第一章不良コーチと女子高生 9
『でね……ほら、コレ見てよ』
『へ~結構良いね。じゃあこれはどう? 智衣ちゃんはこういうの好き?』
『……可愛いと思います』
(……何だこの声)
そんな疑問を抱きながら尾上はゆっくりと目を開いた。
どうやら机で寝てしまったらしいと、尾上は現状を理解する。自分にかかってる布団は恐らく今聞こえた声の主、風香の物だろうと。
「風香~うるさい。友達か? もっと小さな声で話せ」
尾上は酒で赤らんだ顔でそう言う。
「あ、タカシ起きたんだ。ふふ」
するとタカシと半同棲しているOL風女子、風香が尾上に近づいて来た。
「タカシがお酒を飲んだまま眠るのなんて珍しいね。何か有った?」
尾上が机の上を見ると尾上が飲んでいたはずの大量の缶ビールの空き缶が無くなっていた。尾上は風香が片付けたのかと軽く考える。
「別にねえよ。っち、嫌な夢を見ちまった」
尾上は不機嫌そうに顔を上げる。
「友達か? 珍しいなお前が人を家に呼ぶなんて」
「う~ん。友達っていうか、さっき会ったのよ」
「はぁ?」
尾上は風香の言葉に疑問を感じながら普段自分達が眠っている寝室を見た。
「はぁあああ?」
そしてその光景を見て固まる。そこに居たのは二人の女性だった。
「よ。起きたのか? 尾上」
一人はエプロンをつけたハスキーな女性。このマンションの管理人牧野。そしてもう一人は……。
「………………」
無言で尾上を見ていたのはポニーテールの少女。榊原智衣だった。
「おい……風香」
「うん。私が家に帰って来たらね。ドアの前で話している牧野さんと智衣ちゃんが居たのよ。何か智衣ちゃんがタカシに用が有るみたいだから家に入って待っていて貰ったの」
「いや、用が済んだから帰って貰ったんだよ。何でまた家に居るんだよ」
尾上は頭を抱えた。その痛みが酒のせいなのかこの状況のせいなのかは判断が出来なかった。
「おい。尾上。私もお前に話が有る。とりあえず聞きなさい」
牧野はそう言うと尾上の正面に正座した。尾上は机にだらしなく寄りかかりながらそれに応える。
「何だよ牧野。管理人だからって人の家に勝手に入っていいのか?」
「牧野さんだろ馬鹿。それに私は風香ちゃんに呼ばれたから勝手に入ったわけではない……そんな事はどうでも良い。尾上。お前智衣ちゃんの話を聞いたんだろ?」
「……聞いたら何だよ?」
「どうしてこの子に柔道を教えてあげないんだ?」
牧野はそう言って智衣を隣に座らせた。相変わらず智衣本人は無言だった。
「どうしてって……お前も可笑しな事を言うよな。何の義理が有って俺が柔道を教えなきゃならない。それに俺が人に物を教えられる人間に見えるのかよ?」
尾上は邪悪な笑みを浮かべた。それは過去の尾上を知っている者なら震え上っていただろうそんな笑み。
「お前は榊原先生にお世話になっただろ。理由はそれで十分だ。それでも納得出来ないならこれを読みな」
牧野はそう言ってエプロンから一枚の手紙を取り出した。
「おいおいラブレターか?」
「いいから読みな。この馬鹿」
尾上は牧野から受け取った手紙を開いた。するとそこには見慣れたゴツゴツした字が書いて有った。
『尾上、この手紙を読んでいるという事は私はもう死んでいるという事だろうな。私が死んだらこの手紙を尾上に渡して欲しいと牧野君に頼んである』
尾上は無言で手紙に視線を走らせる。
『この手紙をお前に渡すのは他でも無い。お前に頼みが有るからだ。それは、孫娘の智衣の事だ。智衣は柔道が好きでな。そんな智衣に柔道を教えてやってはくれないか』
その後も手紙には智衣についての事、尾上をコーチとして受け入れる準備が整っている事が書かれていた。
『最後になるが、私はあの日お前の事を守ってやれなかった事を後悔している。お前は間違った事をしたわけではない。弱き者を守る為に武道を使ったのだ。だから智衣に柔道を教える事に負い目を感じる必要は無い。お前は私の最高の弟子だ。だからお前以上に智衣に柔道を教える適任者は居ない。だから頼む。死に逝く者の最後の願いを叶えて欲しい。そして叶うなら――』
尾上は最後の一文に視線を落とした。
『あの日叶えられなかった夢を果たそう』
『グシャァ……』
尾上は手紙を強く握り締める。
「おい、尾上――」
牧野はそれに怒りを覚え怒鳴りつけようとした。しかし、それは尾上の表情を見て止まった。
尾上の表情は一見すると無表情だったが、見知った者が見れば明らかに平常とは違っていた。やるせない想いを自らの体に深く沈めた様なそんな不安定さが有った。
「尾上……先生の最後の頼み、聞いてあげなよ」
「ふ……牧野先輩。随分あのジジイに入れ込むな。ジジイもあんたみたいな生徒を持てて幸せだったろう。ついでに抱かせてやったらもっと喜んだじゃねえか?」
「何だと! てめえ!」
尾上の一言に牧野は一瞬で激昂した。そのまま殴りかかろうと机に足をかける。
『すっ……』
しかし、臨戦態勢の二人を止めたのは意外にも今まで会話に積極的に入って来なかった智衣だった。牧野の前で智衣は牧野を腕で制止していた。
「尾上……さん。尾上さんの事、お祖父ちゃんから色々聞かされてました。でも……それはいつも何処か悲しそうで。お祖父ちゃんいつも後悔してました。だから私、せめてお祖父ちゃんの意志を継ぎたいんです。お祖父ちゃんの居る場所まで届く様に、だから私が習う柔道は尾上さんの柔道じゃなきゃ駄目なんです」
そう言って智衣は床に手をついて深々と頭を下げる。
「お願いです。私に柔道を教えてください」
「………………」
尾上はその様をジッと見ていた。するとその横からスッと湯のみが置かれる。
「はい。お茶だよ。タカシ」
風香はただそっと微笑んだ。それに尾上は深い溜息を吐く。
「おい…………小娘。お前はどれくらい強くなりたいんだ?」
「え……それってどういう――」
「いいから答えろ。どれくらい強くなりたい」
尾上の質問に智衣は静かに目を閉じた。そしてゆっくりと目を開く。
「全国一になりたい。お祖父ちゃんの柔道が一番だって証明したいから」
「…………」
その言葉に今度は尾上が黙った。だがしばらくするとお茶を一口飲んだ。
「…………どんな事でもやるって誓えるか? 俺に逆らわないと誓えるか?」
「誓います」
「……なら少しだけジジイの戯言に付き合ってやる」
尾上がそう言うと智衣の顔が少しだけ明るくなった。そして……。
「う、うぅ……」
「お、おい。何で号泣してるんだよ牧野」
何故か智衣の隣では尾上が引くくらい牧野が号泣していた。
「嬉しいんだよ。牧野さんはずっとタカシが柔道やるのを待っていたから」
そう言って風香は楽しそうに押入れを漁ったそしてその中から大切そうに畳んである柔道着を取り出す。
「はい。タカシ」
「…………捨てろって言っといたろ?」
「うん。でも取っておいて良かったでしょ?」
風香がふんわりした笑顔で笑う。その柔道着の背には綺光高校、尾上崇と書いて有った――。