08話:穢れ
ぜえぜえと苦しそうに息をするツグミちゃんの体には、悪性のカビみたいな、真っ黒い汚れが固まってこびり付いていた。
恐らく、これが穢れという物なのだろう。
「この黒いのが穢れって奴なの?」
「うん。わたしたちも最初はそれが付いてたの。すごく体がだるくなって。目がぐるぐるして、頭がぼーっとして、それからそれから……」
イカルちゃんが自分の言葉で、どれだけ辛いかをつらつらと並べてくる。
その口調から察するに、穢れに侵されるという事は、本当に辛いものなのだろう。
「でもね、わたし達はそんなにひどくなかったの。ツグミを見つけたときは殆ど真っ黒で、カナリア姉さまが連れてきて、毎日『みそぎ』してるんだけど、なかなか落ちないの」
「禊?」
「水を一杯溜めて、聖水を作って漬けるの。そうすると穢れが落ちて、きれいになるんだよ。天使は毎日やってるって聞いたけど、ミサキ様は知らないの?」
「うん、ちょっと訳有りでね」
僕が長い間、篭の鳥状態になっていたと勘違いしているカナリアさんは、僕を気遣ってか、その辺の話は二人にしなかったので、適当にはぐらかしておく。
「ほら、私たちあんまり綺麗じゃないでしょ? 下級天使はみんなこんな感じなの」
イカルちゃんとアトリちゃんは、くるりと身を翻して僕に見せる。
そういえば、さっき見た下級天使のみんなは、全身が汚れていたような気がする。
土か泥汚れかと思っていたけれど、よくよく考えたら、この世界には土らしき物が無い。
多分、この煤みたいな物が、薄れた穢れなんだろう。
「でも、洗って落ちる物なんだね」
「そうだけど、ツグミは物凄く汚いから、神力たっぷりの聖水を作らないとダメなの。下層だとカナリア姉さましか作れる人が居ないし、あんまりいい聖水じゃないから、すぐ真っ黒になっちゃう。だから次の日にはまた穢れが広がっちゃって、段々追いつかなくなってる」
「ふむ……」
アトリちゃんの説明に、僕は両腕を組み考える。
汚れを水で洗い落とす。理屈としては簡単だ。
「その聖水を、なんとか大量に用意する事は出来ないの?」
「無理だよ。聖水を作るのはすごく神力を使うし、わたし達じゃ作れないもん。それに、完全に落とさないと、また広がってきちゃうんだよ」
一応聞いてみたがやはり駄目か。
対症療法じゃなく、根絶しないとイタチごっこが続くと言うわけか。
「くるしいよぉ……」
「ツグミちゃん! 大丈夫?」
アトリちゃん達の話を聞いていたら、不意にツグミちゃんが発作のように痙攣する。
僕が慌てて手を伸ばそうとすると、後ろの二人に止められた。
「ミサキさま! 触っちゃダメ!」
「ダメだよ! 触ったら汚いよ!」
「かみさま……たすけて……」
ツグミちゃんは目からぼろぼろと涙を零し、救いを求めるように、弱弱しく天へと向かって手を伸ばす。
そこにあるのは分厚い天井だけだ。それでも、この子は叫ばずには居られないのだろう。
苦しい、助けて下さいと、届くはずの無い、来るはずの無い神への願いを。
「こわいよ……なんでこんなにくるしいのに、だれもたすけてくれないの……?」
ぐずぐずと弱弱しく泣くツグミちゃんは、神様の助けが来ないと分かったのか、それとも最初から期待なぞしていなかったのか、力尽きたように手を下ろす。
イカルちゃんとアトリちゃんは、二人とも、絶望と憐憫のない交ぜになった表情で、死にゆくツグミちゃんを見ている。
綺麗な銀色の瞳を、濁ったガラスのようにして。
「ツグミはもうダメだね……がんばったけど、仕方ないよ」
「うん。カナリア姉さま、がっかりするかな……」
二人してそんな台詞を言う。
何か喋っていないと、空気に押しつぶされそうだったからかもしれない。
「もう駄目って……助からないってこと?」
「うん、だって、こんなに真っ黒なんだもん。私たちが出来る事なんて無いし、自分たちに穢れが移ったら、カナリア姉ちゃんに余計迷惑かけちゃう。ミサキさま、下に戻ろうよ」
そう言って、イカルちゃんが僕の手を引いて、部屋から連れ出そうとする。
子供らしからぬ冷静な判断だけど、その顔つきは暗い。
例えるなら、拾ってきた野良の子猫を、飼えずにまた捨てに行くような面構えだ。
聖水の作り方は分からないけれど、僕には一応それなりの力がある。
本当に、何も出来る事は無いんだろうか。
――ここで僕は、彼女たちの言い回しが気に掛かった。
「ねえ、アトリちゃん。さっきから気になってたんだけど、私が彼女に触れると、『危ない』じゃなくて『汚い』って言うのは何で? 間違っちゃったの?」
「まちがってないよ。穢れは私たち下級天使だと弱っちゃうけど、天使なら聖水を使えば浄化できるもん。私たちとは力が全然違うから」
「穢れは移るって言ってたよね?」
「うん。だからカナリア姉さまが、毎日ツグミを抱いて洗ってるの。カナリア姉さまなら、多少移っても、自分の力で耐えて、広がる前に洗い流せるから」
「そっか、それなら時間稼ぎくらいは出来るかも」
「「え……?」」
僕は二人から手を離し、再び部屋の中へと舞い戻る。
どす黒い死斑だらけのツグミちゃんを、そのまま胸元に抱きかかえ、ぎゅっと抱きしめる。
「み、ミサキさま! 何やってるの!?」
「ツグミちゃんの穢れとやらを、僕に移せないかと思って」
「そ、そんな事したら汚れちゃうよっ!?」
「汚れるのは慣れてるから平気。それにほら、私は力だけが取り柄みたいだから」
イカルちゃんとアトリちゃんが、信じられない物を見るみたいように僕を見る。
風邪は人に移すと治るなんて話を聞いたことがあるし、下級天使にとっては『危ない』かもしれないけれど、無駄に力だけがある今の僕なら『汚い』で済むかもしれない。
そして、僕は汚い事には慣れている。伊達に下流の工場で働いては居ないのだ。
慣れたくないけど慣れてしまったと言うべきかな。
「ミサキしゃま……? ツグミにさわるとビョーキになるよ?」
「病気になろうとしてるんだよ。私のほうが頑丈だからね。私に穢れを移して、その間にカナリアさんと相談すれば、その間は多少楽になるかもしれない」
「……いーの?」
「出来るか分からないけど、こうしてたほうが安心でしょ?」
「うん……」
難しい言葉が多かったせいか、ツグミちゃんは内容は殆ど理解していないだろう。
ただ目をぱちぱちさせ、抱っこしてくれるという事だけ分かったようだ。それでいいと思う。
ツグミちゃんは心なしか、先ほどより落ち着いている気がする。
生憎、僕は神でも天使でも無い。何だか良く分からない謎の力を得た、ただの凡人だ。
僕の悪い癖で、自分が悲惨だったせいか、こういう状況だとつい感情移入してしまう。
下手に干渉しないほうがいいのかもしれないし、実際それで余計こじれたこともある。
でも、こんな小さな子が「助けて」って叫んでるのに、それでも誰も助けを差し伸べないなんて、そんな世界は救いが無さ過ぎる。
つらい世界だからこそ、後先考えない馬鹿が居たっていいじゃないか。
「おっぱい……」
「……ぇ?」
心なしか血色が良くなったツグミちゃんが、いきなり謎の台詞を放つ。
おっぱいって、あのおっぱいだよね。ほら、丸くてぷにぷにと柔らかいあれ。
抱っこしたツグミちゃんは、僕の胸元と顔、交互に視線を向け、無言の要求をする。
「ええと……お、おっぱい吸いたいの?」
「……うん」
ツグミちゃんはこくりと頷いた。
……どうしよう。
僕が母性本能溢れる女性だったら、薄幸の少女に吸わせるくらいはしたかもしれないけど、いかんせん僕は中身は男なのだ。
そして、男の胸はあんまり価値が無い。
そんな物を無垢な少女に吸わせて良いのものか。
色々な意味で背徳的な行為にならないだろうか。
「おっぱい……」
「うう……」
ええい! 僕も男だ! おっぱいでも何でも吸いやがれ!
殆どやけっぱちになりながら、僕は勢い良く、着ていた服の肩紐を引き下げる。
大きく形の良い胸元が、ぷるんと露出される。
わお、ダイナマイツ。
僕が桜色の先端を出した瞬間、ツグミちゃんは問答無用でそこに吸い付いた。
ツグミちゃんは、砂漠の遭難者が、冷えたスポーツドリンクを見つけたように、凄い勢いでちゅうちゅう吸い付く。
「(く、くすぐったい!)」
当然、僕の胸からは母乳なんて出ないけれど、ツグミちゃんは純粋に甘えたいだけみたいで、本当に心安らかな表情を作っている。
でもくすぐったいです。はい。
「あれ?」
胸元のこそばゆさを何とか押さえつつ、ツグミちゃんを横抱きに抱き直していると、ツグミちゃんの体の変化に気が付いた。
乾いて固まっていた黒い染みが、どろどろとしたタールのような液体へと変化しているのだ。
空いている方の手でツグミちゃんの頬に触れると、腐った黒い絵の具みたいなものが、べったりと手のひらにこびり付いた。
「ミサキさま、手に穢れが!」
「何か良くわかんないけど、溶けてるみたいだね」
「すごいねアトリっ! 簡単に取れちゃったよ!」
「カナリア姉さまが一生懸命洗っても取れなかったのに……」
イカルちゃんとアトリちゃんは、驚愕と尊敬の交じり合った表情で僕を上げる。
僕はただ、ちょっと触っただけなんだけど。
そして、手についたぬるぬるを見て、ある大事な事に気がついた。
「拭く物が無いや。イカルちゃん、アトリちゃん、タオルとか布とか無い?」
「えと、えと、ええと……アトリ、私たち二人で布を作れるかな?」
「む、無理だよ! まだエーテル固定なんて出来ないもん!」
エーテル固定? また知らない単語が増えてしまった。タオルとかを作る技術だろうか。
違う、今はそんな事を言ってる場合じゃない。
とにかく何とかしないと。
ハンカチも無ければティシュも無い。
こんな事なら、リュックサックにおしぼりとか詰めて、ハイキングの準備でもして首を吊ればよかった。
やっぱり何事も事前準備が必要だ。
「仕方ない。もうこれでいいや」
「ミサキさま!? それ自分の服じゃ!?」
他に拭くものが無いし、僕は着ていたサマードレスの裾を容赦なく破った。
何処の誰が着せたのか分からないけど、別に僕が着せてくれと頼んだわけじゃない。
もし誰かに文句を言われても、文字通り無い袖は触れない。やったもの勝ちである。
女の子がこんな事をしたらさすがに僕も止めるだろうけど、僕の中身は男なのだ。
破いたドレスの裾で手を拭うと、インクを染み込んだ紙のように、一瞬で真っ黒になってしまった。
「これだけじゃ足りないか……」
今度は端の部分ではなく、長いスカートの部分を豪快に引き裂く。
膝上くらいまでボロボロになってしまったけど、これはこれで動きやすくて良いかもしれない。
「ツグミちゃん。じっとしててね」
「ん……」
イカルちゃんとアトリちゃんは、目の前の非常識行為を呆然と見ているが、とりあえず放っておいて、ツグミちゃんの黒い部分をスカートの端切れで拭う。
液状になった穢れは、気持ち良いほどに布切れに吸い取られていく。
「よし! こんなもんかな?」
数分もしないうちに、ツグミちゃんの肌は、風呂上りの子供みたいにぴかぴかになっていた。
反対に、僕の服装は売れないパンクロッカーみたいになってしまったし、ドレスの端切れは、もはや完全に再生不可能なボロ雑巾になってしまった。
捨てる場所が無かったので、そのまま丸めて部屋の端においておく。
ありがとう元ドレス、現雑巾君。君の活躍は忘れない。
僕にもほんの少しだけ移ってしまったみたいだけど、別に体調の変化は無い。
汚れ具合にしたって、せいぜい水性ペンで落書きされた程度の物だ。軽い軽い。
「ミサキしゃま! ありがとうっ!」
「どうわっ!?」
ツグミちゃんは眼をきらきらと輝かせて、胸元から口を離し、首筋に抱きついた。
「いきなりそんな動いて、体のほうは何とも無いの?」
「だいじょうぶ! すっごいかるい! すっごい元気!」
さっきまで棺桶に片足どころか、片足以外を棺桶に突っ込んでいたとは思えないほど、ツグミちゃんは眩しい笑顔を見せた。
あの黒いものを取り除いただけで、こんなに元気になるなんて。
「ミサキさますごい! わたし、すっごいカンドーしたよっ!」
「わたしも、こんなの初めて見ました!」
「あ、ありがと……」
イカルちゃんとアトリちゃんが興奮しながら僕に詰め寄る。
体を拭ってあげただけなんだけど、ツグミちゃんも元気になったし良しするか。
「ミサキしゃま……」
「ん? 何? まだつらい?」
「おっぱい……」
「……うう……ど、どうぞ」
穢れとか関係無しに、その後も暫くツグミちゃんに授乳する羽目になった。
僕のおっぱい、大層気に入られてしまったらしい。
カナリアさんはまだ戻る気配が無かったので、その後、僕は三人の遊び相手をする羽目になった。
イカルちゃんとアトリちゃんは、最初は遠慮がちだったけど、ツグミちゃんのやり取りを見ていたお陰か、最後には普通の子供のように寄り添って来てくれて、受け入れられたようで少し嬉しかった。
疲れたけど。
けれど、それほど時間も経たないうちに、三人とも疲れ果てて眠ってしまった。
余程疲れていたのだろう。
僕は、ツグミちゃんが横たわっていたベッドに彼女たちを並べた。
ベッドのサイズ自体は大きいので、三人で丁度いいくらいだ。
「さて、僕はどこで休もうか」
体力的には何ともないが、主に授乳のせいで精神的に疲れたので休みたい。
けれどベッドは一つしか無い。
でも大丈夫、この世界、床が雲状でふかふかなのだ。
部屋の隅っこのほうに移動して、そのまま地面にごろりと横になる。
やばい、超寝心地いい。
僕の家の煎餅布団より遥かに安眠効果がある。
神域は大理石のような床や絨毯が敷かれていたし、地面がむき出しのままのこの場所は、地球で言えばトタン屋根の家みたいな物なのかも知れないけれど、僕には関係ない。
むしろ、将来はダンボールを敷いて寝る事を想像して生活していた僕にとって、毎日ふかふかのソファの上で寝られるような物なのだ。
何と幸せなことなのだろう。そのまま僕は、うとうとと心地よい眠りへと落ち――
「きゃあああああああああああ!?」
耳を劈く悲鳴に、僕はがばりを身を起こす。
入り口の方を見ると、帰宅したらしいカナリアさんが、顔面蒼白で立っていた。
僕が身を起こす前に、カナリアさんが全力で僕に駆け寄り、抱き起こそうとする。
「ミサキ様、どうなされたのです!? エミュー様達に襲われたのですか!? それとも、お加減が悪いのでしょうか!? ああ、どうしましょう! 私のために髪を切ったせいで……!」
「ちょ、ちょっと落ち着いて! 別になんでもないよ?」
「何でもないわけありません! 帰ってきたら、ミサキ様がボロボロになって床に倒れていたんですよ!? 私に気を遣っていたせいで、本当は物凄くお疲れなのではないでしょうか?」
「あー……そうじゃなくてね……」
あ、そうか。カナリアさんからしてみれば、用事を終えて家に帰ってきたら、僕の服が引き裂かれ、床にぶっ倒れているように見えたのだろう。
そりゃ焦る。
僕は後先考えて行動すると言うのが大の苦手なのだけれど、まずいな、またやってしまったようだ。
「ツグミちゃんの穢れを拭き取るものが無かったんで、私の服を使ったんだよ。その後、少し寝てただけ」
「ミサキ様のお召し物を!?」
「うん。でもツグミちゃんはちゃんと元気になったし、安心していいよ」
「ツグミが!?」
「カナリアねえしゃま! ミサキしゃまがなおしてくれまちた!」
ツグミちゃんは小さな体でベッドの上を飛び撥ねる。その動作は生命力に満ち溢れている。
微笑ましい光景だけど、ツグミちゃん、下にイカルちゃんが居るのを忘れてるよ。
「ツグミ! 良かった! ミサキ様、本当にありがとうございます!」
カナリアさんは目に涙を溜め、ツグミちゃんを抱きしめた。
何度もジャンプ台にされて、押し花みたいになっているイカルちゃんには気が付かないようだけど、まあ大丈夫だろう。
「それは本当に偶然だよ。結果的に出来ただけだし」
「とんでもありません! まさか下級天使の浄化をしていただけるなんて……」
顔を赤くして感涙にむせび泣くカナリアさんだったけど、僕の顔を見た途端、再び顔が青くなる。
信号機みたいで大変だ。僕の非常識行為のせいか。
「た、大変ですミサキ様! お顔に穢れが!」
「ああ、ちょっと擦ったりしたからかな。別に何処も悪くないし、大丈夫大丈夫」
「体調の問題ではありませんっ! お美しいミサキ様が、そのように薄汚れた格好をされていてはいけません! すぐに禊の準備を致します! アトリ、イカル! 手伝って!」
「うん! ほらイカル、お水を溜めるから早く起きて!」
ばたばたと階下に下りていくカナリアさんの後を、アトリちゃんが勢い良く付いていく。
「ちょ、ちょっと待って、ツグミに踏まれたみぞおちが……」
「ツグミも! ツグミもミサキしゃまのためにおてちゅだいするー!」
「ぐえぇっ?」
元気を取り戻したツグミちゃんも、仔ウサギのようにぴょんぴょん飛び跳ね、二人の後を追う。
イカルちゃんを踏み台にした事は、結局最後まで気付かなかったようだ。
イカルちゃんも、悶絶しつつも、地面を這うようにずるずると出て行った。なかなかガッツのある子だ。
何がなにやら分からないまま、ぽつんと僕だけが取り残される。
カナリアさんは禊の準備をするって言ってたっけ? さっきイカルちゃん達、ツグミちゃんを毎日洗ってるって言ってたよな……洗うということは、つまり裸になると言うことで――何だかまずい気がする。
――僕のこの予感は、後に的中する事になる。