1
夜の警備はいつまで経っても慣れないものだ。人間が本来眠る時間であり、日の目を盗んで活動するものが蔓延る時間でもある。年若い警護の兵は、ぶるりと体をふるわせた。今日は特に冷える。
白い光は、氷のように回廊に差し込んでくる。手にした灯りなど、何の足しにもなりはしない。足早に、それでも注意深く、兵は見て回った。
ここは宮中の奥深く、王妃たちやそれに仕える女官たちの部屋がひしめく場所。何事かあっては首が飛びかねない。ふと、先に視線をやる。回廊の向こうにそろそろと衣擦れの音がしたからだ。音は次第に近づいてくる。それにつれて、回廊という花道を照らす光で、その姿が明らかにされる。裾から腰元、そしてかんばせ。兵は息を呑んだ。
(何て、美しい――)
鼓動は瞬く間に最高速度に。冷え切った頬は熱を帯びた。
その間にも、美女は距離を詰めてくる。その香が聞こえてくるほどに。切れ長のまなじりが、兵を流し見る。瞬間、兵は強弓で射抜かれたように動けなくなった。
ありていに言えば、恋に落ちたのだ。
「美女、ですか」
蝋梅が反芻すると、望はそうだ、と唸った。短い濡羽色の髪が、くしゃりとかき上げられる。
「宮殿の警護の兵が、片っ端から誘惑されて仕事にならない」
「仕事にならないというのは?」
「熱に浮かされたみたいにぼんやりしてるんだ。女のうわ言を言うばかりで、会話にもならない。常のことならこちらで対処するんだが、ここまで酷いとなると得体がしれない」
言葉の最後に、つい吐き出されたため息は深い。ちらと蝋梅を見て、もう一度小さく息をついた。
「でも、女官たちは一切見かけてないんですよね」
少し冷ました茶を、望の前に差し出す。深く張った氷のような淡い青で、蝋梅は気に入っていた。そのまま塗り重ねれば、向かいの青年の瞳の色のよう。
「一人だけ、白い影を見たという者はいたらしいんだが……関連は不明だ。何かこちらに情報は来ていないか?」
そこまで続けると、望はゆっくりと茶を口にした。冷えた身体を温める紅茶だ。猫舌な彼でも合格な温かさだったらしく、椀の半分ほどが一度に消えた。
「殿下、この星守の塔は国家機密を扱う機関。たとえ殿下であっても、星読の結果を気安く流せないのは殿下もよくお分かりのはず。それに私のような見習いでは、そもそも閲覧できるものに限りがあります。お役に立てるか」
背筋をしゃんと伸ばしてそう告げる。
「それはわかってるさ。可能な限りでいい。もし国の大事に関わるなら、星守さまから奏上されるだろう。そういうのじゃなくてさ。見習いたちで時々修行がてら宮殿に仕える貴族のお嬢さんたちや女官の占いに行くだろ?」
「運気の良い日を見たり、霊符をお渡ししたりするくらいですよ」
「その時にさ、話を聞いてみてくれないか。白将軍が、あまりの兵たちのヘタレぶりに頭抱えててな」
「善処しましょう」
返答を聞いて、望は柔らかく笑んだ。そうして残りを飲み干してから立ち上がる。
「殿下、霊符は大丈夫ですか」
そう問いかけると、この育ちの良さそうな青年はそうだったと懐から小さな袋を取り出した。蝋梅は中を覗く。中に丁寧に畳まれた霊符は、入れた時と同じようにそこに収まっていた。
「破損などはなさそうですね」
「ありがとう、また明日な」
望は大事そうに袋をまた懐にしまう。朝日に煌めくその笑顔が、眩しい。ついうっとりと眺めた。
(殿下、今日も顔が良すぎる)
顔だけではない。毎日の鍛錬で引き締まった身体も、五月の風のような爽やかな声も。何もかもが良い。
それらをいっぱいに吸収して、塔の裏口から見送ると、彼は時々振り返りながら宮殿の方へ去って行った。完全に姿が見えなくなると、蝋梅は踵を返す。扉を手前に引くと、ぴったり張りついて聞き耳を立てていたらしい二人が転がり出てきた。
「水仙、百合まで」
「聞かないでしょ、この人」
緩やかに波打つ栗毛が柔らかな印象を生む少女だ。百合の名に相応しい、淑やかな美しさを湛えている。困ったように微笑むさまも、周りを魅了するようだ。
「また引き受けちゃうの?」
隣では悪びれもせず、水仙と呼ばれた少女が上目遣いに尋ねてきた。流行の簪をぴしりと束ねた髪に挿し、自身に似合う華やかな紅を唇にひいている。
「聞いてたの」
「だって娯楽が少ないんだもの」
部屋へと歩き出しながら、楽しげに、冬を彩る花の少女は顔を寄せる。
「白将軍って、殿下の婚約者だって噂の蘭様のお父様でしょう」
「そうだね。天下の大将軍が後見とあれば、殿下もご安心でしょう」
「これ以上懇意になって、噂が本当になったらどうするのよう! 今回のはやめた方がいいわ!」
ひとり興奮して、水仙は拳を震わす。蝋梅は首を傾げた。助け舟を求めて百合を見遣るも、あちらも困った顔をするばかり。
「何か問題が?」
「ありありのありよ!私たち、生涯を星読に捧げるんだから、青春くらい高貴な方とちょっとした甘酸っぱい思い出が欲しいのよう!」
一気にまくし立てたかと思うと、泣きまねでもするように袖で顔を覆った。
「はー、美女じゃなくてイケメンに現れて欲しかったわー。回廊を歩いてるのを遠眼鏡で見るだけでいいから」
「飢えてるね、水仙」
蝋梅は望に出した蓋碗を片付ける。持ち上げたとき、ほんの少しだけ残り香が、鼻をくすぐったような気がして、足が止まる。
「さ、片付けたら行きましょ。今日のお勤めよ」
扉のところで水仙に声をかけられて、蝋梅は我に返った。