第九章 暁を望む日々 一日目
鳥がさえずる声が聞こえる。すずめだろうか。ちゅんちゅん、と、軽やかに、楽しそうに、鳥が歌っている。もちろん、本当に鳥が歌っているのかというと、そうとは限らない。人間の耳にそう聞こえる、というだけの話であって、真実鳥が歌っているのか考えたときには、幾分怪しいものがある。人間は、色々なものに意味を付けたがる。人間は考える生き物なのだ。考えるところがいいところでもあるし、時に悪いところにもなる。良い考えを抱くのも悪い考えを抱くのも、どちらも人間の姿なのであって、それを否定することはできない。
朝になっていた。朝は、等しく万人に訪れる、すなわち、太陽は等しく万人に昇る。太陽は、太古の昔から存在し、太陽神、という概念があるほどに、全てを見てきた。それは、「光」という形で地上に降り注ぎ、「光」を元にして鳥も、虫も、人間も、活動する。光があるから見ることができる。光があるから生きていける。光があるから、存在できる。
この朝、天宮家においても例外ではないこの朝にも、稀有な運命を背負っている双子の兄弟、斗和と潤也にも、光が降り注ごうとしていた。その光は、いわゆる日光という意味の光ではなく、比喩においての光、つまり、「希望」という名の光だった。いつ終わるとも知れない二人の殺し合いは、前日の家族会議における父の提案により、三日で決着をつけることとなっている。三日で終わる。後、三日で、全てが終わる。
しかし、果たしてそうなのだろうか。状況は何も変わらない。「声」が依然として二人互いに聞こえるのは同じだ。
二人に降り注ぐ光は、その名は、「希望」なのだろうか。「絶望」ではないのか。
斗和と潤也は、それぞれに考え、テレパシーで盛んに話し合ってもいた。話し合う気がなくても、二人の思考は互いの頭に自然と流れ込んでくるので、否が応でも話し合わざるを得ない。
二人に答えは出てこなかった。どうすればいいのか、皆目見当もつかなかった。
ただ、変化はあった。
朝起きてリビングに二人が入った時、二人は、今まで見せていたような仲睦まじい様子は無く、顔を合わせても無言で、仮面の振る舞いは完全に終わっていた。それを見た民子は、やや戸惑った仕草を見せたが、昨晩の話が本当であったことを二人の振る舞いを眺めて真実理解し、何も言わず、ただ淡々と朝食を準備し、息子達に与えた。鋼兵もその場にいたが、父は、黙って、息子達をただ見ているだけで、干渉しようとしなかった。それが彼の流儀でもあったし、何より彼は二人を信じていた。
やがて、斗和と潤也は学校へ、鋼兵は職場へと向かうために、家を出た。挨拶を除き、家族の間に会話は無かった。
家に一人残った民子は、静かに胸の前で手を組み合わせ、誰にともなく祈り始めた。
学校に行った斗和と潤也は、授業を受け、友人たちと談笑していた。一見、いつもと変わらない風景だった。しかし、異常と言える点が一つだけあった。二人が互いに交流を避けているのだ。
三日以内に自分たちの宿命に決着をつけなければならない、という事実がプレッシャーになっているのであろう、二人は、父の提案が頭から離れず、今日を過ぎれば後二日しかないことに焦り、何とかしなければならないと解ってはいながらもどうすることもできない、どうすればいいのかも解らない状況から、自然に、互いが互いの肉声を交わし、視線を混じらせることを避けていた。
二人によく接する友人ならばその変化を敏感に察したかもしれないが、幸いというべきか、二人は常日頃から自分たちの秘密を漏らさないように努めていて、その一環として「親しい友人を作らない」という暗黙の了解があった。それゆえ、昨日と比べて斗和と潤也、二人の間に現実的な交流がないことに気付く者はいなかった。事情を知らない人間から見たら、今日、今この時の二人の学校生活は、ごくごくありきたりな、いつもと変わらぬ状態に見えることだろう。
周囲の生徒と同じように授業を受ける斗和と潤也。彼らは普通に勉強しているように見えるが、内実は違う。気が気でないのだ。特に潤也はそうだった。潤也は斗和と違い、自分たち兄弟の殺伐としきった関係に強烈な疑問を抱いている。だから、何とかしなければならない、という思いは斗和以上にあった。一方斗和には、潤也ほど「何とかしなければならない」という気持ちはなかったものの、聡明で日頃から自分たちのことを正しく導こうとしている父からの、心からの諭しがあったがゆえ、潤也との、弟との関係を何とかしなければ、という思いが心の奥底に確かに芽生えていた。言うなれば二人の、現状を変えようという気概は、潤也の方は有機的で動的、斗和の方は無機的で静的な性質を帯びていた。性質に違いはあれど、どちらも「変えよう」としているのに違いはない。ただ、問題は、どのようにして変えるのか、だった。二人には宿命がある。潤也はともかくとして、斗和は、その宿命を完全に忘れてしまったわけではなかった。「どちらかが死ななければならない」という宿命だった。二人にとって、特に斗和にとっては「当たり前」の宿命だった。
下校のチャイムが鳴った。生徒たちは、三々五々、帰途につき、教室を出て行く。一人、また一人、あるいは仲のいい者たち同士数人で、夏休みも近いため、はしゃぎながら出て行く。彼ら彼女らの誰も、天宮兄弟に今、生死に関わる問題が浮上していることを知っている者はおらず、この下校も些細な日常の一コマにしか過ぎなかった。しかし、天宮兄弟にとっては違った。
最後の一人が教室を出て行く。最後の、と言ったのは、天宮兄弟以外の最後の、という意味である。斗和と潤也は、まだ教室に残っていた。まるで示し合わせたかのように、二人は教室に二人だけになるのを待っていたのだ。
声にならない声で通じ合ってそう決めたわけでもなかった。頭の中に響く互いの声は、通信を怠ることがなかったのだが、教室に残るぞ、と、その中で決めたわけでもなかった。端的に言って、二人は、なんとなく教室に残ったのだ。
議題は、一つだった。
「帰らないのか、アニキ」
二人だけの教室の中で、潤也が、斗和に声をかけた。周囲はひっそりとしていて、校舎の外からは、野球部やサッカー部の、ウォーミングアップをしているらしい掛け声が聞こえるだけだった。
「お前の方こそ、部活、行かなくていいのか」
自分の座席に座ったまま弟の方は向かず、斗和はそう言った。潤也も、自分の席に座ったままだった。斗和に歩み寄ったわけではない。
「三日……なんだよな」
少し俯いてから、潤也は何か、まるで空気にでも話しかけているかのように若干放心して、斗和に聞こえる程度の声量でそう呟いた。
「ああ」
斗和は、上を向いている。天井の向こう、遥か大空を見るかのように。
「本当にそんなこと、できるのかな」
さらに俯いて、潤也は頼りなさげに、気弱にそう言った。
「さあな」
前を向き、ふうっと溜め息を漏らしてから、斗和は答えた。
潤也は顔を上げ、斗和の方を向いてから、「なあ、斗和」と言った。
「俺たち、やっぱり敵同士なのか」
潤也は、心に思った疑問を心のまま素直に、脳内ではなく肉声で斗和にぶつけた。哀願するような感じに聞こえる声音だった。
「だとしたら」
斗和は、微動だにせず、弟の問いかけに、問いかけをもって返事をした。どことなくつっけんどんな、心ここにあらず、というか、会話の相手に対して心を開いているようには受け取れない抑揚だった。
「だとしたら、やっぱり俺たちは……」
「どちらかが死ななければならない」
「……」
「って、言いたいのか」
「……」
潤也はまた俯いてしまった。そしてこう言った。
「……言いたい、わけじゃない。ただ、ただ……」
下唇を噛む潤也。
「そうなって、しまうってことだ」
「ふん」
斗和は上を向いた。その姿勢のまま、「時は来た、か」と、独り言のようにそう言った。それから、「潤也」と、鋭い声で、刺すような声で弟の名を呼んだ。
「もし、俺がさ」
斗和は、座ったまま、椅子を後ろにずらした。がたん、という音が、斗和と潤也、二人だけしかいない静かな教室に不吉な感覚をもって響き渡った。
斗和は立ち上がった。窓に向かって歩き出す。
「もし俺が」
革靴から出る足音が、双子の耳に入ってくる。
「もし俺が、今ナイフを持っているとしたら、どうする」
そう言うと斗和は、窓のそばで立ち止まり、外を眺めた。
「俺を殺すってこと?」
兄の突然の、思わぬ質問にたじろぎ少し息を飲んでから、潤也は斗和に聞いた。
「お前は、抵抗するか?」
決意を滲ませるかのようにやや間を置いて、斗和は潤也に尋ねた。
潤也は答えることができなかった。斗和はしゃべらない。沈黙が流れた。時間だけが過ぎていった。
斗和は潤也を殺すことができるだろう。戸惑う双子の弟に歩み、近寄って、ただ左胸をグサリと一突きすれば、双子の兄は自分と瓜二つの双子の弟を、わけなく葬り去ることができる。目撃者はいない。とはいえ後日、警察の捜査によって、斗和は逮捕されることになるのは必定だが、そんなことは、二人の「宿命」に比べれば、ちっぽけなものだった。「人生」など、「宿命」の前では塵芥でしかない。少なくとも、斗和と潤也は、そう認識していた。
だからこそ、潤也は答えることができなかった。兄の「考え」を知ることはできても、「真意」までは、いかに脳内の思考が筒抜けであるとはいえ、感知することはできない。
そう。
殺そうと決意すれば、殺すのだ。
宿命に従う、ただそれだけのことなのだ。
神を恨みながら。
「本気……なのか?」
かろうじて潤也は、そう言葉を搾り出した。今彼の目には、窓越しに外を眺める斗和の背中が映っている。なにかしらの決意をしている人間の背中だった。
斗和は答えない。
「斗和!」
潤也は、大声で、兄の名を呼んだ。
潤也の目に、下を向き、肩を落とす斗和の背中が見えた。と同時に、「ふっ」と言う声が、確かに聞こえた。斗和の声だった。
「冗談だよ」
斗和はそう言った。それから上を向いて、
「たぶんな」
と、自分で自分に言い聞かせるように呟いた。それはあるいは、自分たち兄弟をこのような状況に置いた、得体の知れぬ神という存在、いや、概念に対して言ったのかもしれない。
斗和の様子から、兄は本気ではないらしいと察した潤也は、心内で胸を撫で下ろしながらぽつりと、「どうしてこうなっちゃったのかな」と言った。斗和は依然として外を見ながら、
「わからん」
と答えた。
「何がいけないのかな。俺たち、何かしたのかな」
斗和は答えない。
「昨日さ、斗和は、神様のことを話したけど、斗和がそんなこと考えてるなんて、俺、知らなかったよ。きっと、最近考え始めたんだよな」
沈黙を守る斗和。
「斗和の言ったような、神様が、本当にいるとして、神様って、なんていうか、残酷だよな」
斗和は何も言わない。
「俺たち、何もしてないよ。何もしてないのに、なんで、こんな……」
「カインとアベルの話を知ってるか?」
「え?」
「俺も最近知ったんだがな」
「カインとアベル……」
「世の常なのかもしれないな」
「そんなことって……」
斗和は踵を返すと、自分の座席に戻って鞄を持ち、教室を出て行った。
潤也だけが、一人、残ってしまった。
潤也は、頭の中で斗和に語りかけた。しかし、返事は無かった。もう遠くに行ってしまった。
一人潤也は、教室の中で、頭を抱えた。どうしたらいいんだ、と、彼は苦悩した。部活に精を出す生徒たちの声が、校舎の外から聞こえてくる。




