32話:天女ミサキは紳士様
「いつまで寝てるんだ、そろそろ起きたまえ」
唐突にそんな声が聞こえて、僕はゆっくりと目を開ける。
天界の突きぬける様な青空はなく、古臭い蛍光灯のぶら下がった木目の天井が見えた。
全身が泥のように重く、頭が上手く働かない。
そのままぼーっと天井を眺めていると、不意に何かがにゅっと表れて視界を遮った。
ムラのある長い金髪、軽薄な笑み、よれよれのツナギ……ああ、何だジンさんじゃないか。
……あれ? 何でジンさんがいるんだ?
確か僕は、カナリアに全部の力を渡して――
「そ、そうだっ! カナリアはっ!? みんなは!? っていうか何で私生きてるの? しかもあれ? 何これ? 裸!?」
「まだ体が定着していないんだ。急に動くんじゃない」
飛び起きようとした僕の肩を掴み、ジンさんが僕を煎餅布団に押し付けた。
定着という意味は分からないが、頭も痛いし吐き気もする。貧血がひどくなったような症状を感じて、僕は大人しく従う。
改めて周りの様子を伺うと、雑誌やお菓子の袋、着古した洗濯物が乱雑に積まれている汚部屋。
うん、間違いない。やはりここは日本のジンさんの部屋だ。
「落ち着いたかい? とりあえずこれでも着たまえ」
そう言ってジンさんは、しわしわのパジャマを突き出してきた。
大分見慣れたとは言え、やっぱり夕張メロンを生でむき出しにしておくのはよろしくない。
多少胸がきついが裸でいるよりマシなので、押し込むようにパジャマを着込む。
ジンさんは地面に転がっているゴミを適当に足で蹴散らし、布団の脇に胡坐をかいて座った。
「さて、では順番に説明しようか。何から聞きたい?」
「カナリアは……他の皆はどうなりました?」
色々と聞きたいことが多すぎるけど、真っ先に思い浮かんだ件をそのまま口に出す。
もし体が満足に動いたなら、きっとジンさんの胸倉を掴んでいただろう。
「勝ったよ」
多少もったいぶった後、ジンさんは短くそう答えた。
そっか、やっぱり勝ったのか。
何となくだけど、うすうすそんな予感はしていた。
だって僕の自慢のカナリアが負けるはずはないのだから。
「以前も言ったが、私の神力は穢れのような物でね。無菌室育ちのケツァール達には劇薬――簡単に言えば相性が悪いのさ。さらに、君の神力――穢れも入っていたからね」
「私の穢れ――神力じゃないのですか? というか、前から思ってたんですけど、そもそも穢れって何ですか?」
「簡単に言えば『薄汚い感情』だよ。養鶏場に人の魂を拘束しておくのは、魂の臭みを抜くためさ。天使族というものは、美しい感情のエネルギーを好んで食べる――いや、それしか食べられない。絹糸を吐く蚕が桑の葉しか食べられないようにね」
そこまで言って、ジンさんは片手を額に当てて、おでこを剥き出しにする。
金髪の根元の部分は染まっておらず、地毛らしきものが少しだけ見えた。
「私と同じ、黒い髪?」
「私も養鶏場出身なのさ。君を助けたのは……まあお仲間だからね。それにほら、ゲームも途中で止めてしまっただろう?」
ジンさんはふざけた口調で笑った。
まさかゲームに命を救われるとは思わなかった。
僕が真顔でいるのが余程おかしかったのか、冗談だよと付け加え、説明を続ける。
「かつて天使族は異世界に旅立ち、その世界に力を与え、対価として清らかな力を蓄えてきた。英雄や神話と呼ばれるものさ。だがリスクを減らすため奴らは効率化を考えた。人の魂を捕え、自分達に都合のいい下級天使を作る養鶏場。ここまではいいね?」
「それが私やジンさんの力と、何の関係があるんですか?」
「人の魂というものは下級天使の原石だよ。それをあんなバカみたいに大量に並べておくんだ。効率は落ちるとは言え、超強力な神力連結をさせているようなものさ。塵も積もれば山となる。まぁ天使族はそんな欠陥にまるで気付いていないようだがね」
「ええと……だから、それが何の関係が」
「水が低いところに溜まるように、ごく稀に神力が溜まりやすい奴がいるのさ。私や君のようにね。もっとも私の場合、それに気付いたのは下級天使にされた後だがね」
ジンさんは忌々しげに呟いた。
どことなくだけど、その顔にはどこか影のようなものが見えた気がしたけど、ジンさんはすぐにいつもの皮肉っぽい表情へと切り替わる。
「私は上手く立ち回ったが、君は色々とやらかしてくれた。天界始まって以来、あんな大騒ぎは中々見られなかったからね。忌々しい天使どもに一泡吹かせられたし。良い物を見させてもらって感謝感謝だよ」
「やっぱり見てたんですか……だったら協力してくれても良かったのに」
「そんなの面倒くさいじゃないか。ただ一つ謝らなければならないことはある」
それまですらすらと喋っていたジンさんが、初めてばつが悪そうに顔をしかめた。
カナリア達が無事で、僕も生きているのだから特に問題は無かったので、ジンさんに先を促す。
「君を再生させたはいいが、何せ君が自爆――殆どカナリアちゃんに力を分け与えてしまったからね。大気中に散った僅かな粒子を集めたのが今の君。能力的には人間の女性とほぼ変わらない。君が天界に足を踏み入れたら消滅してしまうだろうね」
「あれ? でもアシュラは普通に連れて来られましたよ?」
「あれだって危険な行為なんだ。魔獣自体が強靭な生命力を持っているのと、事前に君のエーテルを食べて慣れさせていたからさ。でなければ門を潜った段階で破裂していたかもね」
何てこった。もう少しでアシュラをミンチにしてしまうところだったとは。
今までの僕は、本当に綱渡りで生きてきたんだなぁ。
「とにかく、君はもう天界には戻れない。それにカナリアちゃんが勝ったとはいえ、今の天界は天使族と下級天使が入り乱れた内戦状態になっている。その状態が良い方向に行くか悪い方向に行くか、それは私にも分からない」
「そうですか……」
生前、騒ぎを起こさずに大惨事を起こそうなんて考えていたからだろうか。
全く、本当に人生と言う物はままならない。
「悪い事ばかりじゃない。下級天使は養鶏場に反対だったし、恐らくは徐々に解体されていくだろう。君は一つの世界に革命を起こしたのさ。混沌としたものの中からは、おぞましいものだけではない、素晴らしい物だって生まれてくる。君は偉業を成し遂げたんだ。誇るといい」
「そう言われましても」
全然そんな実感が無い。
僕はただやりたいようにやっていただけで、結果としてとんでもない事になってしまっただけだ。
話の規模が大きくなりすぎて、天界が完全に僕の手から離れていった事を実感してしまう。
革命だの偉業だのはどうでもいい、そんなことより僕にはもっと気がかりな事があった。
「カナリアや皆とは、もう会えないのですか?」
「そりゃ無理だ。今や彼女達は天界のトップであり、事実上の神とその取り巻きだよ? 天界を離れる事なんて出来ないだろう」
「そっか……そうですよね」
「寂しいかい?」
「はい。でも安心しました」
僕は微笑を浮かべた。少なくとも微笑を浮かべたつもりだった。
カナリアが立派な天使になりたいと願い、それは見事達成された。
大切な人が幸せになった事を僕は喜ぶべきだ。
――そう、喜ばなければならない。それで正しいはずだ。
「でも、それでは君も辛いだろう? だから、ご褒美として楽園に送ってあげようじゃないか」
「楽園……ですか?」
「天界なんてみみっちい世界じゃない。より色鮮やかで、多種多様な種族が共存する世界に改めて転生させてあげよう。当然、記憶は消させてもらうがね」
「へ? 記憶を消すんですか?」
「これはサービスだよ? 二度と会えない愛しい人、全く違う価値観に文化、どれも持っていても辛いだけの代物だ。忘れたほうが楽だろう」
「…………」
僕は黙り込んでしまう。
別に優れた知識や能力なんてないし、事実、常識の違いで天界では誤解されっぱなしだった。
そう考えると、今の記憶は持っていても邪魔になるだけだ。
「さて、いくつか異世界に候補はある。身分は高貴なる貴族がいいかね? それとも武芸達者な剣豪かい?」
「必要ありません」
少しの逡巡の後、僕はそう答えた。
ジンさんはこれまでに無く真剣な面持ちで、睨むように僕の目を覗き込む。
バナナを食べない猿の気持ちを必死に考えている、そんな風に見えた。
「……どういうことだい?」
「もう充分に助けてもらいました。転生する必要は無いという事です」
「私の感覚から言わせてもらうと、その選択は愚かとしか言いようが無いね。これから得られるものと今保持しているものが釣り合わなさ過ぎる」
「でも、仮に転生させて貰えるとしても、私が私である事に代わりはないのでしょう?」
「君という魂の持つ性質は変わらない。ただ、今よりもずっと幸福な環境に送り込む事は出来る。何なら、おまけで強力な力を付与してあげてもいい」
「結構です」
「何故そこまで拒むのかね? これ以上無い好条件じゃないか。記憶を失いさえすれば、今までの葛藤も全て無くなるんだよ?」
「私が生きている限り、どこの世界の誰になっても、喜び、怒り、哀しみ、楽しさ、必ず付きまとってくるんじゃないでしょうか?」
「成程ね……でも君の場合はさらに厳しいものになるだろうよ。それでもいいのかい? きっと後悔するよ?」
「今のままでも転生しても、どちらも後悔すると思います。生きていくという事はそういう事なんじゃないでしょうか? だったら僕は、カナリア達の事を覚えて生きていたいです」
「……君は馬鹿だね」
「よく言われます」
それから暫く、お互いに無言だった。
二人とも真顔だったけれど、不意にジンさんはふっと顔を緩めた。
今まで見た中で、一番穏やかな表情をしていたかもしれない。
「ま、そうだね。君の場合、どこの世界で何になろうと苦労しそうだ。故郷であるこの世界で暮らしていくというのも、それほど悪くないのかもしれないね」
「気付いていたんですか?」
「神器の操作、ゲームの知識、さらに上神の儀式の前夜、一万円の例えを出しただろう? 君はそれにすらすらと答えていた。ここまで来れば、後は答え合わせみたいなものさ。そうだろう、岬洋介君?」
「あらら……そこまでバレちゃいましたか」
「君が女性だらけの天界に馴染めないのも無理はないね。何せ君は、淑女じゃなくて紳士だったのだからね」
ジンさんがくっくっと笑った。
僕も苦笑した。
「さて、当然の事ながら、岬洋介という人間はこの世界ではもう死んでしまっている。つまり、君は何も無い状態から、もう一度、女性として人生をやり直……やり足さなければならないわけだ」
「はい」
「どうせ行く宛てなんか無いだろう? 暫くはこのアパートの一室を貸してあげよう。ここは私の神域だし、並の天使族では気付けないだろう。今後の身の振り方を考えるんだね」
「何から何まで、ありがとうございます」
「礼は最後まで人生を生き抜いてから言って欲しいね。前々回はハードモード、折角イージーモードになったのに捨てゲーだ。そして今度はヘルモード。さあ、君にクリア出来るかな?」
そう言って、ジンさんは不敵な笑みを浮かべた。
ジンさんらしいと思い、僕はぷっと吹き出した。
◆ ◇ ◆
真っ白な息を吐きながら、私は夜道を歩いていた。
夕方に降った雨のせいで地面が凍結し、耳が千切れそうなほどに寒い。
履き古したスニーカーの底から冷たさが伝わってくるほどだった。
私はコンビニの袋をぶら下げて、薄暗い路地を縫うように歩く。
そうして暫く進むと、時代の流れに取り残されたような、二階建てのアパートの前に辿り着いた。格安で住ませてもらっておいて何だが、ちょっとした自然災害があれば全壊しそうな建物だ。脇にある赤さびた階段を登り、二階の自室へ向かおうとした所、金髪の女性と鉢合わせた。
このボロアパート――神域の管理者、ジンさんだ。
「やあ、美咲君。仕事の首尾はどうだったかな?」
「最悪でした」
私はマスク越しにそう答えた。
今の私は、近所の量販店で仕入れた衣服を身に纏い、その上に薄っぺらく毛羽立ったコートを羽織っている。シルクのドレスの感覚など、とうに忘れてしまっていた。
「君にぴったりな仕事を紹介してあげたのに、そんなに不満だったのかい?」
「コンパニオンの仕事なんて、私に出来るわけないじゃないですか」
「何を言うんだい。折角の絶世の美女なんだ、男共を侍らせて、女王様にでもなった気分だったんじゃないかね?」
「だから困ってたんです!」
思わず私は怒鳴ってしまった。
天界から離れて既に二年が経っていたが、私は特に何をするでもなく、ジンさんのアパートでその日暮しをしている。
今日はジンさんから「単発で割りのいい仕事がある」と紹介され、万年金欠の私は、一も二も無く飛びついた。で、蓋を開けてみたら、何と忘年会の女性コンパニオンだった。
一刻も早く今日の記憶を消したいのだけれど、ジンさんはにやにやと笑みを浮かべ、通路に立ちはだかっている。
私の話を聞くまで退く気はないらしい。
「で、具体的にはどう大変だったのかね?」
「……私のところに男が殆ど集まってきたので、終わった後、楽屋で他のコンパニオンに蹴りを入れられました」
「ぶはははははっ!」
ジンさんは周りの家に響くほどの大声で爆笑した。
文句の一つも言ってやりたいが、大家である以上、あまり楯突く訳にも行かないのがつらい。
「そりゃ怒られるよ。ところで、そのマスクは一体何だい? それじゃあ綺麗な顔が見えないだろう。風邪でも引いたのかね?」
「分かってて聞いてますよね?」
私が語気を強めると、ジンさんはおどけたように肩をすくめる。
こんなに小汚い格好をしているのに、人ごみを歩いていると、やたらと男の人に話しかけられてしまう。それを防ぐため、外に出るときは大型のマスクをするように心がけている。
「はい、これ今月の家賃です!」
私は懐から封筒を取り出して、そのままジンさんに叩きつけるように渡す。
基本給に加え、なぜかオジさん達がこっそり携帯番号の書かれた紙とチップをくれたのだ。
おかげで今月分の家賃が今日一日で賄えてしまった。
紙は途中のコンビニで全部捨てた。
もう二度と会うこともないだろう。
「女にとって最強の武器、美貌という物を持っているのに、君はそれを使う気は無いのかね?」
「そんな気はありません」
「勿体無い……ああ、実に勿体無いねぇ。こんなに美しい花が、誰にも知られずひっそりと枯れていくなんて。どうだい? そろそろいい人を見つけて身を固め……」
「仕事で疲れてるので帰ります」
私は会話を途中で打ち切って、ジンさんの横を通り過ぎた。
大股でアパート二階の角部屋の前まで進み、錆びたドアノブに鍵を突っ込む。
サンダルが一足しかない玄関で汚いスニーカーを乱雑に脱ぎ捨て、暗闇の中を探るように電気をつけると、空っぽな部屋が蛍光灯の光の元に晒された。
日に焼けた畳の上に、無造作に敷いてある布団以外、殆ど何も置いていない。
いつまでこの生活を続けられるか分からないし、荷物は少ないほうがいい。
「寒い……」
私はマスクを外し、両手に息を吐きかけて擦る。
家に帰れば多少マシになると思ったのに、外と大して変わらない。
光熱費をケチるために暖房器具を殆ど使わないからだろう。
蛇口を捻り、氷のような冷水で手を洗い、凍えた鼠のように布団に潜り込む。
布団の中でダサいジャージに着替え、コンビニ袋から菓子パンとホットの缶コーヒーを取り出す。缶コーヒーは今の私にとっては最重要アイテムだ。これを掴んで布団に篭ると、ほんのちょっとだけ暖かくなる。それ以上に空しくなるが、そこは我慢するしかない。
ほんの少し体が温まってきたので、私は布団に潜ったまま寝転がってパンを頬張る。
ダメ人間ここに極まれりという感じだけど、寒いのだから許して欲しい。
それに、どうせ誰も私の事など見ていないのだ。
二年前に以前の自分を捨て、美咲として生きていくと決めてから、私は抜け殻のように生きてきた。何かをしなければならないと思うのに、何もする気力が起きない。
正直、素直に転生をさせてもらえばよかったんじゃないかと思う事も多々ある。
けれど、こういった生活こそが、私に相応しい待遇なんじゃないかと思ったりもする。
天界で私は、ミサキ様、ミサキ様と皆に慕われていた。
あれは私に類稀な力があったからだ。
今の私にはもう何の価値も残っていない。
出涸らしの茶葉みたいな物だろう。
ジンさんの言うように普通の女性なら、私の容姿はきっと武器になるのだろう。
でも私にはその武器を使いこなす事が出来ない。
何せ元々は男性なのだ、男性と付き合って、そういうことをするなんて考えただけでもおぞましい。
その考えがよぎった途端、私はさらに身を縮こまらせた。
よくお話なんかで『後悔は無い』とか『我が生涯に一片の悔い無し』なんて叫んで大往生する人がいるけれど、なんであんなにすっぱり割り切れるんだろう。
そろそろ歩き出さないと行けないのは分かっている。
けれど、私には歩く理由が無くなってしまった。
三度目の人生だと言うのに、何も成長していないのに苦笑してしまう。
少しだけ暖かくなった布団の中でぽつりと呟く。
「誰も私を必要としてくれないのに、生きていてもいいのかなぁ……」
「いいに決まっています!」
「え……?」
唐突に、悲痛な叫び声が聞こえた。
女性のものである事は間違いないけれど、私は一人暮らしだし友達も居ない。
どうしよう、もしかしたらこの部屋が事故物件で、負のオーラに誘われて現れた幽霊だろうか。
などと考えていたら、いきなり布団を引き剥がされた。
布団がふっとんだ。心霊現象だ。
けれど私が見たものは、幽霊よりももっと信じられない物だった。
「……………………カナリア?」
「ミサキ様、大変お待たせしてしまい申し訳ありませんでした」
鈴を転がしたような声と、一日たりとも忘れた事の無い姿が僕の中で一致していく。
私が目を見開いていると、カナリアは清楚な純白のドレスの裾を軽くつまんで、深々と頭を垂れた。




