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前編

 ――妻が浮気をしているかもしれない。


 事の発端は、旦那様が放ったこの一言でした。


 ◇


 旦那様とは、お見合いで初めてお会いしました。


 私の家は子爵位。対する旦那様の家は伯爵位。お見合いと言いつつも、我が家に断るという選択肢はありません。旦那様は次男坊ですので伯爵夫人にはなり得ませんが、伯爵家と縁続きになれるのは旨みですので。


 要するに、ただの政略結婚でした。結婚式で初めて顔を会わせる場合もありますので、事前にお会いできて運が良かったと言えます。


「初めまして、フランシスカ嬢。俺……いや、私はマリオンと言います」


 旦那様――勿論、当時は旦那様ではありませんが――の挨拶の最中、私は危うく卒倒しそうになりました。


 私好みなんて言葉では表現が足りません。


 理想だったのです――筋肉が。


 恋愛小説をよく読む影響で、私は守ってもらう事に強い憧れを抱いていました。


 囚われた姫様を、颯爽と助ける騎士様。酷い扱いを受けるのが分かっていて嫁がされそうになっている姫君を、迎えに来る王子様。恥ずかしながら、よく夢想したものです。自分がそんなヒロインみたいなピンチに陥る訳もありませんが、想像するのは自由ですから。


 そうして妄想の翼を広げている内に、自然と好みが確立しました。その好みに、見た目――特に、筋肉に対する拘りが出てきたのです。


 やがて、自分の理想が実在するか気になりだしました。けれど、いくら探しても私の身近にいるのは、剣なんてただのたしなみだと思っているような、少々頼りない方ばかり。舞踏会などのついでに見ているだけなので、当然の話ではあるのですが。


 細いのは論外、鍛えすぎは、失礼な言い方になりますが鬱陶しい。


 そんな私の理想を、その方は見事に体現していました。


 服の上からでも分かる、細すぎず、鍛えすぎずの筋肉が描く絶妙なライン。騎士という職業に就いているだけあって、その肉体は私が見た中でも群を抜いていました。


 優しげな風貌を含め、それはもう見事に虜になりました。


 結婚するなら、この人が良い。


 完全に見た目に釣られた形になりますが、強く思いました。……政略結婚ですし、冷遇される可能性がない訳ではありません。せめて見た目の好みくらいは、と考えたのです。


 身体に目を奪われた私は、何の反発もせず、さくっと縁談を了承しました。余りにも軽い返事に、父の方が困惑した程です。


 ともあれ縁談は成立し、あれよあれよと準備は進められ、粛々と結婚しました。


 そうして一緒に暮らし始め、旦那様がどういう方なのかを知って。


 いつしか、目が離せなくなりました。


 旦那様は、見た目そのまま、とてもお優しい方でした。


 お話をする時、身長差を埋める為にわざわざ屈んで目を合わせて下さったり。忙しい身の上ですのに、私のような小娘の話を真剣に聞いて下さったり。政略結婚にも関わらず、夜、夫婦の営みに慣れない私を気遣って下さったり。


 大切にされていると分かるのに、そう時間はかかりません。


 擽ったいような、面映ゆいような気持ちは、やがて恋に変わり。


 私は、旦那様を心から愛してしまったのです。


 そんな状況下で聞いてしまった、旦那様の言葉――もとい、不貞の疑い。


 衝撃としか言い様がありません。結婚して3年、一途に……それはもう犯罪一歩手前になるくらい真っ直ぐに、旦那様をお慕いしていましたから。


 訳が分かりませんでした。けれど、いくら誤解を解こうとしても、浮気だと決めつけたらしい旦那様は聞く耳を持たず。



 浮気を疑われて一ヶ月。旦那様の拒絶に堪えきれず、私はとうとう友人に泣き付きました。



 ◇



 友人――クララは旦那様の幼馴染みです。領地を接している関係で交流が深く、家族ぐるみの付き合いがあると聞きました。因みに彼女は結婚していて、そのお相手は旦那様の同僚だったりします。


 そんな友人に、朝、会いたい旨の手紙を出しましたら、直ぐに返事が来ました。曰く、数日後の昼頃にお邪魔する、と。


 そわそわしつつ、当日の午後を迎えました。屋敷を訪れたクララを迎え、紅茶と茶菓子を用意し、人払いを済ませてようやく彼女が口を開きます。


「取り敢えず、何があったのか詳しく教えて頂けますか?」


 友人の危機だと言うのに、クララは中々冷静です。私よりも数歳ばかり下なのですが、見習わなければなりません。


 早速、感情的にならないようにと決心しつつ、思い返してみます。



 旦那様の態度が急変したのは、私が騎士団の詰所にお邪魔した後です。


 その訪問は、偶然と私のごり押しによる結果でした。


 その日、旦那様は偶々忘れ物をしてしまったのでした。何でも前日仕事を持ち帰ったは良いものの、翌日、出る前に肝心の書類を持って行き忘れた、と。


 普段、旦那様は家で仕事をせず、私の相手をして下さいます。その旦那様が持って帰った事から察せられるように、急ぎのものだったらしく、昼前に使いの騎士が屋敷に来たのです。


 最初は、書類を使いの騎士に渡すだけの予定でした。


 けれど、私はあることを思いついたのです。


「あの、その書類、私が届けても良いでしょうか」


 皆さんを困らせてしまうのはわかっていました。けれど、滅多にない……いえ、もう二度とないかもしれない、旦那様の職場訪問のチャンス。これを利用しない手はありません。


 私の思いつきなどとても単純。もし職場に行けたら、きっと好きなものを見られるだろうな、と。


 働く旦那様を見たい、筋肉を見たい拝みたい!


 そのチャンスをもうすぐ手に入れられるというのに、逃す手はありません。


「奥様が? しかし……」


 当然、執事は難色を示します。が、ここで折れる私ではありません。


「旦那様が困っているなら、私も力になりたいのです。……いけませんか?」


 ……ごめんなさい。半分嘘です。そんな純粋な心ではありませんでした。


 結局、執事は私の秘技「お嬢様のワガママ」に負け、渋々ながら外出を許してくれました。


 そんな訳で私が詰所を訪れましたら、旦那様は大変驚いた様子でした。当然でしょう、普通、貴族の女性は町を出歩きません。騎士の詰所などなおさらです。


 書類を渡してしまえば、私の役目は終わり。


 ――今思えば、詰所見学などせずに、ここで大人しく帰っておくべきだったのでしょう。


 しかし、そのときの私は、自分の欲しか頭にありませんでした。


 私を屋敷に帰そうとする旦那様に、折角だから詰所を見学したいとおねだりをして。問答無用で却下されるものと思っていましたが、なんと、旦那様は少しだけ困ったような顔をした後、了承してくれました。


 そうして、旦那様は私を訓練場まで案内してくれました。……大丈夫なのかはわかりませんが、件の大事な書類を、近くにいた騎士に押し付けて。


 訓練場に着き、目の前に広がっていたのは、案の定な光景です。


 木剣を振るう騎士。黙々と腕立てをしている騎士。待機中だという彼らは各々好きに訓練しています。共通しているのは、皆が皆、立派な筋肉持ちである事でしょうか。


 ……やはり、筋肉は実用的なものに限りますね。貴族の子息のものなど話になりません。特に奥にいる騎士、いいえ、あちらの騎士の方が……。


 もうこんな機会はないと思って、精一杯脳裏に焼きつけました。


 暫くして一応満足したので、ふと旦那様に目を向けます。……目が合いました。どうやら、ずっと私を観察していたようです。


「女性がそんな熱心に見て楽しいものだろうか」

「はい、とても!」


 あ、いけない。少し返事が元気過ぎましたね。旦那様の困惑が伝わってきます。


「そ、その、旦那様が普段働いている場所なので!」


 慌てて取り繕うと、旦那様はどうにか納得したようでした。


 ……というのは私の勘違いだったようです。


 旦那様は、屋敷に帰って来た後も、何かを考えている様子でした。


 そんな日もあるだろうと、私は気にも留めませんでした。


 ところが、私の予想に反し、旦那様は話をしていても、どこか上の空で、目すらも合わなくなっていき。


 それが一週間も続けば、そんな日もあるだろうなどとは思えません。そこで、まずは使用人にさりげなく聞きました。けれど、皆さん揃って首を傾げるばかり。


 これでは埒が明きません。なので、私は旦那様に直接伺おうと決心しました。


 旦那様は晩酌が日課です。関係がぎくしゃくする前は、私が酌をすることもありました。


 ワインを持って、帰って来た旦那様の部屋を訪れました。お酒が入ったら、口の滑りも良くなりますから。


 気合いを入れて臨んだところまで良かったのです。けれど、ノックをしても返事がなく、悪い事だと思いつつもこっそり中を覗いてしまって。


「――妻が、浮気をしているかもしれない」


 執事にそう話しているのを聞いてしまいました。


 動揺して、うっかりワインを落としたのは失敗でした。床に落ちたワインの音は大きく、旦那様に気付かれてしまったのです。


「誰だ!」


 隠れる暇もなく、私は旦那様に見付かりました。


 私を見下ろす旦那様は、厳しい表情をしています。目線を合わせてくれません。


 それが、答えなのでしょう。詰まり、旦那様はとても怒っていて――私の浮気を疑っている訳で。


「聞いて、いたのか」

「私はッ……!」


 そんな事、していません。


 私が無実を訴える前に、旦那様は扉を閉めようとしました。


「……すまないが、今は仕事が立て込んでいて君に付き合っている余裕がないんだ」


 それは穏やかながらに絶対的な拒絶でした。


 けれど、やってもいない事で責められるのは、納得がいきません。


「お待ち下さい、旦那様! 少しだけで構いません、お話を……ッ!」

「フランシスカ」


 食い下がる私を、旦那様が窘めました。


「俺を困らせないでくれ」

「そんなつもりはありません! けれど、」

「フランシスカ。……分かってくれないか」


 違うのです。分かってないのは、旦那様の方です。


 詰る言葉を飲み込んだ私は、旦那様が扉を閉めるのを、呆然と眺める事しかできませんでした。

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