序
人間の一生とは気まぐれなものだ。生まれ、生き、死ぬ。数多の人々が、その生にわけもわからず振り回され、脇目もふらず全うしようという意識もなく、ただ、日々の生活に時には困窮しながらも生き抜こうとする。
これには意味があるのだろうか。いや、意味などない。人間とは、元来、死にたくない生き物なのだ。それだけのことなのだ。大体、死を望む生き物など、ナンセンスだろう。
皆、生きるために生まれてきた。
かつて、永遠の命を望んだ王がいた。その王は、権力のもと、家臣を使い、四方八方手を尽くして永遠の命を、不死を求め続けた。
しかし、不死は手に入らなかった。せめてもの慰めだろうか、兵馬をたくさん配置した巨大な墓を作らせ、王はそこで眠りについた。
想像を絶するほど強大な権力を用いて求めた「永遠」を、王は、「生」ではなく「死」で手に入れた。皮肉というか、なんというか。王は今も、醒めない夢を見ているのか。真相はわからない。
生と死とは、人間にとっての、これまた「永遠」のテーマなのであるが、これらは、日常の中でごくありふれたものであることは間違いない。現に、人は生まれ、死ぬ。たくさんの人間が生まれ、同時に他のたくさんの人間が死ぬ。事故もある。病気もある。あるいは殺人も。
海の見える部屋があった。海は凪いでいた。太古の昔より変わらぬ、波のうねりがそこにはあった。寄せては返す波。音は極めて穏やかで、嵐の予感など露ほども感じさせない。静かだった。波の音以外は。
窓から海を眺める二つの人影がある。部屋は暗く、明かりを燈していない。ただ、満天の空に佇む月、それが発する光だけが、この部屋においては光源だった。
「綺麗な海だね」
影の片方が呟いた。
「そうね」
もう一方の影がそう返した。呟くような感じで、どこか、感慨深げでもある。波音が絶え間ない。
どこからか、海鳥の鳴く声が聞こえた。影の一方が、ああ、こんな時間にも海鳥は鳴くんだな、と言ったが、これは声にならない声だった。
「あのね」
少し俯き加減になりながら、一方の影がそう言った。
「何?」
とても優しい声音で、もう一方がそう問いかける。
「あたしたち、上手くいくかしら」
影がそう言う。表情は、沈鬱で、暗い。希望などどこにもないかのような感じだった。
「上手くいくって言ったら、民子は納得するの?」
影は、穏やかに微笑みながら、そう言った。まるで、恐ろしい夢を見たくないがために眠らないでおこうとする幼子をあやす父親のように。
「あのね、鋼兵」
民子は、右手を握って口元に持ってきていた。戸惑ったときにいつもする癖だった。
「何?」
「どうしてだろう、あたし、不安なの。あなたと一緒になれて幸せなのに、幸せでいっぱいなのに、どうしようもなく、不安なの」
民子は涙声だった。何が彼女をここまで不安にさせるのか。幸せに包まれている女というものは、案外、脆いのかもしれない。
「初めて聞いたよ、君の心を」
鋼兵は、緩やかな波の音と違わぬ声音でそう言った。
「わからない。どうしてこんな気持ちになるのか。まるで、あたしたちの前途に、何か途方もないことが待ち受けているような、そんな気が、ふっとしてきて、それであたし、この海を眺めているとそんな気がしてきて、どうしていいかわからなくなって」
民子は嗚咽を必死にこらえながらそう言った。
しばらく沈黙があった。聞こえて来るのは、波音、二人の呼吸音、そして時折、海鳥の鳴き声。
「民子」
片方の影が、もう一方に寄り添った。
「あ」
鋼兵が民子を抱きしめる。
「大丈夫だよ」
鋼兵は腕に力を込めた。
「僕が幸せにする」
鋼兵の腕に抱かれた民子は、その言葉を聞いて、一瞬体を震わせた。直後、彼女の目から涙があふれ、とめどなく流れ続けた。
「僕たちは、夫婦になった。僕たちには、これから先、色んな試練が待ち構えている。でも、負けない。屈しない。誰がなんと言おうと、何が起ころうと、僕は君を幸せにする。これは約束じゃない。覚悟だ」
民子は、涙を流しつづけながら、鋼兵の言葉を聞いていた。何が彼女をこんなにも思い悩ませているのだろうか。
「二人で幸せな家庭を築こう」
民子の感情の堰が壊れ、嗚咽が漏れ出した。
「鋼兵。ごめんね。こんなあたしでごめんね」
絶叫にも近い声の大きさで、彼女はそう叫んだ。
鋼兵は、そんな民子をやさしく撫でた。それからこう言った。
「いいんだよ」
そして唇を彼女の唇に寄せ、
「愛してる」
と呟いた。二人は口づけを交わし、固く抱き合った。
とある夫婦の、どこにでもある初夜の光景である。