03話:下級天使カナリア
「お邪魔しまーす」
重厚な見た目に反して軽い扉を押し、隙間から滑り込むようにこっそりと潜入する。扉を潜った瞬間、強烈な眩しさを感じ、思わず目を閉じる。薄目を開け、徐々に光に慣らしながら目を凝らし――仰天した。
「凄いな……」
恐らく通路のような場所だけれど、その作り込みが半端じゃない。電柱を十本程束ねたような、巨大な石造りの柱が等間隔で立ち並び、学校の体育館くらいの高さの天井を悠々と支えている。柱の間からは、突き抜けるような青々とした空が広がり、磨きぬかれた大理石の床を陽光がきらきらと照らす。
「おお、地面が雲で出来てる」
人が何人も通れそうな柱の隙間から外側を覗くと、土や草ではなく、綿菓子のようにふわふわとした、白い雲のような物で出来ていた。最も、本当に雲で出来てたら、こんな荘厳な建物なんて建てられないので、何か別の物なのだろうけど。さっきまでの辛気臭い空間とはまさに雲泥の差だ。
「感心してる場合じゃない。早く誰か見つけないと」
白亜の宮殿と言う言葉がぴったりの場所だけれど、生憎のんびりと鑑賞している暇は無い。幸か不幸か、辺りには誰も居ないので、天使とやらを探すため、足音を忍ばせて歩き出す。靴が無いので素足だが、足の裏がひんやりして逆に気持ちがいい。
それにしても無駄に広い。もう五分くらい歩き続けているのに、行けども行けども同じ光景ばかりだ。見た目は立派で美しいかもしれないけど、住んでる人は大変なんじゃないだろうか。そんな文句を設計者に垂れようとした矢先、ようやく最初の曲がり角に突き当たった。壁の部分には巨大な鏡が立てかけてあり、恐らく調度品か何かだろう。
「これが……僕?」
鏡の前に立ってみると、僕の遺伝子なんか一パーセントも混ざっていない、偉大な芸術家が作った彫刻みたいな女性の姿が映っていた。女としての豊満な丸みを帯びつつも、すらりと均整の取れた顔と体、白雪のような柔肌を摘んでみると、お餅みたいに良く伸びた。
背は前より低くなったけれど、女性としては十分高い。年齢的には大人びた高校生といった感じだ。自分の姿なのに、まるでCGか何かで作られたキャラクターを見ているようだ。
「でも、ちょっとこの髪型はいただけないなぁ……」
僕が苦笑すると、鏡の中の女性も同じ表情をする。生前の僕は髪を短く刈り揃えていたけれど、今の僕は、腰どころじゃなく床まで届く長さの、闇夜を溶かしこんだような黒髪だった。これじゃまるでホラー映画の幽霊だ。
さっきから妙に邪魔くさいと思っていたのだけれど、こんなに長ければうざったいわけだ。
「おっぱい大きいなぁ……服の下はどうなってるんだろう」
僕はごくりと生唾を飲む。今の僕は、真っ白なサマードレスを一枚だけ羽織っている簡素な格好だった。服の上からでも分かる大きな二つの膨らみだけど、僕は実物を見た事が無い。やっぱり自分のことなんだから、ここもきちんと把握していないとまずいだろう。うん、そうだ。その通りだ。
「よ、よし! やるぞ! やってやるぞ!」
僕は一人で気合を入れなおし、そっと肩紐の部分に指を通す。このまま少しずらしていけば、胸元がどうなっているか分かるだろう。早く見たいような見たくないような、得体の知れない高揚感が――
「あんた、そんな事が許されると思っているの!」
「わあっ! ごめんなさいっ!」
どこからか聞こえた甲高い叱責に、僕は慌てて指を離す。ところが、辺りを見回しても誰も居ない。てっきり僕の背徳的な行為を責めているのかと思ったら、大分離れた場所に、三人の影が見えた。僕には気付いていないようで、慌てて柱の影に身を隠す。
「お願いです! 私も上神の儀式に参加させてください!」
「あんたみたいな下級天使が参加するだけ無駄よ」
「無駄じゃないかもしれません!」
物陰から騒ぎの場所を覗くと、腰まで届くさらさらの髪を、ど派手に青と緑に染めた二人組が、短い銀髪の少女を責めていた。多分あの人達が天使なんだろうけど、とても穏やかに会話できる雰囲気に見えない。
「エミュー姉さまの言うとおりだわ、羽も満足に出せない無能が参加しても、枠の無駄だわ」
その言葉に釣られるように、エミューと呼ばれた青髪の女性が口元を歪ませる。小柄で童顔の少女に比べ、顔も背丈も随分と大人びているけれど、何となく狐を思わせる、底意地の悪そうな笑い方だ。
「出せます! そのために今日まで頑張ってきたんです!」
「へぇ……下級のくせに羽を出せるのね。ちょっと見せて御覧なさいよ」
「わ、わかりました……」
銀髪の女の子が切羽詰った表情で力むと、背中の開いたみすぼらしい洋服の隙間から、ぴょこんと小さな羽が生えた。と言っても、鳩くらいの小さな羽で、色も何だか灰色っぽい。
「あはははは! 何よそのみっともない羽! 儀式に参加できる羽っていうのはね、こういうのを言うのよ。モア、少し見せてあげなさい」
「はい、お姉さまっ」
緑髪のモアと呼ばれた女性が、勝ち誇った笑みを浮かべる。実にたおやかな動作で髪をかき上げると、豪奢な純白のドレスの背中から、それ以上に輝く大きな翼が開いた。先ほどの女の子が鳩なら、この人の翼は白鳥のように大きく軽やかだ。
「どう、あんたとは格が違うのよ。薄汚い鼠色、さっさと出て行くのね」
「で、でも、儀式に参加出来る資格は、羽を作れる事が条件なだけです。チャンスが無いわけじゃ……!」
「本当に五月蝿いハエね。じゃあこうしましょう。私たちを実力で黙らせてみなさい。そうしたら会場に通ってもいいわよ」
「そ、そんな……ひどいです」
「あらあら、何をそんなに怯えているのかしら。私たちをどうにか出来ないようじゃ、どだい無理な話でしょう? 私がお相手させていただくわ」
モアと名乗る女性が少女に向けて手を振りかざす。銀髪の子も覚悟を決めたのか、拳を作り、素早い動作で地面を蹴る。
「吹き飛べ」
「きゃあっ!」
銀髪の娘の動きも十分早かったけれど、まるでトラックに跳ね飛ばされたみたいに後ろに吹っ飛び、そのまま柱に叩きつけられて磔にされた。あれじゃまるで昆虫標本だ。モアが何をしたか分からないが、まるで勝負になっていない。
「本当に下級天使いじめは楽しいわぁ。私、まだぜぇんぜん力なんて出してないのよ? さあ一生懸命あがいて頂戴。早くしないと、大事な羽がもげちゃうわよ?」
「あ……ううっ! や、やめてくださ……い!」
少女が苦痛に顔を歪めるが、それがあいつらには余計面白いらしい。
「あら、モア、何か聞こえなぁい?」
「さあ? どこかで虫でも鳴いているんじゃないかしら? エミューお姉さまの聞き間違いですわ」
「「あははははは!!」」
「うっ……うええええん!」
――よし、ぶっ飛ばそう。
僕は柱の影でそう決意した。銀髪の子が悪い事をしたのかもしれないし、何か正当な理由があるかもしれないけれど。そんな事はどうでもいい。僕はいじめられっ子側として今まで生きてきたので、いじめる側に問答無用で強い憎しみを感じているのだ。正しい立ち回りかどうかなんて、頭のいい評論家にでも任せておけばいい。
もし僕が二人組をぶっ飛ばしたのが間違いだったなら、後で彼女らが僕をぶっ飛ばし返せばいい。これで全員痛み分けだ。
とはいえ、どう攻撃すれば良いものか。相手は超能力のような物を使えるらしいけれど、こちらは丸腰。出来ればロケットランチャー位は欲しい。当然そんなものは無い。せめて鉄パイプでも落ちて無いかなあ。
「あ、武器あるじゃん」
そこで僕は思い出した。先ほどつぐみちゃんを送った時に使った力だ。みんな僕のことを天使と勘違いしていたし、異能の力を使えたのは確かだ。試してみる価値はある。
駄目なら体当たりでもぶちかますしかない。負けたらそれまで。今は叩きのめしたい感情のほうが強いので、話し合いをする選択肢は端から無い。
トンボの羽を毟る子供みたいな表情で、油断しきっている長身の女性二人に掌を付き付ける。モアとかいう緑髪の人がやっていた姿の猿真似だ。意識を掌に集中させ、言葉を解き放つ。
「吹き飛べ」
ごう、と何かが溢れ出る感触が表皮を伝い、そのまま掌から射出される。
「「ぎゃああああああああああ!?」」
不可視の衝撃をもろに喰らったエミューとモアは悲鳴を上げ、台風に吹き飛ばされるゴミみたいに、きりもみ回転をしながら数十メートルは吹き飛んで、べちゃっと地面に落っこちた。
「あらま、本当に出ちゃった」
さすがに三度目なのでそれほど驚きはしなかった。いや嘘です。滅茶苦茶驚いてます。ひょっとして殺しちゃったんじゃないかと不安になったけれど、二人ははるか前方の床でぴくぴく痙攣しているし、一応生きているようだ。
彼女らが気絶したことで、拘束が解けた女の子が地面に落ちる。慌てて僕が地面を一蹴りすると、十数メートルはある距離が一瞬で縮まる。そのままヘッドスライディングの要領で、女の子をぎりぎりでキャッチした。
「うぅ……」
「大丈夫?」
一瞬、意識を失っていたらしい女の子が、僕の腕の中で身じろぎしながら目を覚ます。いや、まさか間に合うとは思わなかった。身体能力も凄まじく上がっているらしい。
「え……ふぇ……ひゃあ!?」
女の子は一瞬呆けたような表情をした後、凄い勢いで僕の腕から飛びのいた。あれだけ動けるなら大きな怪我はないようだ、跳ね除けられて僕の心には大きな傷がついたけど。
「あ、貴方は!? それにエミュー様とモア様は!?」
「あっち」
怯えながら問う女の子に対し、僕は廊下の先を指差す。相変わらず二人は床に伸びていて、羽毛布団を引き裂いたみたいに、抜け落ちた羽がそこら中に散乱していた。
「貴方がやったんですか? エミュー様とモア様を? 一人で!?」
「うん。不意打ちだったけど」
「凄いです……」
凄いと言われても、僕にはいまいちぴんと来ない。吹き飛べと叫んだら、本当に吹き飛んでしまっただけの話だ。僕が自分の手をまじまじと見ていると、指の隙間から、穴が開くほど僕の顔を見る、女の子の顔が見えた。
「どうしたの?」
「……な、なんでもありません! その、貴方様がとても綺麗なお姿でしたので……」
「ど、どうも。それより怪我はしてない?」
褒められたみたいだけど、あんまり実感が沸かない。確かにさっき鏡で見たときはとんでもない美人だったけど、自分でも自分の事が半信半疑の状態なのだ。
「は、はい。その……ありがとうございました。私、カナリアと申します。私みたいな下級天使に、上級天使の貴方様のお手を煩わせてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「いや、ぼ……私はミサキ。天使じゃないんだけど」
一応女性の姿らしいので、僕から私に変えてみる。下手に突っ込まれてボロが出ても困るし、これくらいは仕事中でも言っていたので許容範囲だ。
「そんな強い力をお持ちなのに、上級天使ではないと仰られるのですか?」
信じられない、とカナリアと名乗る少女は口元を押さえる。僕も自分の状況が分かってないので、驚かれても困るんだけど。この子が全く歯が立たなかった相手を瞬殺したのだから、そこそこ凄いのかもしれない。というか、上級とか下級以前に天使じゃないって言ってるのに。
「それはそれとして、私、ちょっと天使に用事があるんだけど、君に伝えてもいいのかな?」
話を逸らしつつ本題に戻す。
「申し訳ありません。ここは本来、私のような身分の者が常駐する場所では無いので……私に用件を伝えられてもどうにもなりません。それに、今日は上神の儀式があるので、天使達はあらかた儀式の間に行っている筈ですよ」
「じょーしんのぎしき?」
「……? 天使の位を上げるテストの事ですよ? 上級天使では無いという事は、ミサキ様も洗礼を受けに来られたのでしょう?」
「ええと……」
多分、昇進試験とかそんな感じの物なのだろう。当然そんなものを受けに来たわけじゃないけど、どうも彼女はそう思い込んでいるらしい。
さて、どうしよう。僕は天使に意見をしにきただけなのだが、肝心の天使がなんとかの儀式とやらに出払っていて、話の通じそうな彼女は、ここでどうこうする権限が無いらしい。あ、そうだ。
「その上神の儀式とやらを受ける場所に行けば、他の天使もいるんだよね?」
「は、はい。恐らくほぼ全員居ると思われます」
「それで、カナリアさんもそこへ行く途中だったと」
「そ、そのつもりなんですけど……あの……やっぱり駄目でしょうか?」
カナリアさんは消え入りそうな声で、縋るように僕を見上げる。駄目も何も、僕の案にはカナリアさんの協力が不可欠だ。
「その会場へ私を連れて行ってくれませんか?」
「え!? 私なんかがご同伴してもよろしいのでしょうか?」
「というか、私がお願いしてるんだけど……」
カナリアさんの話からすると、天使たちは一堂に会しているらしい。ということは、そこに行けばとりあえず天使達に会う事が出来るわけだ。彼女の反応を見ていると、今の僕は、中身は残念だけど、外見的には天使と見分けがつかないらしいから、潜り込む事くらいは可能だろう。
さっきの二人はちょっと意地悪そうな感じだったけど、中には話しやすそうな人――もとい天使もいるかもしれないし、その儀式の合間や、終わった時に話しかけるくらいは出来るかもしれない。
「私をすり潰しても、大して力は取れませんよ?」
「そんな猟奇的な事しないってば……」
「本当に、本当に私がミサキ様のようなお方を、私がエスコートしてもよろしいのでしょうか?」
「お願いします」
僕が深々と頭を下げると、カナリアちゃんは飛び上がるほど驚いて、困ったような表情になる。どうしよう、遠まわしに拒絶されてるのかもしれない。そりゃ髪型はホラー映画みたいだし、中身は男だし、挙動不審だし……いいとこ無いなあ。
「わ、わかりました! 不肖このカナリア、命に代えてもこの任務を全うさせていただきます!」
「そんな気合入れなくても」
しばらく葛藤した後、緊張と気合の入り混じったカナリアさんはオーケーしてくれた。良かった。神様ありがとう。
「あ、そうだ」
「どうされました?」
今更だけど、車に轢かれたカエルみたいになっている美女二人に恐る恐る近寄る。相変わらず起きる気配は無いけど、足の先でつんつんしたら微妙に動いたので、気を失っているだけみたいだ。一安心した僕は、二人を両脇に抱える。
二人とも女性としてはかなり背が高く、モデルのような体格だったけど、僕の力が強いのか、はたまた二人が軽いのか、まるで子猫を持つみたいに軽々と持ち上げられたので、そのまま外側の雲っぽい地面に放り投げておく。硬く冷たい床に転がしておくより多少ましだろう。
「あ、あの……お二方にあのような事をされて、よろしいのでしょうか?」
「よろしく無いよ。でもほら、やっちゃったものはしょうがないし」
「はぁ……」
余計な揉め事に首を突っ込んで、短絡的に動くのは僕の悪い癖で、馬鹿は死んでも治らないと言うのは本当らしいと苦笑する。二人が起きたら烈火の如く怒るだろうし、今回の行動の結果を僕は受け入れるつもりではいる。あんまり騒ぎは起こしたくなかったのだけれど、自業自得だし、起こってから考えればいい。
「そ、それでは参ります!」
僕が促すと、カナリアさんは右手と右足を同時に出しながら先導し始める。緊張しすぎて逆にこっちがはらはらする。上神の儀式とやらで緊張しているのか、不審者に警戒しているのか、はたまた両方か。ぎくしゃくと歩く銀髪の少女を羅針盤として、僕は先行き不安ばかりの大海原へと漕ぎ出した。




