第七章 揺れる夫婦
斗和がそのかたくなさを潤也と相坂の前で披露して、探偵に決別の宣告を行った前、天宮の家には二人の人間がいた。鋼兵と民子である。休日であるこの日、鋼兵は書斎で持ち帰った仕事をかたしており、民子はリビングでテレビの情報番組を見ていた。
実は、鋼兵は、潤也の侵入に気がついていた。普段自分しか立ち入ることがないはずの書斎に不自然な物の移動、ほんのわずかな移動があり、鋼兵は二人の子供達のうちどちらかが入ったのだろうと勘づき、さらに直感的に潤也だと思った。
普通なら、部活で忙しい潤也ではなく勉強でよく家にいることの多い斗和だと思いそうなものだが、父性の勘か、普段の観察力のなせるわざか、鋼兵は微妙な物の置き方から、入ったのは斗和ではなく潤也だと考えた。
だが、鋼兵は、潤也が断りもなく書斎に入ってあれこれ捜索したことについて咎めることも、諭すこともしなかった。会話の中でそれとなく触れることすらしなかった。自分自身、探偵を使って子供達を調べさせているという負い目もあったからだし、潤也がそうすることには何か理由があるに違いないと思ったからだ。そして、理由は一つしかない。
おそらく、と、鋼兵は思った。おそらく、探偵のことは二人にばれている。
仕事を終え、パソコンを閉じると、鋼兵は深いため息をついた。今や、彼の苦悩は、極限に達していた。父親としての勘が、彼にこう言うのだ。お前の子供達はとんでもなく大変な事態にさしかかっていて、物凄い苦悩の中にいる、と。
鋼兵は、耳を澄まし、リビングの方に聞き耳を立てた。わずかに、テレビの音声と、それに続く民子の笑い声が聞こえてくる。
もう、限界だった。民子のあの脳天気さ、あれは一体なんだ。目の前にいる子供達が思い悩み苦しんでいるかもしれないというのに、一向に気づかず、気づこうという努力もせず、ただ日々を惰性に過ごしている。あれは、本当に母親としてあるべき姿なのか。
考え過ぎなのだろうか。いや、そうではない。確かに、探偵からの報告も、異常なしだった。しかし、違う。自分が感じていることはそんな紋切り型の単純な事実の切り取りなどではない。もっとこう、人間の深奥に関わる事柄というか……。
いてもたってもいられなかった。もう無理だった。自らの血を分けた子供達が苦しんでいるかもしれないことについても、それに全く意を介さない妻についても、我慢の限界だった。
鋼兵は考えた。ちょうど、二人は今家にいない。
彼は立ち上がると、書斎を出て、リビングに向かった。リビングでは、民子がソファに座り、テレビを見ていた。くつろいだ様子で、彼女の手にはコーヒーらしき液体の入ったマグカップがあった。どうしてこう呑気なんだ、と、鋼兵は妻の姿を見て苦々しい気持ちになった。
「あら? 仕事は終わったの?」
鋼兵に気がつき、民子はテレビから顔を逸らすことなくそう言った。
「ああ」
鋼兵は、なるべく愛想がいいように返事をした。だが、心の底にある妻への不信が、彼の物言いをつっけんどんな感じにしてしまっていた。
「コーヒーいれようか?」
振り向いて夫を見ると、民子はそう言った。その言い方は全く無邪気だった。鋼兵の苦悩など、気づくよしもないといった感じだ。
「いらない」
いつもなら心地良く感じられる妻の正視も、今の鋼兵にとっては不快でしかなかった。彼は、機嫌悪そうに目を逸らしてそう言ったのだった。
民子は怪訝な顔をした。「どうしたの?」と言って、小首を傾げて見せた。彼女のその様子は、鋼兵を苛立たせるのに十分だった。
「どうもしないよ」
鋼兵は、民子を見ずにそう呟いた。
「何か嫌なことでもあったの?」
民子の様子は、相変わらず無邪気だった。その無邪気さが、鋼兵を更に不愉快な気分にさせる。
「……君のその態度だ」
「え?」
「君のその態度なんだよ、僕が疑問に思うのはね」
鋼兵は、妻を鋭く見据えて言葉を放った。決然とした意志が感じられる視線だった。
民子は狼狽した。
「どういうこと?」
「君は一体何を考えているんだい?」
鋼兵は冷たく言った。
「何をって……」
「斗和と潤也のことをちょっとでも考えているのか」
「いつも考えてるわよ」
「いいや、考えてないね」
「あの二人はかわいい子供達よ」
「そこなんだよ、僕がわからないのは。君は二言目には、かわいい子供達、だ。君にとって子供は何なんだ」
「そんなこと言われても……。ねえ、どうしたの?」
「君のその態度がね、腹立たしいんだよ。子供のことを、何も考えていない、いや、見ようとすらしていない」
「見てるわよ、いつも」
「いいや、見てないね。全く見ていない。君はね、自分の都合のいいように子供達を決めつけている。まるで幼女が人形を愛でるようにね。子供は、そんな単純なものじゃないんだよ」
「わかった風なこと言うのね」
「君があまりにもわからな過ぎているだけだ。前にも言ったけど、おかしいと思わないのか。子供達を見て変だと思わないのか」
「考えすぎよ、また悪いクセが……」
「クセクセってなんだ、何にも考えていないじゃないか君は!」
鋼兵の大声に、民子はびくっと身を震わせた。つい熱くなってしまった自分を叱咤するように、鋼兵は舌打ちした。気まずい沈黙が流れる。
「あなた、病気なんじゃない」
民子が恐る恐るそう言った。その言葉は鋼兵の逆鱗に触れた。
「病気? 僕が病気? 一体僕のどこが病気だっていうんだ! 子供のことを考えてるから病気だっていうのか? はっきり言うけどね、僕には君がおかしく見えるよ。母親なのに、子供のことを全く見ていない。君の言うね、見てるってのはね、見てるのうちに入らないんだよ。水面をただ眺めていてもね、水中のことはわからないんだよ」
「仲のいい兄弟じゃない」
「仲のいい? 僕にはそうは見えないね! 今から考えると、昔からそうだった、おかしかったんだ! 君は、いや、僕も含めて、僕たち夫婦は、あの子達のことを、何一つ知らなかったんだ! 知ろうとしていなかった! 仲がいい、ただそれだけで全てを見た気になっていたんだ! 僕達は何も知らなかったんだ!」
「あなた、本当に病気なんじゃない?」
「なんだと、まだ言うのか! もういい! 離婚だ! 君がそんな人間だとは思わなかった、事実から目を逸らし、いや、事実を事実と見定めることすら出来ず、挙げ句の果てに真剣な僕を病人扱いだ! 離婚だ! 付き合ってられない、君はもっとまともな人だと思っていたよ!」
鋼兵は怒鳴り散らした。辺り構わず思いをぶちまけた。
その時、玄関の扉が開く音がした。続いて誰かが入ってくる足音がした。
鋼兵は、腰に手を当て、口をつぐんだ。それから、
「今日の晩、家族会議を開く」
と言って、書斎に引っ込んでしまった。
廊下で足音が鳴っている。リビングのドアが開く。「ただいま」と言って入って来たのは、斗和だった。
「おかえり」
答えた民子の表情は、暗かった。