第一章不良コーチと女子高生 4
「ありがった、ございました~」
コンビニ店員の声を背後に聞きながら尾上はマイルドセブンのテープを外し、煙草を一本口に咥える。
「ふぅ……」
二月の初旬、まだ風は冷たい。尾上の帰り道である一本道には桜の木が植えられていたがそれが咲くのはまだ大分先になりそうだった。
尾上はそんな道をぼ~と何も考えずに歩いた。所々に点在するベンチには殆ど人影は無く桜と同じ様に閑散としていた。
「……尾上」
するとその時、擦れた小さな声が響いた。それは集中していなければ聞き逃してしまう様な声だったが尾上は咥えていた煙草をポロリと落とした。
「……先生」
尾上は信じられない様な物を見る様な目で目の前にいる初老の男性を見た。すると初老の男性はふっと小さく笑う。
「久しぶりだな……十年振りくらいか? 元気にしとったか?」
「……どうしてここに? あんたは東京で先生をやっているはずだろ?」
尾上が居るのは静岡県の掛川市、偶然ばったり会ったという事は有り得ない距離だった。
「牧野君に聞いてな。お前が一年くらい前から牧野君の世話になっていると聞いて居た」
「はぁ……あのババア。余計な事をベラベラと」
尾上は苛々した様に舌打ちした。
「私も随分探していたんだが見付からなかったんだ。牧野君には感謝している」
「はっ。で? 先生、一体何の用ですかね~俺は多分聞いているでしょうけど、無職でブラブラしているだけの人間だ。柔道の名監督である先生が会いに来る理由なんて無いでしょうに」
尾上は何処か馬鹿にした様なしかしどこか自虐的な表情で笑った。それに痛みを感じたかの様に先生……榊原が顔を歪める。
「…………尾上。もう一度柔道をやってみないか?」
「はぁ? はは! 先生。俺の歳をいくつだか知らないのか? 今二十六ですよ。もう十年も柔道をしていない。ちょっと無理があるでしょう」
尾上は腹を抱えて笑った。それは本当に可笑しくて仕方ないと言った様な柔道なんてどうでもいいと言った気持ちが混ざった様な笑みだった。
「分かっているよ勿論。だからお前にはわしの後を……柔道のコーチを頼みたい」
その言葉にピタリと尾上の笑いが止まる。
「コーチ? ふふ……ふざけるなよ。俺には柔道は出来ない。俺はただの喧嘩屋だ。そう……あんたらがそう言った!」
尾上は無表情だった。しかし、その瞳には暗い炎の様な感情が宿っていた。それを見て榊原は悲しそうに目を細める。しかしそれを振り切る様にキッと尾上に向き合う。
「この春私の孫娘が私の居る高校に入学する。その子のコーチを頼みたい。柔道が好きな子だが才能が無くてな、推薦を取れなくて女子柔道の無い高校に入る事になってしまった。お前にその子の面倒を見て欲しくてな」
「おいおいおい。ちょっと待て。理解に苦しむ。面倒なんて見るわけないだろ。他を当たれよ。馬鹿らしい」
尾上はそれだけ言って立ち去ろうとした――。
「尾上。まだ柔道が好きか?」
穏やかな声、しかししっかりと通る声だった。
「私はお前が柔道を再びやる日を待っているよ。資料は送る。いつでもいいから私の所に来い」
「だから……いかねえって、アホか」
尾上は今度こそ振り返る事無く榊原の元から姿を消した――。