位や役職で得られるものではない。だから塔の中でも数えるほどしかいなかった。
それが、彼女に。
「体は。何ともないのか」
「仔細はわかりませんが、必ず暴いてみせるって意気込んでるんです。きっと大丈夫。そして蝋梅は力を自分のものにし始めてる」
水仙は目を潤ませる。
「星守さまのおっしゃったとおりです。必ずやり直せる」
声が震えている。菊花はその肩に手を置いた。麻痺していた思考回路が、目まぐるしく回り始める。
「そなたらの力を借りねばならん。頼んだぞ」
その間にもひらりひらりともう一匹、蝶は舞い降りる。水仙はそれに手を伸ばした。
ガチャガチャと鎧の鳴る音が、先頭から次第に止んでゆく。訓練された兵でも、紫雲山を登ってくるのは骨が折れただろう。けれど、軽装で登るわけにはいかなかったのだ。
一団の主は、恰幅のいい一人の男。その身なりは誰もがひと目見てわかるほど良いものだった。
「白将軍、どうしたのです。自らこちらに出向くなど。陛下をお願いしたはずでは」
来客を察知して呼ばれた望は、表情に硬さを滲ませていた。将軍の方も、おおよそ普段見せないような厳かな仕草で礼をする。
「……王太子殿下より、蝋梅さまを次の星守に任じるとの命が下り、お迎えにあがりました」
そう。彼らはただの将軍とその護衛ではない。新たな星守を迎えるべく派遣された一団なのだ。兵たちは実戦的なものよりもやや凝った装飾の施された武装をしている。しかし。
「星守は、新たな王が任ずるものではないだろう。しかも、人の妃を、塔を出た者を?」
表情も声音も、険しさが増す。将軍はなおも恭しく頷いた。後ろに控える兵たちは、みな将軍によく付き従っている顔見知りだ。本来なら栄誉あるこの任に、ある者は唇をへの字に、またある者は目を伏せている。
「将軍、険しい山道で疲れただろう。詳しく話を聞かせてくれないか。兵たちもゆるりと休息するがよい」
門の前で仁王立ちしていた望は、一団を中へと誘った。
本来祈りを捧げる場所である天公廟は、休めるようなところは多くない。それでもひとまず屋根のあるところに兵たちを落ち着けて、二人は腰を下ろした。
後からしずしずと蝋梅がやってくる。将軍は何か気になったのか、ぴくりと眉を動かすが、すぐに話を戻した。
「陛下は何もおっしゃらないのか」
望は隣に蝋梅を座らせると、さっそく尋ねる。
「驚くほどに静かでいらっしゃいます。いや気が抜けてしまっていると申し上げた方が正しいかもしれません。何を申し上げても上の空です。貴族たちは正妃選びにてんやわんや。国の一大事だというのに、憂うべき人が憂うべきことを考えていない。それが更に不安をかき立てているのです。廟には祈りの声が絶えず、線香の匂いはむせ返るほど。一刻も早く、次の星守を。先の舞で皆の記憶に新しい彼女を求める声が上がったのでしょう。しかも彼女が星守になれば、あなたの妃の席も空きますからね」
「他の祭祀は執り行われているのか? 即位の準備も」
将軍は小さく頷いた。そうして、声を低くして言葉を紡ぐ。
「いらっしゃらなければ、塔の者を罰する、殿下に叛意ありとみなすと」
「何だと?」
あまりにも晶華のあり方を否定した命に、望は憤る。
「俺も心苦しいです、殿下。あなたのことは、我が子のように思ってきました。親友が、長庚があんなことになってからは、代わりになろうと。せめて白家はいや俺だけでも、あなたの味方であろうと」
ぎりりと柏槇は拳を握りしめる。それまで顔色ひとつ変えずに聞いていた蝋梅は、静かに問うた。
「白将軍、こんな時にうかがうことではないかもしれませんが。宮殿の中庭に酒を供えたのは、あなたさまですか」
酒ですか、と将軍は聞き返す。蝋梅は立ち上がると瓢箪と共に発見した瓶を手に戻ってきた。
「なぜ、それを」
将軍は僅かに目を見張る。
「ただの推測ですが、長庚さまを信じ、悼むことができる方といえば限られてきます」
言われてこの大柄の男は、バツが悪そうに頬をかいた。
「……俺は、あの方が、あの男が、陛下を裏切るだなんて思えないのです。俺にも何も言わずに。今もその考えは変わりません。あの豹変ぶり、きっとおかしなものに取り憑かれていたのだと。確証はありませんでしたが、もし俺の見立てが当たっていたとしたら。さぞや無念だろうなと思わずにはいられないのです。俺がもっと早く気づくことはできなかったのか、止められなかったのか、と。……王太子殿下も、もしや」
再び険しくなる表情に、望は半歩、膝を進めた。
「兄上は」
「ええ。蘭が言うには、狂気だと」
狂気。望はその単語を反芻する。巧妙に取り繕うこともしなくなったのか、できなくなったのか。
不甲斐なさに唇を引き結ぶ。そうしてゆっくりと首を垂れた。
「将軍、力を貸してもらえないか。父上も兄上も助けたい。その為には、あなたの力が必要なんだ」
柏槇は慌てて望に顔を上げさせる。
「俺も、気持ちは一緒です。もうあんな思いはしたくありません」
「俺もだ、柏槇」
不意に聞こえた声の方へ、将軍はおそるおそる顔を向ける。目を見開いたまま、動けなくなった。