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ダブル  作者: 百鬼
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第二章 鋼兵の苦悩

 数日後、鋼兵と民子は、明かりの灯らない暗い寝室で、夫婦の営みを行っていた。

 誘ったのは鋼兵の方だった。家族四人の夕食を終えて斗和と潤也が自室に向かうと、民子はリビングにあるソファに座ってテレビを見出した。あるサッカー選手の軌跡を追いかけたドキュメンタリー番組だった。

 食後のコーヒーを飲んでいた鋼兵は、飲み終わると妻の横に座った。そして手を取り彼女の耳元で、

「久しぶりにどうだい」

と囁いたのだ。

 結婚生活が子供の成長と共に長くなるにつれてもまだ夫への愛情を、家族になったことで多少変質したとはいえ持っていた民子は、夫による直接的なアプローチ、言葉による積極的な求愛を非常に嬉しく感じ、心の底から沸き上がってくる久しく忘れていた情念に頬を赤らめた。テレビには、真剣な表情でボールを追いかける日本代表朝比奈狂平の姿が映し出されている。

 行為の最中、鋼兵は妻を求めつづけた。激しく、執拗に。

 いつもなら、鋼兵は、まるで愛馬を手塩にかけて調教するかのごとく、ゆっくりと民子を快感へと誘っていくのであるが、この夜はそうではなかった。鋼兵の動きは民子の気持ちを無視するものだった。

 あまりの激しさに、民子は「どうしてこんなに激しいの?」と、鋼兵を受け入れながら思わずそう声を出した。が、鋼兵はその質問に答えることはなかった。彼はただ、一心不乱に民子をむさぼり続けた。ベッドの軋む音が、部屋に響き渡る。

 やがて民子の中で果て、熱い水を深奥に撒き散らすと、鋼兵は妻の上に覆いかぶさった。それから、

「民子」

とつぶやくと、妻をきつく抱きしめた。

 荒い呼吸のまま鋼兵はごろんと仰向けになって枕に頭を乗せると、大の字になった。続いて民子が、こちらも息絶え絶えになりながら体勢を整え、夫の裸体に寄り添うように横になった。

「気持ち良かった?」

鋼兵は呼吸を整えつつ、傍らでまだ胸が上下している民子にそう問いかけた。

「うん。でも、ちょっと怖かった」

「そうか。ごめん」

「あんな鋼兵初めて」

裸の民子は鋼兵の体に片方の腕と片方の足を乗せ、抱くように横たわっている。

 しばらく沈黙があった。男と女のせわしない息遣いが寝室には聞こえたが、やがてそれも治まっていった。この間、夫婦は先ほどの情事の余韻に浸っていた。それはどちらも同じだった。だが、二人には決定的な違いがあった。鋼兵にはある悩みがあった。夫婦で共有されていても不思議じゃない悩みがあった。一方民子には、そんな思考は露ほどもなかったのだ。

「ねえ鋼兵」

民子は、夫の胸板をゆっくりと撫で回しながらそう言った。

「何」

「どうしてあんなに激しかったの?」

穏やかな、まるで子守唄を歌っているような口調だった。

「ああ……」

「あんなの初めて」

民子の手が、鋼兵の胸の上をすべっていく。

「なにかあったの?」

「あのさ、民子」

「ん?」

「聞きたいことがあるんだけど」

呼吸は、すっかり元に戻っている。

「なに?」

「僕たちの初夜のこと」

「初夜って、結婚の?」

「そう」

明かりのない部屋の中、二つの影が身を寄せ合っている。

「あの時、君は泣いたよね」

「泣いたわね」

「あたしたち上手くいくかしらって」

「言ったわ」

「あれはどうしてなの? なんだか、急に気になったんだ。ここ数日」

この質問に、民子はすぐには答えなかった。しかし、鋼兵の体をまさぐっていた彼女の手は止まった。

「あたしにも、よくわからない」

「え?」

「なんだか、不安になったの。本当に、突然」

言いながら、民子は夫に顔を寄せた。彼女の呼気を鋼兵は胸で感じた。

「途方もないことって、何?」

妻の頭頂にキスすると、鋼兵はそう尋ねた。そして、

「実はあの時、すごくびっくりしたんだ。君が気の波の上下がわりと激しい人だってことは知ってたけど、あんなに笑顔で披露宴を終えた後に、部屋で泣き出したから」

と言った。

 民子はすこし体を動かして鋼兵に覆いかぶさると、彼の体にキスをし、

「わからない。でもなにか、恐ろしくて、変わってて、そんなことがあたしたち二人にだけ起きそうな、そんな気がしたの。いつかはわからない、わからないけど、いつか起こる。そんな気がしたの」

と言った。

 一瞬夫婦は言葉を失った。カチ、カチ、カチ、という時計の秒針が時を刻む音だけが聞こえた。

 民子は勢いよく頭を上げると、夫の顔のそばまで自分の顔を近づけ、

「でも、今の今までそんなこと忘れてたわ。あなたのおかげよ。あなたがあたしをしっかり支えてくれているから。ね、旦那さま」

と無邪気にそう言って、鋼兵に口づけした。鋼兵は妻に応え、舌を差し出した。民子はその舌を吸い、それから彼の舌に舌を絡ませた。

 情熱的なディープキスを終えると、二人は見つめ合った。

「でも、それとさっき激しかったことが、何か関係があるの?」

見つめ合ったまま何の気なしに、民子は鋼兵にそう尋ねた。

「……実は」

「なに?」

「斗和と潤也のことなんだけど」

「え?」

夫の口から意外過ぎる言葉が飛び出してきて、民子は素っ頓狂な声をあげた。

「おかしいと思わないか」

鋼兵の語気がわずかに上がった。

「おかしいって、なにが?」

夫の口調が変わったのに驚いて、民子は少したじろいだ。

「なにがって……。民子は何も感じていないのか」

「いや、あたしは別に」

「仲が良すぎると思わないか」

「仲が良いのはいいことじゃない」

「良すぎるんだよ。かんがえてもみろ。あいつら、今までケンカしたことがあったか? 些細なことでもあったか? 無いよ、一回も無い。いっつも、仲がいい。いいなんてもんじゃない、まるで同じ人間みたいだ」

「鋼兵、どうしたの、いきなり」

「あの二人の様子を見たか。何かを隠しているように見える。何かはわからないけど、何かを。民子、君は、あの二人を見て、そんな気にならないのか?」

鋼兵は起き上がると、民子の肩を力任せに掴んで揺さぶった。

「ちょっと、鋼兵、痛いよ」

民子は手で鋼兵の腕を払いのける仕草をしながらそう言った。

「あ、ご、ごめん」

鋼兵は慌てて民子から手を離した。いけないことをした、という風に、彼は自分の両手のひらを見つめた。

「鋼兵、ちょっと考えすぎよ。悪いクセが出てる。あたしには、なにも感じられないわ、鋼兵が言うような、そんなことは。斗和も潤也も、本当にいい子よ。悪さもしないし、仲もいい。学校の先生だって、家庭訪問で言ってたじゃない。天宮君達はとっても仲がいいし、素直でいい子達だって」

「……」

「友達も多いし、そりゃあ、思春期なんだから、悩ましい顔をすることもあるけど、それはあの年頃なんだから、当たり前じゃない」

「違うよ、僕が言いたいことはそういうことじゃない」

「考えすぎよ。母親のあたしから見ても、二人には問題がないわ。ましてや何かを隠してるだなんて」

「民子、違うよ、違うんだ」

「しつこいわよ。そんなこと言って、なんだか不吉よ。あなたの口からそんなこと言われるなんて、心外だわ。斗和と潤也は、あたしたちの立派な息子達です。母親のあたしが言うんだから間違いありません」

「母親母親って、じゃあ何だよ、僕は父親なんだぞ!」

鋼兵は怒りに任せてそう怒鳴った。

 場が静まり返った。愛する夫に叱責されたと感じ、民子は俯いて何も言えなくなった。

 鋼兵は、しまったとばかりに口を押さえた。威張ってしまった。自分の父親がかつてそうだったように、父親だ、と、偉そうにまくしたててしまった。鋼兵は後悔の念に駆られ、

「ごめん」

と謝ると、裸のまま布団を被った。

 民子は、しばらくそのままだったが、やがて、おもむろに布団をまくり上げると、鋼兵の隣に横になった。

 夫婦は、その晩はそれっきりだった。鋼兵は自責の念に駆られながら、民子は辛い気持ちを押し殺しながら、それぞれ眠りについた。

 だが、眠りながらも、鋼兵は、ある決心を固めていた。

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