31話:野良猫
「さて、と……なかなか面白い事になっているな」
太陽を後光のように背負いながら、ケツァールさんが僕達を見下ろしていた。
能面のような表情からは何も読み取れないが、声のトーンは氷のように冷え切っていた。
「ケ、ケツァール様! これは、そ、その! ち、違うのです!」
「エ、エミュー姉さまの言う通りです! 私達は何も悪くありません! 全て、全てあの烏女がやったことですわ!」
エミューとモアが、僕を指差して弁解する。
その指が、まるでアル中患者みたいにがたがたと震えているのが離れていても良く見えた。
二人は空に浮かぶケツァールさんの両足あたりに飛んでいき、ケツァールさんを頂点として、空中でピラミッドを作るような形になっていた。
そんなに怯える必要も無いと思うのだけど、僕のとばっちりを恐れているのだろうか。
「言われるまでも無い。下級天使に暴動を起こさせる存在など、一人しかおるまい」
ケツァールさんはそう言って、エミューとモアをうるさそうに押しのける。
大きな四枚の翼をゆっくりとはためかせ、僕とカナリアを踏みつけるような位置に陣取り、ゆっくりと唇を開いていく。
「ミサキよ。説明をしてもらおうか。このふざけた戯れは、お前が計画した事なのか?」
「それは……」
違います、と答えようとした時、僕のドレスの裾をカナリアがきゅっと握った。
それに引きずられるように視線を下に向けると、集まってきた下級天使達が、怯えた表情で固まっているのが見えた。
イカルちゃんやアトリちゃん、泣きそうになりながらアシュラにしがみ付くツグミちゃんもいる。
みんな、先ほどまでの狂騒が嘘のように、ケツァールさんの威圧に怯えきっている。
近くで対面して改めて思うけど、それほどまでに神の威光という物は凄まじい。
少しの逡巡の後、僕はゆっくりと口を開く。
「その通りです」
「ミサキ様っ!? そんなはずはありません! 何を仰っているのですか!?」
「カナリア、少し下がってて」
「で、ですが!」
「大丈夫。それより皆を守ってあげて」
僕がそう指示すると、カナリアは何度もこちらを見ながらも、ゆっくりと地面に降り立った。
それを確認し、改めて僕はケツァールさんに向き直る。
無視されてさぞ不機嫌だろうと思っていたけど、意外にもケツァールさんは、僕とカナリアのやりとりを黙認してくれていた。
「では質問を続ける。何故このような大それた暴動を起こしたのだ?」
自分の管理していた天界をこんなに滅茶苦茶にされたのにケツァールさんは怒っていない。
さすがに神というだけあって器が大きい――というより、見たことの無い現象による興味のほうが強い感じだ。
「あなた達が嫌いだからです」
変に言いつくろってボロが出ると不味いので、僕はシンプルに答えた。
嘘は言ってないし、実際に逃走計画だって考えていた。暴走するのは計算外だったけど。
何にせよ、僕が軽はずみに下級天使に力を与え、魔獣を天界に持ち込み、さらに彼女達の暴動を煽った。
この責任は、やはり元凶である僕が取るべきだろう。
祭りでひとしきり楽しんだ後は、誰かが片付けねばならないように。
僕が挑発的な返事をしても、ケツァールさんは相変わらず無表情。
何かを思案するように顎に手を当てている。
「ケツァール様、この女の不遜な態度をどう思われます? 更正不可能である事は明らかではないでしょうか。さっそく追放……いえ、下級天使ともども殺処分致しましょう」
それまで黙っていたエミューが、ここぞとばかりにケツァールさんに猫撫で声で進言する。
僕一人に全責任が掛かるのはいいが、下級天使達にまで被害が及ぶのはまずい。
「カナリア達、下級天使達は関係ありません。全て私の指示によって動いていただけです」
「そんなの関係ないわ。あなたの取り巻きなんだから同罪よ」
「あなた方は純正の天使族、さらに言うと上級天使ですよね?」
「何をあたりまえの事を言ってるのよ?」
「下級天使達の反乱がそんなに恐ろしかったのですか?」
「……何ですって?」
僕は出来る限り嫌みったらしくなるように、百万ドルの笑顔を浮かべて言い放つ。
すると、途端にエミューとモアが眉を吊り上げる。
この人たち、本当に瞬間湯沸かし器みたいだなぁ。
「そんな訳ないでしょう! 今回はちょっと油断しただけだわっ!」
「虚勢を張らなくてもいいですよ? 今の下級天使を生かしておいたら、いつ寝首をかかれるか分からないし、きっと夜も眠れなくなってしまうのでしょう? そう考えたら、確かに今すぐにでも殺したくなるのも分かります。臆病――いや、これは失礼しました。何せエミュー様たちは実に繊細な方ですからねぇ」
「舐めるんじゃないわっ! 丁度いいわ。下級天使達も力が付いたのなら、まとめて絞り尽くしてやるわ!」
よしよし、僕は心の中でガッツポーズを取る。
とりあえず、これでこの場で下級天使達が即処分という事は無さそうだ。
問題はケツァールさんだ。
この人の鶴の一声で、今後の運命が決まってしまう。
ケツァールさんは暫く目を閉じて考えていたようだが、ついに僕に審判を下した。
「今回の件はさすがに目に余るな。これだけの騒ぎを起こした以上、無罪放免という訳にはいかぬ」
「仕方ありません」
これはもう腹を括るしかない。
以前は髪を切る程度だったけれど、今回はそれでは済まないだろう。
それでも、僕は受け入れるつもりで居た。
もちろん、殺されてしまうのは嫌だし、とても怖い。
でもそれ以上に、岬洋介の頃にはなかったもの。
僕を慕ってくれる、受け入れてくれる人たちが目の前で消されていく姿を見たくない。
みんなには、出来る限り笑っていて欲しい。
「悪さをするペットには、首輪が必要だな」
「首輪?」
ケツァールさんがしなやかな動作で手を僕に向けると、白魚のように美しい五指から、光の紐のような物が伸びた。
その紐は僕を拘束するように両手、両足首、そして首に巻きつく。
――瞬間、全身からがくんと力が抜けた。
痛みは無い。けれど、僕の体は撃ち落とされた鳥のように、真っ逆さまに地面へ墜落していく。
「ミサキ様ぁぁぁぁぁっ!!」
地面に叩きつけられる直前、飛び出してきたカナリアに抱きとめられた。
初めて彼女に出会ったとき、落下する彼女を僕が受け止めた。
はは、立場が逆になってしまったな。
「ミサキ様、お怪我はありませんか!?」
「怪我はないけど……何これ? 鎖?」
改めて自分の姿を見ると、両手と両足首に、銀のブレスレットのような物が嵌っていた。
枷からは銀色の鎖が伸びていて、動くたびにじゃらり、と重苦しい音を立てた。
若干息苦しい所、たぶん首にも同じ輪がはまっているのだろう。
ケツァールさんはその姿を確認し、満足げに目を細めた。
「お前は少々悪戯が過ぎるのでな。鳥篭を嵌めさせて貰ったぞ。これで貴様は神力を放出できん」
「トリカゴ?」
「生きていく分にはなんら支障は無い。ただ残念ながら、お前は神となるには不安定すぎる。だが消すにも惜しい。よって、これからはこの私を楽しませる玩具として生きる事を許す」
ケツァールさんは歌うようにそう告げた。
これはあれだ、鳥を飼う人が、小鳥が勝手に飛びまわって暴れないように羽を切る――クリッピングとか言うんだっけ。そんな感じの物なのだろう。
命を奪わないあたり、やはりケツァールさんはやはり僕に甘いようだ。
……と思ったら、急に首が絞まり、ぐん、と上に体が持ち上げられた。
犬のリードを引くように、僕の首輪に見えない糸でも伸ばしているらしい。
「うぅ……!」
僕の口から苦悶の声が漏れる。
前世の首吊りと同じような状態になり、抵抗しようにも全く力が入らない。
吊り上げられた魚のように、再びケツァールさんの手元まで引っ張り上げられた。
「さて、たっぷりと躾をせねばならぬな。お前はいまいち学習能力に欠ける。よって、私じきじきに、体に直接教え込んでやろう」
ケツァールさんは意味ありげな台詞と共に、僕の全身を舐めるように見回す。
その視線から逃れたいと身をよじろうとしたけれど、四肢にまるで力が入らず、宙ぶらりんのままになっている。
「お待ち下さい! 何故ミサキを追放――いえ、殺処分しないのですか! 天界をこのように滅茶苦茶にしておいて、ケツァール様の寵愛を受けるなどありえません!」
「エミュー姉さまの言うとおりですわ! 今すぐに処分しないと危険です!」
エミューとモアが、ケツァールさんの両側から挟みこむように抗議をする。
一方で、ケツァールさんは実に楽しそうに笑っていた。
「傲岸不遜であるからこそ、私はミサキが気に入っている。この者が私に媚びぬのは、己自身に強い誇りを持っているからであろう。そうしたプライドを持つ者を屈服させる。実に愉快ではないか」
ケツァールさんが嗜虐的な笑みを浮かべると、モアが渋面を作るのに対し、エミューが逆ににこやかな笑みを浮かべた。
「そういう事でございますか。ならば、そのお役目、私とモアにお任せしていただけないでしょうか?」
「貴様らがか?」
「ええ、ミサキは見ての通り品格はありませんし、ケツァール様のお気に召す態度になるまで、相当に時間が掛かると思われますわ。ですので、ここは我々がある程度調教をしたほうが、ケツァール様の負担にならないでしょう」
「ふむ……」
エミューの考えていることが何となく分かる。
教育という名の元で、憎たらしい僕を思う存分なぶる事が出来るのだ。
まして、今の僕は力を封じられている。
翼を捥がれた弱者をいたぶるなんて、彼女達の最も得意とすることだ。
「やめて下さい! ミサキ様を解放してください! 私が……私が代わりになりますから!」
下から血を吐くような叫びが聞こえた。
動かない首をなんとか捻って下を見ると、カナリアが号泣しながら懇願する姿が見えた。
両膝をついて手を組み、上空の神にひれ伏している。
アシュラは牙をむき、今すぐ飛び掛りそうな勢いだったけれど、僕が人質になっているせいで身動きが取れないようだ。
「下級天使のあなたが代わりになるわけないでしょ。安心なさい、ミサキはわたし達がしっかり調教して、外の事も、あんたの事もすっかり忘れさせてあげるから」
「そんな……そんなの、ミサキ様があまりにも可哀想です!」
「何よ? 別に殺す訳じゃないわ。ケツァール様や私達のペットになって、ずっと神域の籠の中で暮らすのよ。自由はなくなるけれど、下級天使達の身代わりになってくれるんだから、せいぜいミサキには感謝するのね」
「ぷっ……」
「ん? どうしたミサキ?」
「あは……あはは! あははははははははははっ!」
「何がおかしいのよっ!?」
エミューが怒鳴るのにも関わらず、たまらず僕は思わず噴き出してしまった。
僕が誇り高いだって? 僕が下級天使の身代わりになるって?
馬鹿だなあ。
僕はただ、僕のやりたいようにやっているだけなのに。
ケツァールさんにぶら下げられながら、僕は子供の頃に読んだ童話を思い出していた。
それは、一匹の野良猫の話だ。
薄汚い野良猫がペット屋に捕まって、血統書を偽造されて猫のモデルショーに出されてしまう。ロイヤル・アナスタロンなんて仰々しい名前を付けられた野良猫は、何とナンバーワンの座に輝いてしまうのだ。そうとも知らず、間抜けな金持ちは大枚をはたいて野良猫を買ってしまう。
アナスタロンが飼い主に媚びないのは、その誇り高さ故だと皆が思った。
アナスタロンが屋敷で暴れまわるのは、高潔さが野性味として表れているからだと皆が思った。実際には何のことはない、ただしつけの行き届いていない野良猫だったというだけだ。
そして最後にアナスタロンは――
「そうか、そんなに笑うほど嬉しいか。あのような薄汚い下級天使と共にいるより、お前は本来、我々と共にあるべきなのだ」
「ええ、その通りです。私が間違っていました。この命尽きるまで、私はあなた方の僕となりましょう」
僕がそう告げると、ケツァールさんは破顔した。
エミューとモアも完全に納得は行っていないだろうが、僕を好き放題に弄べるという条件で、なんとか溜飲を下げたようだ。
「そんな……」
一方、カナリア達、地上の下級天使達は、絶望的な雰囲気で僕を見上げていた。
その表情を見ているだけで、僕の胸は締め上げられそうになる。
もう少し、もう少しだけ待っていて欲しい。
カナリアの視線を振り切るように、僕はケツァールさんの目を真っ直ぐに見た。
ここが正念場だ。
「親愛なるケツァール様、早速で申し訳ありませんが、一つだけ、一つだけお願いがあります」
「ふむ……申してみよ」
「最後に、カナリアに別れの挨拶をさせて頂けませんか? 下級天使とは言え、それなりに長く付き合ってきたのです。一言だけ声を掛けさせていただけませんか?」
「いいだろう。お前から三行半を突きつければ、やつらが反抗する気力も無くなるだろう。破壊された世界に関しても、そろそろレイアウトにも飽きてきていた所だ。より美しく、純白の世界を作り直すのに機会と考えれば、まあ大した問題はない」
ケツァールさんが手に持っていたリードの力を緩めたのか、エレベーターを下るような感覚で、するすると僕は地上に降ろされた。
「カナリア……」
「……みさきさま」
カナリアは顔をくしゃくしゃにして僕を見上げた。
本当はこんな顔をさせたくなかった。
でも、こうなってしまった以上、僕は心を殺してやり遂げねばならない。
「私達、とても幸せでした。少しの間ですけど、夢を見ることが出来ました。アシュラさんは元の世界へ送り届けますのでご安心下さい。だから、だから……ミサキ様のあるべき場所にお戻り下さい。元々ミサキ様と私とでは、住む世界が違うのですから」
「住む世界か……確かにそうだね」
「でも、私は……私達はミサキ様の事は生涯忘れません。分不相応な夢を見た私たちに、広い世界を見せてくださった事。本当に……本当に素晴らしい日々でした。同じ天界に住んでいるのですから、ミサキ様のお帰りを、私、ずっと待っています」
「その必要はないよ」
「えっ……?」
有無を言わさず、僕はカナリアを力いっぱい抱きしめ、唇を奪った。
不意打ちにカナリアが目を見開く。
周りの下級天使達も、アシュラも、イカルちゃんもアトリちゃんも……恐らくケツァールさんも、皆僕達を凝視しているだろう。公衆の面前だろうが構うものか。
「ん……」
カナリアは体を強張らせていたが、僕のやりたいことが理解できたのだろう。
すぐに力を抜いて、目を閉じて僕にしなだれかかる。
カナリアと僕の瞳から、同時に涙が一粒零れ落ちた。
そして、僕の四肢に嵌っていた銀色の枷がぽとりと地面に落ちた。
「ミサキ……! き、貴様、一体何を……何をしておる!」
あのケツァールさんがあからさまに狼狽した声を出す。
そりゃそうだ。だって、僕の手首は、光の粒子になり、さらさらと大気中に消えていく。
つまり、僕の天使としての神力が空になりつつあるのだ。
「ミサキ様ぁっ……!」
カナリアが絶叫し、繊細なガラス細工でも扱うように、壊れかけた僕を優しく抱きとめてくれた。
「ふふ……ごちそうさま」
頭を撫でてやりたかった。抱き返してやりたかった。
けれど、もう僕の体は消えかかっている。
だから僕は、ただにこやかに笑いかけた。
カナリアの唇はとても柔らかかった。最後の最後に、このくらいの役得はあってもいいだろう。
カナリアは言っていた。
天使が弱って死ぬとき、光の粒子となって消えていくと。
ジンさんは言っていた。
自分の力を渡しすぎると、僕自身が消滅してしまうと。
僕はカナリアに、ありったけの神力を流し込んだ。
今までみたいに僕の神力をちょこちょこと混ぜるのではなく、本当に全て、全てをだ。
僕自身の力は封印されても、僕の神力がたっぷりと溶け込んでいる今のカナリアになら、口移しで渡せると踏んだのだが、最後の大博打はどうやら勝ちのようだ。
「この命尽きるまでケツァール様に従うと言いましたね? この通り、私の命は尽きました。これで私は自由です」
「ば、馬鹿な……! 下級天使一匹に全てをつぎ込んだというのか!?」
「……ば、ば、馬鹿じゃないのっ!?」
「馬鹿だわ……あんた……狂ってる!」
ケツァールさん達が、僕のことを馬鹿だ、ありえないと罵る。
まあ、確かに僕のしていることは狂気の沙汰だと思う。
でも仕方ない。僕は僕自身に正直でありたい。格好良くありたいのだ。
生前、僕はその力を持たなかった。
けれど今は、愛する者たち――僕に愛を注いでくれた者たちのため、その全ての力を託す事が出来る。
死ぬために死ぬんじゃない。
大事な物を守るために、僕自身の生きた証を守るために死を選ぶのだ。
どうだろう。なかなか格好いいじゃないか。
そうだ、養鶏場のみんなには謝らないといけないな。
強大な力を貰ったのが僕以外だったら、もっと上手に立ち回れただろう。
けれど僕は僕、聖人でも英雄でもない。
たまたま強い力を拾った、ただの馬鹿者なのだ。
そんな僕は、一握りの大事な物にしか全力を注げない。許してほしい。
「カナリア、後は私の代わりに……んっ……」
残された最後の力を振り絞り、先ほど伝えられなかった逃走計画をカナリアに耳打ちしようとした。
けれど、今度はカナリアからのキスで言葉は遮られた。
それは神力を渡すためではなく、純粋に愛おしい物同士が行う接吻だった。
カナリアは、イカルちゃんとアトリちゃんに僕を優しく受け渡し、決然とした表情で天を睨む。
「……取り消しなさい」
「何をよ?」
「ミサキ様を馬鹿者呼ばわりした事をです! こんなにも美しく、心優しきミサキ様を……虐げられていた者の為、全ての力を注いでくれた、偉大なお方を侮辱する言葉を……取り消せっ!」
カナリアが激昂した。
解き放たれた光の矢のように、信じられないほどの速度でケツァールさん達に突っ込んでいく。
その衝撃は凄まじく、飛び立つ衝撃だけで下級天使達が転がる程だ。
「鬱陶しいわねっ! 吹き飛……ぐはっ!?」
エミューが衝撃波を放つより早く、カナリアの拳がエミューの鳩尾にめり込む。
カナリアの超強力な腹パンで体をくの字に曲げたエミューは、そのまま頭に手を伸ばされ、自慢の長い髪を思いっきり掴まれた。
「でやああああああああああああっ!!」
「や、やめなさあああああああああっ!?」
エミューが絶叫するのを歯牙にもかけず、カナリアはその長い髪を紐代わりに、ハンマー投げの如く思いっきり振り回し、エミューミサイルをモアに向けてぶん投げた。
「エミュー姉さまっ!? ぶべっ!?」
それ自体が強大なエーテルの塊である上に、さらにカナリアのパワーまで篭った弾丸を受けきれるはずも無く、モアとエミューは絡まりあいながら、遥か彼方まで吹き飛んでいった。
「貴様……その羽は一体何だ!?」
見えなくなるほど遠くに吹き飛んだエミュー達をまるで無視し、ケツァールさんが狼狽した声を上げた。
無理も無い。カナリアの背中には不思議な羽が生えていた。
漆黒の闇に七色の虹を溶かし込み、様々な宝石をちりばめたような、信じられないほどに美しい羽。
けれど、カナリアの背に生えているのは、カラスのような真っ黒な羽毛の翼じゃない。
あれは蝶? ……違う。錦燕という名前の『蛾』だった。
モルフォ蝶と比べても遜色のない、それどころか、遥かに美しいという人もいる蛾だ。
「私の羽が汚らしいですか? この羽はミサキ様のお力、ジン様のお力、そして下級天使達皆が集めてくれた不純物を集めて作った……誇り高き穢れです!」
今のカナリアは、僕を侮辱したケツァールさんを打ち倒す事――前に進むことしか考えていない。
自分の背中にある羽は見えないから、とても醜いと思っているのだろう。
そんな事は無い、彼女はとても美しい。
なぜこんなにも美しいのだろう。
――きっと、汚いものが混じっているから美しいのだ。
単純な白ではない、憎しみと慈愛、悲しみや喜び、そういったものが複雑な模様を描いているから、輝いて見えるんだ。
神であるジンさんの力、下級天使達の力、僕の力、そして、カナリア自身の積み上げてきた力が幾重にも織りこまれていた。ああ、もう十分に力は足りていたんだ。ただ、鳥の羽……皆が美しいと思う体裁でなければという脅迫観念が、彼女の力を押し込めていたのだろう。
だから言ったじゃないか。
私なんかじゃなくて、カナリアはやれば出来る子なのだ。
「くっ……! おのれ……おのれおのれ! 忌々しい虫ケラめがぁっ!!」
「ミサキ様を侮辱するものは……すべて破壊します!」
「口を開けば破壊破壊と、何と下劣で浅ましい!」
「下劣で浅ましくて何が悪いのですか! たとえ醜くても、それで私の大事な物を守れるのなら、その汚さこそ、私が誇るものです!」
カナリアが拳を繰り出す。
ケツァールさんはさすがにエミュー達とは違い、障壁のような物を出してこれを防ぐ。
だがカナリアの拳から黒い光が現れると、障壁を侵食するように溶かしていく。
あれは――天使達が忌み嫌っていたもの、穢れと呼ばれていた物じゃないだろうか。
そうして、光と闇がお互いを侵食しあうように、ケツァールさんとカナリアの空中戦が開始された。
二羽の大鷲が己の縄張りを争うように、激しくぶつかり合う。
カナリアに怯えはない。目の前の敵を打ち倒す、それだけを考えて全身全霊を打ち込んでいく。
……というか、何でこんな事になってるんだ。
僕はただ、カナリアをずっと縛り付けておきたくなかっただけなのに。
僕がいることで彼女を苦しめるなら、全てを託して自由に生きて欲しかった。
僕が進めなかった光の道を、彼女に歩んで欲しかった。
彼女の重りになりたくなかった。
ただそれだけだったのに。
イカルちゃんやアトリちゃん、それにツグミちゃんにアシュラまで、何か僕に向かって叫んでいる。
多分、しっかりしろとかそんな感じの言葉だろう。
けれど、もう殆ど聞き取れない。
視界がぼやけ、白に染まっていく。
ああ、この感覚は少しだけ覚えている、生前、自室で最後に覚えている光景だ。
カナリアを掴むように空に手を伸ばそうとしたけれど、既に肘から上まで消えている。
だから僕は、最後の最後、自分のためではなく、カナリアのために祈りを捧げる事しか出来なかった。
「神様……どうかカナリアを……皆を……」
朦朧とする意識の中で、僕はただひたすらに祈る。
神といっても、ケツァールという美しく、強大な力を持っただけのちんけな『神』じゃない。
良く分からない『何か』に対し、心から祈った。
「……神様の目はごまかせない」
自然とそんな声が僕の口から漏れ出た。
それは、僕が生前おばあちゃんに教えてもらった事だ。
もう捨てたはずなのに、何故そんな事を呟いたのだろう。
自分でも良く分からなかった。
けれど祈りは届かない。
カナリアとケツァールさんの勝負の結末を見ることなく、僕の意識は途切れた。




