第三章 依頼
次の休日、鋼兵はやりかけの仕事もそのままに、遠目から民子にちょっと出かけてくると伝え、初夏の陽気の街中へ繰り出した。
強い日差しが降り注ぐ繁華街は賑わっていた。様々な方向に歩いていく様々な人々の間を縫って、鋼兵はある場所を目指していた。信号待ちの時にポケットから折り畳まれた紙片を取り出して開く。目的地はもうすぐだった。
やがて、人のあまり来ない路地に行き当たると、古ぼけた雑居ビルの中に鋼兵は入っていった。エントランスにあるテナント表示を見て間違いのないことを確認すると、エレベーターがあったので、彼はそれで4階に向かった。
エレベーターに乗っている間、鋼兵はやっぱりやめておこうか、と、ふとそう思った。こんなことを我が子にするなど、馬鹿げている、父親失格だ。
だが、民子は全く話にならない。本来なら最もこういった問題について頼りになるはずの人生の伴侶は、鋼兵の苦悩について歯牙にもかけていない。それどころか、口には出さないものの、息子達に疑念を抱く夫に対して嫌悪感すら抱いている。結婚前ならこんなことはなかったのに、「女」から「母親」となったことで、妻は微妙に変わってしまったのだろうか。
いや、問題は息子達だ。もともと民子は心根が素直であるとはいえ、ここまで母親を自分達に盲従させるとは。一体どんな魔法を使ったのだろう。
斗和も潤也もいい子達だ。それは間違いない。しかし、やはり、引っ掛かる。心のどこかで引っ掛かる。あの笑顔。あの振る舞い。あれらは全て……、
「作られたものじゃないのか」
鋼兵は、はっきりと声に出して呟いた。
エレベーターが4階に止まり、鋼兵は外に出た。彼の目の前には、「相坂興信所」と記されたパネルがあった。
呼び鈴を鳴らして用件を告げると「どうぞ」という声がして、鋼兵は入口のドアを開けた。
相坂興信所の事務所は狭かった。受付はなく、中に入ると一目で全体を見渡せた。奥の事務机に、主らしい男が座っている。
男は立ち上がると入口で立ったままの鋼兵に近づいて来て、手前にある応接用の皮張りのソファに座るよう促した。鋼兵が座ると、男は彼の前のソファに腰掛けた。
「私が相坂です」
相坂と名乗った男はそう言って懐から名刺を差し出してきた。どうも、と言って鋼兵は受け取った。
「メールで問い合わせのあった方ですね」
相坂は確認のためにそう言った。鋼兵はそうですと答えると、
「その前に聞いておきたいのですが」
と、相坂が続けて口を開く前にそう機先を制した。
「なんですか」
「その……。秘密は守られるのでしょうか」
躊躇いがちに鋼兵はそう言った。まだ彼は、これから息子達の調査を探偵に依頼するという事実がもたらすうしろめたさを捨てきれてはいなかったのだ。
「はい。その点はご安心を」
相坂は毅然とした態度でそう言った。揺るぎない自信が見て取れた。
「良かった」
「メールでは、ご子息様に関する依頼だということでしたが」
「そうなんです。息子達を調べて欲しいんです」
「達?」
相坂の片側の眉が心持ち、上がった。達、とは、一体どのような複数人をさすのか。
「はい」
「達、と言いますと」
「私には二人の息子がいます。その二人を調べて欲しいんです」
そう言うと、鋼兵は自分の心臓の拍動数が多くなったのを感じた。緊張してるんだな、と、彼は思った。
「なるほど。素行調査、ということでいいんですね」
相坂はそう尋ねた。持ち上がった眉はもう元に戻っていた。
「まあ、そういうことになりますかね」
「そうですか。で、どのような内容の調査を」
「内容……ですか」
「はい。交友関係とか、学校での生活態度とか」
「はあ」
「例えば今多いのが薬物関連の依頼です。最近子供の言動がおかしいのでもしかしたら麻薬を使っているんじゃないか、と心配される親御さんからの問い合わせが少なからずあります」
「そんな、とんでもない! うちの子供達に限ってそんな……」
「皆さん初めはそう思われます」
「違います。そういったことではないのです。もっと、何て言うか、こう……」
鋼兵は考え込み、少し目を伏せた。どう言えばいいのだろう、と、彼は頭を回転させた。
「とにかくおかしいのです」
「ほう」
「あの二人は、実は双子なのですが、今まで一度もケンカしたことがないのです。仲がいいなんてもんじゃない。まるで一心同体です。あまりに仲がいいもんで、こちらは何もできないのです。今から思うと、そう、自分達に親が介入するのを、いや、もっと言えば、自分達以外の人間が自分達に介入するのを防御しているかのような、そんな印象を受けるのです」
「印象、ですか」
「はい。証拠がない、私の思い込みに過ぎないのかもしれませんが、父親だからわかるんです。妻は、こんな私の考えを杞憂であるとしか思ってなくて、全く相手にしてくれません。本当は、母親こそこういった問題には最適のはずなのですが、私の妻はそうではないのです」
「なるほど」
「私の直感なのですが、あの二人には、自分の子供達についてあの二人なんて言うのはおかしいのかも知れませんが、とにかくあの二人には何かがある、そんな気がしてならないのです」
鋼兵は座り直した。皮張りのソファが軋む音がした。
「そのうち何か、私達家族にとんでもないことが起きそうな、そんな予感まであります」
「そうですか」
「あの二人、斗和と潤也というのですが、二人のことを、何でもいい、とにかく調べて欲しいんです。どんな些細なことでもかまいません。おかしなところがあったら、徹底的に追究してください」
「心配なのですね」
「とても。とても心配です。何かがあの子達を苦しめている、そう思われるんです。少なくとも、父親の私には、そう感じられる。勘違いであればいいのですが」
言い終えると、沈黙があった。心の内を打ち明けた鋼兵は、幾分気持ちが楽になったのを感じた。
「わかりました、お受けしましょう」
その沈黙の後、相坂ははっきりとそう言った。
「ありがとうございます、よろしくお願いします」
鋼兵は座りながら頭を下げた。そして、
「これがその二人です」
と言うと、財布の中から一枚の写真を取り出した。最近家族で行った行楽で撮った写真だった。
相坂は写真を鋼兵から受け取ると、ふむ、と言ってそれを眺めた。
「そっくりですな」
「双子なんで」
「これはお借りしてもよろしいですか」
「はい」
「ではお借りします。後、必要な書類はまた後日郵送で送っていただくことになりますが」
「わかりました」
用件を済ませた鋼兵は、相坂興信所を後にした。どんな調査結果が出るのか、不安とともに待つことになるが、それはこらえるしかない。
鋼兵が去って一人になった相坂は、立ち上がって事務机に戻ると、写真をファイルに挟み込み、椅子に深く腰をかけ背もたれにもたれかかって一息ついた。
「とんでもないこと、ねえ」
天井を眺めながら相坂はそう独り言を言った。