闇夜。
静かな闇夜の森に響くのは、風の音。そして、今にも雨が降り出しそうな、空の鳴き声。草木の揺れる音、まるで危険を周囲に知らせているかのようにうるさく鳴き続ける虫たちの声。
空気は湿っており、森の中を進むのは三十頭を超える漆黒の狼の群れ──"闇狼"。
金色に輝く瞳を光らせながら、獲物に向かって気配を消しながら進む。
そんな彼らの進む先には大小二つの人影。
大きな影――エジルは、槍を手に周囲の警戒をしていた。そのすぐ近くには、あの乗合船での出来事でシノンが出会った少女――ルミナもいた。
迫る脅威、敵意、圧力。その全てが、二人に降りかかっていた。
「え、エジル……」
「大丈夫だ、じっとしていろ」
不安そうに震えながら声を上げるルミナに対して、エジルは安心させるように微笑んで応えた。
「っ……!」
暗闇の中エジルに向かって牙を剥き襲い掛かってきたのは、金色の目と大柄で強くたくましい筋肉を持つ漆黒の狼だった。それを見たエジルは一瞬驚きながらも槍で闇狼を切り払う。
「ギャンッ!」
そう悲鳴を上げながら、その体を地面に沈めた闇狼。
エジルの槍は正確に血管を突き、大量に血を流して間もなく息絶えた。だがそんなこと気にしていられる暇を彼らは与えてくれなかった。
次々に襲い掛かってくる闇狼かルミナを護りつつ、余裕をもって切り伏せて行った。
しかし十頭ほどを倒した頃、闇狼は動きを止めた。エジルはまだ体力に余裕があり、このままいけば彼の勝利だろう。それを悟った闇狼たちは自分たちだけではこの男には勝てないと判断し、時間を置いて仲間と作戦会議を行っているのだ。……が、しかし。
「ワオオオォォォォォォォォン!!」
「っ!?」
一頭の闇狼が遠吠えをしたと思えば、他の闇狼たちも揃って遠吠えをし始めた。
別名を、闇夜の森の支配者と呼ばれるだけあり、彼らの鳴き声は遠くへ、よく響いた。だがそんなことを考えている暇はない。この遠吠えは仲間を呼ぶためのものだからだ。エジルとルミナは全身に鳥肌が立つのを感じた。
ルミナは護身用にと持っていた短剣を取り出し、構える。彼女にも少しくらいなら武術の心得がある。しかし二十頭以上……更に数が増える闇狼を相手に、まともに戦えるとは誰も思えないだろう。
闇狼の足音が近づいてくる。そして周囲を完全に囲まれてしまったのだ。状況は絶望的、とも言えるだろう。ルミナは死に対する恐怖から全身を振るわせている。だがそんなことをしても、この状況を打開できるはずもなかった。
一頭がルミナに襲い掛かった。しかし恐怖でその場から動けず、どうしようもなく闇狼のその目を見ているしかなかった。
そんな闇狼を放っておくはずもなく、先ほどと同じようにエジルがルミナを護りつつ次々に襲い掛かってくる闇狼を、どろどろになった土に沈めていく。
闇狼の最大の武器は、その鋭い牙や爪の他に、優れた脚力があった。だが今夜は雨、地面はぬかるんでいて、得意の速度も出せないようでは、エジルに攻撃を与えるどころか、自分の攻撃が届く前に殺される。
とはいえ、エジルとて人間だ。体力の限界は、すぐに来た。
「ぐっ!」
「エジル!」
エジルの腹、脚、腕にそれぞれ牙を食い込ませる闇狼たち。ルミナが悲鳴のような声を上げた。背後から二頭の闇狼が牙を剥いて襲い掛かってきて、ルミナは咄嗟に短剣で防御しようとした。しかし二頭の敵を相手に一本の短剣で完全に防げるはずもなく、ルミナの腕に一頭が噛みつく。
「いやっ!?」
力が抜け、短剣を落す。
体が熱い。胸の鼓動が早くなる。身体の震えが止まらず、逃げたくても逃げられない。
短剣に噛みついた闇狼は短剣を捨て、再びルミナに襲い掛かろうとした。
ルミナは固く目を閉じる。何とか闇狼たちを振り払ったエジルが急いでルミナを助けようとするが、既に遅く、間に合わない。……と、誰もが思うような状況の中。
「ギャンッッ!!?」
響いたのは、ルミナの悲鳴ではなかった。闇狼たちの、苦痛に満ちた悲鳴。ルミナの右腕に噛みついていたはずの闇狼もいつの間にかいなくなっていて、ルミナとエジルの周囲から闇狼たちの悲鳴が継続的に響いている。
何が起こっているのか、この暗闇の中では判別が出来ない。数秒ほど呆然としていると、闇狼たちの悲鳴は全く聞こえなくなった。
あるのは、激しく降る雨の音、その雨に打たれた草木の鳴く音、そして怒りを顕わにしたかのような雷の音だった。
ルミナを護れる位置取りをし、エジルは再び警戒体勢に入る。雨の匂いでほぼ掻き消されているが、周囲からは先ほどの闇狼たちのものと思われる血の臭いが漂っていた。
少しして茂みの中から姿を現したのは、エジル達が予想もしなかった――子供だった。
しかしエジルは決してその子供への警戒を解かなかった。なぜなら、その子供から全く気配を感じなかったからだ。……しかし次の瞬間、エジル達の耳に入ってきたのは、意外な人物の声。
「……エジル、ルミナ?」
「……っ、まさかその声、は、ロウか?」
先程の子供が右手の掌の上に光球を浮かばせ、その声の主の下へ歩み寄り、すぐ脇に就く。そこに浮かび上がってきたのは、見覚えのあり過ぎる顔だ。つい数日前に再会したばかりの幼馴染み、ロウ。彼がいるということは、そのすぐ脇にいる子供……いや、少年は、シノンだろう。
ルミナは息を吐いた。シノンが助けてくれたのだと、そう実感したからだ。シノンは相変わらず無表情で何も言わないが、それでもルミナにとって彼の存在は大きかった。
心の底から安堵したからか、ルミナは膝から力を抜いてその場に崩れ落ちた。
「……、……に、あり……な。……ちの……よ」
途切れ途切れに聞こえる、低く優しい声。真っ暗で何も見えない暗闇の中、目の端で不規則にゆらゆらと揺れる赤くて淡い光。右手に感じる鋭い痛みと、全身に感じる熱。
ルミナは目を開けた。途端、冷たく湿った何かが目元を覆い視界を塞いだ。
「うわっ」
驚いたので少し体を動かしながら声を上げると、闇狼に噛まれて傷を負った右腕が痛んだ。目元を覆った何かはすぐに退き、代わりに視界に入ってきたのは外套のフードを深く被って顔を隠した少年の姿だった。
下から覗き込んでいる形なので、その少年の整った顔立ちがよく見えた。
……後頭部に感じる柔らかい感触、少年の顔、横たわった自分。
寝起きで判断力が下がっているが、この状況を少し整理してみると、今の自分がどんな状況になっているのか、その頭でしっかりと理解した。……してしまった。
「……えぇ!?」
驚きのあまり勢いよく起き上がる。少年はその鋭い動体視力と身体能力でルミナの動きを読み取りしっかりと躱した。よって、小説などでよくある頭同士をぶつけると言ったことはなかった。
だがルミナにはそんな事を考えているほどの余裕はなかった。
傷が痛いのも無視できるほど、混乱していたからだ。周囲を見回して、ここがどこなのかを把握する。
外は相変わらず雷を鳴らして大雨が降っているし、まだ深夜のようで、日明かりなどは感じられない。そして起き上がった自分の背後にいるのは先ほどの少年――闇狼の群れから自分たちの命を救ってくれた、シノンの姿。
「目を覚ましたか、ルミナ」
にっこりと優しい笑みを浮かべ、岩壁に寄りかかっているのはエジルだった。薪を挟んでその向かい側にいるのは、以前にもあったことがあるロウ。彼もまた優しくルミナに微笑みかけていて、おはようと挨拶をした。
……ルミナは、再びシノンの方へと視線を向ける。彼は右手に分厚くて難しそうな本、左手に湿った布を持っていた。左足はまっすぐ正面に延ばされており、太ももの上にはルミナが痛くないようにだろう、柔らかそうなタオルが敷かれていた。
シノンは相変わらず黙って無表情のままルミナを見つめているだけで、特に動くでも声をかけるでもない。
「……え、っと、その」
急激に恥ずかしさが込み上げてきて、顔を真っ赤にして両手で顔面を覆って悶える。ずっとシノンに、所謂膝枕をしてもらっていたのだと思うと、恥ずかしくて堪らなかった。
しかしそんなルミナの悶絶も知らず、肩に手をかけ、再び自らの太腿にルミナの頭を乗せるシノン。
その顔は相変わらず無表情であり、何を考えているかもわからない。
ルミナは当然再び起き上がろうとするが、それはシノンが許さず、彼女の頭を押さえて固定してしまった。シノンとしては、ルミナに無理をして欲しくなかったからなのだが、変なところで鈍感なシノンはルミナが恥ずかしがっているのだということに気づいていない。
「…………」
「や、だから……っ、ひぇ」
なんとか再び起き上がるが、シノンの方を向いた瞬間、顔が近くて小さく悲鳴を上げる。どうしようもなくなったルミナは、諦めてシノンの太腿に頭を乗せて顔面をシノンの方へと向ける。
今の自分の顔を、シノンにも、エジルにも、ロウにも見られたくなかったからだ。
「はは、年頃の娘だな。……さて、エジル、お前これからどうする? その傷じゃ、しばらくはまともに戦えないだろうに」
この世界は街と街を移動するのにも、戦闘能力が必要になる。人を襲う獰猛な獣の他に、魔力を使用することもある魔物が存在しているからだ。
街から街、国から国へと移動しているエジルとルミナには、どうしてもその戦闘力が必要だった。
「……そう、だな。ここはザングの森のど真ん中だしな……傷が治るまでここにいるわけにもいかないし……そうだな。ロウ、シノン。俺はお前たちに、ちゃんと礼をしたい。護衛ついでにぜひ来てほしいところがあるんだが、いいか?」
「護衛は全然構わんが、礼ってのは?」
礼など求めていなかったロウとしては、エジルの言葉が意外だったのだろう。故に、思わずと言った風に尋ねる。
シノンはあまり興味なさそうにしながら、眠ってしまったルミナの前髪を掻き分けながら額を撫でていた。
「は? 当たり前だろうが。俺やルミナの命を、ルミナに至っては二度も助けてくれたんだ、礼もせずに済ませられると思うなよ」
何を当然のことをとばかりにロウに告げるエジル。命の恩人に対して何もしないというのは、エジルのプライド、自尊心が許さなかった。ましてや久々に再会してから大してゆっくりとできなかったのだ、再び会えたこともあり、今度こそゆるりと語らいたいというのもあるのだろう。
その思いを汲み取り、ロウも仕方ないかとうなずくのだった。シノンに関してはロウについて行くだけなので、特に気にしてはいない。
夜も明けぬ暗がりの空では、夜が明けるまでずっと、稲光が走っていた。