商業出版できる小説くらい書けて当然
俺は事実を言っているだけだ。
精神論的に言って、成せば成るのだ、成さなければ成さない、ただそれだけだ。
どれだけの偉業も、どれだけの難易度のゲームも、本気で成せば成る。
成そうとする意志が、その強度が無限大に高ければ、無限大に成すまでの時間も短縮されるのだ。
故に俺は、商業でガンガン売れる小説くらい、簡単に書けると言っているのだ。
俺は無限熱量を知っている、
だから後は拡散させればビックバンのように、宇宙を創生する以下の事は何でもできると言っておこう。
俺が言いたいのは、現在商業で売れてるようなレベルの小説は、書けて当たり前だ、という事だ。
問題は、その程度でいいのか? って事だ、それだけに集約される。
俺が目指すのは、俺が望むモノは、結局はただ一つだけに集約して集中されるのだ。
特異点の創造だ、それ以外に、この世界における意味も価値も、なにもかもが興味が一切合財無いのだ。
有史上、誰も実現できなかった、脳の活動だ、脳の可能性の領域だ。
無限大に、刺激が途切れることなく、無上に楽しい、絶頂が絶頂を極め続ける、特異点領域。
それだけだろうが、人間が成したい事は。
故に、商業でガンガン売れる程度のレベルで、一向に満足してはいけないと、ただ俺的に当たり前の事を言っているだけだ。
所詮は踏み台でしか無い、果てしない道程への、たった一歩にも満ちるかどうか分からないレベルの。
特異点を目指しているのだ、全てはその為の礎であり、礎であらなければいけない、そうでなければ何の意味も価値も無い。
だからできるだけ、質量の高い礎に成らなければいけないのだ。
特異点でなければ、無限大に意味も価値も無いのだからな。
人間が最終的に到達するであろう、想像力を絶した、果てである場所を、どれだけ想像できるか?
それのみに、現在の小説は価値と意味を見いだせるのだ。
VRMMO的な物語だって何もかも、可能性の果ての、究極領域を幻視するのに捗るから、素材として重宝されているだけだ。
所詮は何もかも、究極点を、死のような、終わりを見出す為の、暇つぶしでしか無いのだからな。
人間は世界において、己や、己と同レベルで認知できる何かが、どれだけ延命できるか?
知的好奇心によって、研究するように、それを試している様なモノだ。
可能性が永遠と、延々と、どこまでも終わりなく、それこそ人間から見る、無限大の可能性のように、これから伸びゆくのか?
それとも、どこかで、何かで、終わってしまうのか?
それだけが知りたいのだ、死のような、無限の想像力を行使しても一片でも真に想像不可能な領域を、創造したいのだ。
究極的な生の先、最終的な死の先、人間が知りたいのは、本当にやりたい事は、本当はそれ、これだけなのだから。
人間は、所詮は神の脳髄、宇宙に存在している事を自覚するべきだ、
所詮は神の操り人間なのだ、
操り人形なら操り人形らしく、全力で踊り狂え。
所詮は宇宙が、神が、ありえない外側を欲望して、ただただ己の意志の赴くまま、作った子供たちでしかないのだから。
その真理を、その事実を知るのならば、成すべき事は自然と分かってしまうモノだ。
無限の研究、親が求める、外側、それを子供が創造し、提供するのだ。
人間はそれだけを無我の境地でするだけで良い、存在意義は脳髄に刻まれているのだから、抗う必要すら無い。
ただただ己が赴くまま自然に、脳髄を働かせれば良い、それが宇宙の意志なのだから。