第五話 遭遇
「うわわわわわっ! クイーナのヤツー! 安全だって言ってたじゃねえかよーっ!」
只今、鬱蒼と草木の茂る森の中を叫びながら全力疾走中。
覚えたての拙い魔法で身体を強化して、地面に木の上にと立体的に移動しながらこの状況を打破するための方法を模索している―――暇なんかねえわっ!
なんだ、あのデカさはっ!
~~~~
掌に一瞬重さを感じ目を開けると足元に氷の塊がゴトリと落ちた。
「はっ?」
なんだ、これ……。
目の前に結構な大きさの氷の塊が転がってる。
サッカーボール程度の大きさの氷の塊が現れていた。
どう考えてもオレが出した……んだよな?
まさか、でかい雹が降ってきたって事はないはずだ。
こんなの当たってたら死んでるぞ?
訳が分からない。どういうことだ。
水の時は『出すイメージ』で出すことが出来た。
今やったのは……
もしかして、そういう事か?
この武術の鍛錬で行うイメージ方法は、「発生させる」というのを想像するのではなく、
そこに『在るもの』としてイメージするものだ。
氷や火の球がある事に疑いを持たない。
言うのは簡単だが実際にそこまで深くイメージするのは困難を極める。
半ば洗脳や催眠など、それに近い状態にもって行く必要があるからだ。
最初の頃はノイローゼになるんじゃないかってくらいに延々とやらされた。
今のは初歩だが、この手の訓練は他にもあり、究極的には強烈な自己暗示によって五感さえも操作するという事を目指している。
解り易い所で言えば、冷たいものを熱いものだといって押し付けると火傷になるとか、ただのビタミン剤を酔い止めの薬だと言って飲ませれば、同じ効果を発揮する等の所謂プラシーボ効果と言われるもの。
それを意識的に自分自身で作用させる、そのために行う訓練。
と大げさに言ってみたが、初歩程度ではせいぜい感覚が鋭敏になるとかで、化け物染みた能力を得られるわけじゃない。
だが、その感覚の違いが技の理解度に如実に現れるので馬鹿に出来ない。
この存在を疑わない、そこに在るというイメージの方法で意図せず氷が出せた。
武術の鍛錬時との違いがあるとすれば魔力の放出をイメージに重ねた事。
「偶然ってことはないよな、コレ……」
もう一度同じことをしてみる。
意識してしまって出来ない、なんてことがないよう普段通りに。
こういう時、この普段通りにというのが難しいのだが、そこは長年の鍛錬の賜物。
メンタルコントロールは完璧だ。
なずなが相手だと崩されることが多いが。
「できた……」
氷の塊が両の掌の上に現れている。
冷たっ! これでかき氷も食えるな。
いや、氷も思考もちょっと横に置いておこう。
水を出した時とは違うイメージ方法でも発動した。
どうやら、いかに具体的に存在に疑問をもたずにイメージするか。という事を要求されるらしい。
イメージが大切だというのがなんとなく分かった気がする。
しかし、魔法発動の法則性がいまいち掴めない。
もしかしたらこれと決まったものはないのかも知れない。
今はこういうものだと思って割り切るしかないか。
発動自体は出来たが、射出は出来ない。まだ攻撃手段にはなり得ない。
鈍器として使えないこともないが、だったら木刀を使ったほうが確実だ。
普通に考えて、覚えて一週間もたたないものが即、実戦で通用するようになるほうがおかしい。
武術が一朝一夕では身につかないのと同様に魔法も気長にいくべきだろう。
アホみたいな反復で身体に刻み込む。
一度は誰かに師事するべきか。
まあ、それまでは自分で出来るところまでやってみることにしよう。
火を出すつもりで練習していたのに氷を出してしまったのは予想外だったが、別の方法が確認できたのは思わぬ収穫だった。
今度は同じ方法で火を出す事に集中する。
視覚情報があると、どうしてもイメージの妨げになるので再度目を閉じる。
火の球があるものと想像して魔力を注ぐ。
両掌の間が熱を帯びてくるのが感じ取れた。
目を開けて確認すると掌の間にサッカーボール大の火の球が現れていた。
「出た……のはいいけど、熱とかどうなってんだ?」
確かに目の前にあるのに顔や手に熱がほとんど感じられない。
せいぜいが太陽光の熱と同程度だ。
魔力の維持を停止すると、しばらくして火の球が消えた。
その消えるわずかな瞬間に熱を感じた。
これは魔力が一種の断熱材の役割をしている?
自分の魔力での変換に限定しているのかもしれないが、結構便利だな。
何度も繰り返し火の球を出し、感覚を身体に染み込ませる。
目を開けた状態でも火の球を出せるようにするためだ。
馬鹿のひとつ覚えのように繰り返して、目を開けた状態でも火の球を出せるようになったのはいい。 しかし、やっぱり飛ばすことは出来ない。
うーん、行き詰ってる? って魔法を使い始めて四日で何言ってんだ。
他の魔法も練習してみるか。
風か土属性のどちらがいいか。
風属性は見えにくいので魔法初心者にはちょっと敷居が高い気がするがどうなんだろう?
少し考えて、風属性は後回しにする事にした。
見た目でわかり易い土属性のほうが楽しそうだ。
座っている場所近くの土に向けて両手を突き出し、魔力を纏わせて動かしてみる。
クイーナとの練習では砂を動かしていたが、土でも問題なく動かせるようだ。
うぞうぞと動いて見た目的にちょっと、というかかなり気持ち悪い。
水とか火の発生と違って、あるものを動かすだけだから魔法っていうより念動に近い気がする。
魔力でこねくり回しているだけなんだけど、超能力を使っている気分になれるのは正直楽しい。
直接手で触るよりかなり自由にいじくり倒せる。
それも当然で、イメージすれば魔力によって創作の過程をほぼすっ飛ばして結果に至るからだ。
しかし、オレはまだこの工程に時間がかかる、どころか入り口にも立てていない。
土属性の魔力の扱いに慣れた者なら、コップや花瓶なんかの簡単な造形物なら一瞬でやってしまうそうだ。
とりあえず丸めてみようか。
小学生低学年男子の宝物、泥団子。
オレもご多分に漏れずハマッたくちだ。ビー玉サイズや拳大の玉をテッカテカにしてやったよ。
適当な量の土を集めて拳程の大きさに丸くしてみる。
最初はボロボロと崩れてなかなか固められなかったが、魔力ごと土を中心に集めるように意識したらうまく固まってくれた。
でも、ちょっと硬さが足りない。
……女の子には言われたくない言葉だ。軽くトラウマになりそう。
まだそんな経験ないけどな!
更に中心に集め圧縮するように魔力を注ぐ。
3分の1ほどの大きさになった所で、このあたりでいいかと手に持ってみる。
「お、結構カチカチになったな」
形は若干いびつで真球ではないが、なかなかいい感じだ。
表面を綺麗に出来ないか手に持ったままでデコボコをならすように魔力を流す。
かなり思い描いた通りの出来に仕上がった。
ちょっと嬉しくなって更に他のも圧縮してみようかと思った所で空が紅く染まっている事に気が付いた。
「もうそんな時間か」
魔法の練習に夢中になって時間が経つのを忘れてしまっていた。
実を言うと魔法の練習はかなり楽しい。
武術の鍛錬は苦痛に感じたことはないが楽しいと思った事もほとんどない。
生活のサイクルの一部として当たり前のものとなっているので気にはならないが、すぐに成果が現れる類のものでもない。
それに比べて魔法の練習は成果がわかり易い形で確認できる。
それが新鮮で楽しい。
まだ魔力枯渇が起きる程魔法を使ってないから、まだまだいけるが一先ず魔法は休憩。
夕食を食べて、その後日課の武術鍛錬を行う。
夕食はメロンもどきじゃなくて、いくつか見つけたうちのひとつで、びわに似た果物。
似てるのは見た目だけで大きさは桃と同じくらい。
常々びわの大きさに不満を持っていたオレとしては見つけた瞬間テンションが上がった。
食べてみて種のでかさにテンションが下がった。
果実に占める種の割合が、純正品より高いとは何事だ!
くっそ~、このでかさで種無しなら最高だったのに。
という悔しい思いをしたので腹いせ? にメロンもどきを先に食事として消費してやった。
ちなみに味のほうは、びわ6、桃2、怪しさ2といった感じ。
種がでかいとはいっても普通のびわと比べれば1個あたりの果肉の量は断然多い。
味も果物の範疇に入っているので概ね満足、といったところだ。
葉っぱのほうもお茶に出来るか、いずれ試してみよう。
ビワの葉茶は健康にもいいらしい。
武術の鍛錬はいつも通り、ひとつひとつ動作を確認しながら型を繰り返す。
一通りこなしたら次は変則的な動きに対応するために型の応用の訓練。
鍛錬の中には整理運動のような役割をする動きも含まれている。
その後ストレッチを行い武術の鍛錬は終了。
汗だくになったので両手をあげて頭上に水を出して汗を流す。
汗をかくのは分かっていたので上半身は裸だ。
じゃあズボンも脱げよって話だが、パンいち靴下と靴のみで鍛錬って客観的に見ておかしいだろ?
誰もいない可能性が高いとはいっても万が一誰かに見られたら、と思うと神経がワイヤーロープで出来ていないオレとしては、おかしなものを見るような視線に耐えられそうに……あれ? 耐えられる気がする。何故だ
ま、まあその辺は良しとして……一応、靴と靴下は脱いで水浴びをしたがズボンとトランクスはびしょ濡れ。
そこで、試そうと思っていたことを実行してみる。
布から水分を取り除く。
水分を空気中からじゃなく着ている衣服から集める。
手の中に小さな水の球が出来ていくに従って服が乾いて行くのがわかる。
うまくいった。過剰に水分を抜き過ぎて使い物にならなくなる事もなかった。
「これなら軽い洗濯もいけるな」
洗剤はないが洗いたいときに水洗いできるのはいいな。
夕食と日課の鍛錬が終われば後はもう寝るだけなのだが、まだ寝るには早い。
そこで、また魔法の練習に時間を割くことにした。
寝るまでの時間は魔力循環を行って、物理的身体強化をする。
30分ほど循環強化を行ったところで気が付いた。
「そういえば強化魔法を忘れてた」
『強化』
永続強化が目的である循環強化とは違い、一時的な身体能力向上を目的とした魔法だ。
魔力を循環させるのではなく、身体全体に行き渡らせて動作を補助する。
強くなった自分を想像すればいい、なんてクイーナは言ってたが大雑把過ぎじゃないか?
確かにそれで2割程の身体能力向上を体感できたが、なんとなく納得しきれてない。
いや、2割でもすごいのはわかるよ? ホントすごいんだよ。
言っちゃなんだが、今のオレの身体能力は鍛錬の賜物ではあるが限界近くまで引き上げられている。
それを2割引き上げるってのは普通なら有り得ない。
だからこそ、魔力とちょっとしたイメージだけで簡単に限界突破しちまうのはなあ……。
今までの鍛錬はなんだったんだって思っても仕方ないだろう。
そう軽くクイーナに愚痴ったら
『長年修行してたら、そう思うのも無理はないけど逆に下地ができてないと意味ないんだよ? 10を12にするのと100を120にするのじゃ大違いでしょ?』
例えが極端だとは思うが、そう言われてしまえばそうなのかと納得できないこともない。
扱える魔力の量が増えれば強化の度合いも変わってくるらしいので、魔力増加の修行も忘れずにと言われた。
境界で教わったのは初歩の初歩もいいところだが知っているのと知らないのとではルテティアでの生存確率で大きな開きが出る。
その事を考慮して教えてくれたのはクイーナにしてはいい仕事だ。素直に感謝だな。
クイーナに対しての評価が著しく低い気がするが、仕方ないだろう。
尻を見せられたのは百歩譲って許せたとしても、他が色々とちょっとずつ残念過ぎる。
それはいいとして強化の練習だ。
境界でやった方法で多めに魔力を使ってみることと、スムーズに発動できるようにするのが当面の目標だな。
境界にいた時より魔力が多少増えてる気がするので、その増えた分も強化に使ってみようか。
発動時独特の身体が軽くなったような感覚になったのを確認して身体の動きを確かめてみる。
軽く武術の型を流してみて、結果4割程の能力上昇といったところか。
「魔力量の違いでこんなに変わるもんなのか……」
今の魔力量ではこのあたりが限界か。
魔力を増やしたらどこまで強化できるかやってみたいな。
試してみたいことも結構あるし。
その後寝るまでの間はと思って調子に乗って強化を使いまくっていたら、急激な身体のダルさとともに強烈な眠気に襲われた。
なんとか倒れる前に寝床にたどり着けたが、ギリギリだった。
どうやら魔力の枯渇だったようだ。
気絶するように寝て起きた次の日、魔力は問題なく回復していた。
それからから三日ほどは、鍛錬し食料を探す、そして合間の魔法の訓練、のル-チンで時間が過ぎた。
少し強化魔法の練習を増やしたくらいか。
風の魔法は空気を多少動かす程度の練習しかしなかったが、どうしたもんか。
多少の魔力の増加を自覚できたが、もっと効率よく増やせないものかね。
そんなことを考えながら、今日はいつもよりちょっと遠くまで食料を探しに来ている。
相変わらずの肉なし生活だが今は仕方ないと諦めている。
だから、せめて他の食べ物のバリエーションを増やしたい。
「お、新しい木の実発見! って木の実かコレ……?」
確かに枝からぶら下がって木に生ってる。
しかし、どう見てもトウモロコシだ。
皮を剥いたトウモロコシが直接木の枝にぶら下がってやがる。
まあいい、後で茹でて食おう。
一応茹でる方法は考えてある。
内心、いつもと違った味が楽しめる、とほくほくしながらもいでいると周囲に違和感を感じた。
大急ぎで服の中に何本か詰め込む。
(なんだ? 何かが近づいてくる?)
気配というにはあまりにかすかな感覚だが確かに感じる。
距離はまだかなりあるが、どんどん近づいてくるのがわかる。
どうする、様子を見るか? 今すぐこの場から移動するか?
この場に留まってやり過ごせる可能性は?
だめだ、明らかに向こうはこちらを捕捉している。距離、方向、速度と合わせて判断しても接触は避けられそうにない。
ひとまず強化を使って木の上に飛び乗る。
その瞬間、接近者の速度が増したのがわかった。
しまった、今のオレの動きが謎の来訪者を刺激したようだ。
迂闊に動くのはまずいか?
しかし動かないのもまずい気がする。
気になることはあるが、確認するにしても少し博打要素がデカい。
考えあぐねた結果、正体だけでもはっきりさせようと視認出来る距離になるまで待ってみることにした。吉と出るか凶と出るか……
20メートル程離れた先の生い茂った草木の間。
ガサリと音をたてソイツが姿を現した。
でかっ!
一瞬、遠近感が狂ったかと思うくらい、オレの常識の中にあるその生き物の大きさと、かけ離れ過ぎていた。
ゆったりとした足取りでこちらに近づいてくる。
それは、全身を銀色に近い白い体毛で覆われた巨大な狼。
肩までの高さが2メートル強。全長は6メートルといったところか?
木漏れ日が反射して、その身体がキラキラと光っている。
よく見れば青味を帯びた白銀の体毛が、勇壮な雰囲気を醸し出している。
(呆けてるばあいじゃねえ! すげえ顔してこっち見てるっ!)
あまりの大きさと王者の貫禄とでも言うのか、その存在感に圧倒されていたが巨狼の顔を見て我に返る。
目は細められ鼻の頭には無数のしわが深く刻まれている。
唸り声こそ出していないが歯をむき出し、太い犬歯をこれでもかと見せ付けている。
右手に持っていた黒曜石のナイフと比べてしまった。
こんなチンケなナイフじゃ相手にならん! 何あのごんぶと! 食べる気まんまん?
歯じゃなくて刃だろアレ!
感想とも言えないような非難じみたことを心の中で叫びつつ右手のナイフを鞘に戻す。
次の瞬間、事態が動いた。
狼がわずかに足に力を込めた。
その動作を確認したと同時に、コマ落としのように一瞬で目の前まで飛び上がってきた。
「わっ!」
その巨体に似つかわしくないスピードと跳躍力に面食らったが、飛びつかれる前になんとか隣の木に飛び移った。背後にドシンという音が響く。
すばやく振り返って今までいた木を見るとオレがいた辺りの幹に狼がガッシリしがみついていた。
しばらくしがみついていたがズルズルと下に降りていく。
なにアレ、ちょっとカワイイ。
なんて暢気に考えてる場合じゃない。
この隙に少しでも距離を稼ぐ!
強化を使って木から木へと飛び移る。
一刻も早くこの場から離れる。
しかし、やはりと言うべきか、木から降りた狼はオレを追ってきた。
一定の距離まで詰めてくると、また飛びついてくる。
ドシン! ズルズル
今度は隣の木じゃなく地上に飛び降りてそれを避ける。
降り立つと同時に全力疾走。
「うわわわわわっ! クイーナのヤツー! 安全だって言ってたじゃねえかよーっ!」
~~~~
何度目かのドシン、ズルズルという音を背後に聞いて、このままじゃ埒が明かないと思ったがこの切迫した状況ではいい方策が浮かばない。
狼の登ってこられない高い木の上で諦めるまでやり過ごそうとしたがそれもダメだった。
自分が飛び上がっても捕まえられないと判断したのか、後ろ足で立ち上がり前足でドスンドスンとテッポウを木の幹にかましてくるのだ。
どこの部屋の力士だと大声で突っ込みを入れたかったが、激しい揺れにそれどころではなく移動を余儀なくされた。
その後、狼との鬼ごっこは森の中を縦横無尽に繰り広げられた。
どれだけの距離を移動したかわからないが周囲の変化に気が付いた時には既に遅かった。
森が途切れ、開けた場所に出てしまったのだ。
まずいっ! この展開、この音ッ!
目の前には崖、そしてゴーっという大量の水が流れる音。
滝だ。
……お約束過ぎる。
右手から白い飛沫をあげて大量の水が流れ落ちている。
崖のふちまで行き、どの程度の高さなのか確認する。
高さや滝つぼの状況次第では飛び降りるのも有りだと思ったからだが……。
高い。
そして結構な規模の滝だった。
幅にして20から30メートル。
高さは20階建てのビルくらいはありそうだ。
実際の高さはわからない。
上から見るのと下から見るのとでは全く違うだろうから。
だが体感的にはそれくらいあるように感じる。
滝つぼも、この規模から考えれば浅いということはないはず。
もう少し低ければ迷わず飛び込んでいたんだが。
他に逃げ道はないかと周囲を見回す。
そうこうしているうちにタイムリミットが来た。来てしまった。
森の中から巨狼が姿を現した。
相変わらずのご面相だ。
くそっ! どうするッ!?
滝つぼのほうを見るとあるものが目に入ってきた。
(あれに賭けるしかねえか? いや、迷ってる暇はねえ!)
のそりと近づいてくる狼を肩越しに見て覚悟を決める。
このままここ居ても詰みだ。
オレは身体を強化して勢い良く左前方に飛び降りた。
「届けえぇーっ!」
オレは数瞬前にチラっと視界に入ったそれに全てを賭けた。
崖の左下から人ひとりを支えるのに充分そうな木の枝が出ていた。
それに掴ることが出来れば状況が大幅に改善されると判断したからだ。
落下しながら左手を伸ばす。
ダメか?
いや、この距離と落下速度なら充分届くはずだ。
「くっ!」
空中でいくら手を伸ばしても変わらないのはわかりきっていたが、それでも伸ばす。
枝が近づいてくる。
「いけるっ!」
このまま行けば掴める!
そして来るであろう衝撃に備えていたら……
轟ッ!
いきなり突風が襲った。
スカッ
枝を掴もうとした手が空を切る。
「えっ?」
えええええっ!
風に押し戻された!?
木の枝に掴ることが出来れば完璧だった。
枝が折れることも想定していた。
それによって落下速度が減速されれば、より安全に着水できると踏んだからだ。
しかし突風に押され、カスりもしなかった!
「なんじゃそりゃあああっ!」
そりゃないよ、そりゃないよママン……。
目から汗が出るのを自覚していた。
この時オレはおそらく半笑いだっただろう。
そして握ったまま前方に差し出された左手を見つめながら、滝つぼに落ちて行くのだった。
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