23話:幸せ
覚束ない足取りでジンさんの用意した門を潜ると、目の前には朱色に染まる空と、光の届かない鈍色の建物。
すっかり見慣れた下層の光景だ。
どうやら出発時と同じ場所、聖域に帰還したようだ。
お酒が抜け切らないのと全身の打ち身のせいで、まだ少しふらふらする。
「ミサキ様っ! 無事お戻りになられたのですね!」
すぐ後ろから、カナリアの声が聞こえた。
彼女のことだから、もしかしたらずっとここで待っていてくれたのかもしれないな。
「うん、お待たせ。随分時間がかかっ……」
カナリアに返事をしようと振り向き、僕は固まった。
だってほら、見て下さいよこの人――もとい天使だかりを。
カナリアを取り巻くように、下級天使たちが雲霞の如くひしめいていた。
「……もしかして、皆で待っててくれてたとか?」
「当たり前だ! お前、竜なんて化け物を狩りに言ったんだろ。ツグミなんて不安すぎて、さっき気絶しちまったんだぞ!」
そう叱咤するのは、下級天使達に紛れていたアシュラだ。
「ミサキしゃま! おがえりなざぁぁい!」
アシュラの頭を踏み台にして、ツグミちゃんが号泣しながら僕の胸に飛び込んできたので慌ててキャッチした。
ああ、彼らには僕が竜狩りに行ったとしか情報が伝わってないんだ。
実際には、ジンさんとゲームをやり、酒を呑んで暴れただけという体たらくなので、こんなに大騒ぎされると逆に困るのだけど。
「ああ、お美しい肌がこんなにぼろぼろにっ!」
今までの経緯をどう説明したものかと黙っていたら、カナリアが僕の体に出来たあざや打ち身を優しく撫でた。
説明するまでもないけど、これは僕が酔っ払って自爆した傷である。
「あ、あのね、この傷は……うっ!?」
「だ、大丈夫ですか!? お気を確かに!」
慌てて弁明しようとしたせいか、完全に酒が抜け切っていない僕のこめかみに頭痛が走り、よろめいてしまった。
それでも倒れなかったのは、カナリアが物凄い勢いで滑り込み、支えてくれたお陰だ。
「あまり動かないで下さい! 今、イカルたちが担架を持ってきますから!」
カナリアが死に掛けの人を激励するような声で叫ぶ。
彼女だけじゃない、聖域を埋め尽くす下級天使達も、ミサキ様、ミサキ様と不安げな声を漏らす。
ソプラノの声が交じり合い、まるで聖歌隊が歌っているようだ。
「ミサキさま! おまたせっ!」
カナリアの剣幕に僕が縮こまりながら肩を借りていると、イカルちゃんとアトリちゃんが下級天使達と共に『担架』を抱えてやってきた。
「うっ!? こ、これに乗るの?」
「ミサキしゃまがケガしてもいいように、みんなでつくったの!」
ツグミちゃんが僕の足元で叫ぶ。
その担架はキングサイズのベッドより大きく、上質な羽毛で作られているようにふかふかで真っ白だ。
しかも、良く見ると模様のような細工までされている。
いや、これもう担架じゃないよ、お御輿だよ。
僕が呆然としている間に、下級天使達が十数人で僕を担ぎ上げ、ガラス細工でも扱うように横たえる。
イカルちゃんとアトリちゃんも両脇に乗り、僕に付き添ってくれる。
「今から私の家に運びます! 禊の準備をしてありますから、そこでお体を清め、癒します!」
カナリアはカナリアで、涙を眼に一杯溜め、僕の手をぎゅっと掴む。
極度に緊張しているのか、掴まれた手から震えが伝わってくる。
「カナリア、そんなに心配しなくても……」
「何を言ってるんですか! ミサキ様がそんなにふらつく所なんて見たことがありません!」
どうしよう。
今更『ただ酔っ払ってるだけです。てへっ☆』なんてとても言えない。
横になったまま、ちらりと担架の下を覗いてみると、下級天使達が胸の前で両手を組み、真摯に僕の回復を祈っているのが見えた。
こんな稚い子供達を騙すなんて、ああ、僕は何て罪深い奴なのだろう。
「オラ! どけお前ら! 心配なのは分かるがこいつは簡単に死ぬタマじゃねぇ!」
担架に群がっていた下級天使達を、アシュラが手を振って追い払う。
そのままアシュラに先導され、僕を乗せた巨大担架は数十人の天使達に運送されていく。
その寝心地と言ったらもう、筆舌に尽くしがたい。
人を駄目にする担架とでも命名したい気分だ。
天使に囲まれ、パトラッシュにソリを引かれていたネロもこんな気分だったのだろうか。
「パトラッシュ、何だかとても眠いんだ……」
ついつい僕は、そんなことを言ってしまった。
「ミサキさま! しっかりして!」
「ミサキさま! 死んじゃダメ!」
「わぁ!? 死なないから! 死なないから大丈夫!」
イカルちゃんとアトリちゃんがむせび泣きながら僕の両手を強く握る。
「みんな急いで! 早くミサキ様を禊場へ!」
「おうっ! 任せとけ!」
カナリアは気丈な声で担架の上からアシュラに方向を指し示す。
後ろにちらりと目をやると、下級天使の少女達が、イナゴの大群の如く群れを成して追いかけてくる。
軽い気持ちで呟いたが、完全に失言だった。
先ほどまでは快速並みのスピードで進んでいた担架が、今は超特急になってしまった。
偉い人たちがネットで自爆するのって、きっとこんな感じなのだろう。
しかし、申し訳なさと同時に、ほんのちょっと前まで薄汚れ、弱弱しい存在であった彼女らが、これほどまでに機敏に動ける事に驚いていた。
きちんと力を与えてあげれば、下級天使だってこんなに元気に振舞えるのだ。
そして、それに多少なりとも力を貸すことが出来たことを少し誇りに思う。
僕が健康体である事を知れば、皆も落ち着くだろうし、酔っ払いだってパトカーに運ばれたりするのだ。
少しくらい今の境遇に甘えてもいいのかな、なんて戯けたことを考え、僕は大人しく馬鹿でかい担架の上で大の字になった。
「ん……?」
そこで僕はある事に気が付いた。
茜色から紫色に変わりつつある空の中に、複数の――恐らく天使族らしき影が見えたのだ。
天使達は何をするでもなく、トンビのように旋回して様子を伺っている。
僕が気付いたことを察すると、天使達は慌てて中層の方へと飛び去った。
一体なんだったのだろう。
そういえば、モアとエミュー達とは上神の儀式以降、顔を合わせていない。
彼女らは今、どうしているのだろうか。
疑問に思ったところで答えてくれる者もなく、ただ紫の空が闇を深めていくだけだった。
◆ ◇ ◆
「ミサキ様、お加減は本当に大丈夫なのですか?」
「うん、もう何ともないよ。心配かけてごめんね」
「良かった……」
カナリアは心底安堵したらしく、ほっと胸を撫で下ろす。
ドクターヘリもびっくりの速度で緊急搬送された僕は、そのまますぐに禊をされた。
既に禊の準備は終わっていたらしく、なみなみと湛えられた透明度の高い聖水は、カナリアが前もって作ってくれていた物だった。
以前より遥かに透明度が高く、そして芳醇な香りがする。
澄み切った聖水に体を浸され、数人がかりでいつも以上に全身を磨かれた。
天使にとって禊をするという行為は、生命力を補給する崇高な行為だ。
こんな酒乱に大人数でやる価値も無いと思うのだけれど、皆の熱意に水を差すわけにもいかず、されるがままになっていた。
何かもう本当に申し訳ない。
酒は呑んでも飲まれるな、僕は深く深く、そう心に刻みこむのであった。
そうしているうちに酔いも醒め、すっかり元気になった僕を見て、下級天使の皆は「ミサキ様が復活した! ミサキ様が復活した!」と狂喜乱舞してくれた。
僕は曖昧に笑い、皆に謝辞を述べると、感激のあまり卒倒する者も出る始末だ。
何だか自分が詐欺師にでもなった気がする。
僕が元通り――いや、それ以上にぴかぴかの状態に戻った時には、既に陽はとっぷりと暮れており、その場でお開きとなった。
カナリアは今晩は僕につきっきりという形になったので、その辺の告知はアシュラがやってくれた。
あれでなかなか気の利く男なのだ。
単に雑用を押し付けられていると言えなくもないけど。
ちなみに、アシュラにくっついてツグミちゃんも妨害――もとい手伝ってくれた事も、念のため付け加えておく。
「イカルもアトリもようやく眠ってくれました。二人とも本当に心配しておりましたので」
「そっか、何から何まで迷惑かけるね」
「いいえ! 無事で帰ってきてくれたのです……それだけで私は……」
人心地ついて今日一日を振り返り、気持ちがぶり返したのかカナリアは再び涙ぐんでしまう。
僕は彼女を慰めるように、優しく頭を撫でる。
ジンさんとゲーム云々に関しては、そもそもゲームとは何ぞやというところから解説せねばならないし、僕が全快したのもあり結局説明はしなかった。
さて、ここからが本番だ。
貰ってきた神力をカナリアに上手く受け渡さねばならない。
それを意識するとひどく緊張するが、ここで終わらせてはいけない。
「カナリア、少しお願いがあるんだけど」
「はい、私に出来ることならなんなりと」
誰かが聞き耳を立てている訳でもないのだけれど、僕は周囲を何度も見回した後、カナリアにそっと耳打ちをした。
カナリアの顔が、みるみるうちに真っ赤に染まる。
多分、僕も似たような状態になっているだろう。
「あ、あああ、あの、ほ、本当にそのような事をされるのですか!?」
「う、うん、そうしないと駄目みたい」
「そ、そうですか……」
沈黙。
どうしよう、こういう時にどう対応していいか全く分からない。
とりあえず、明かりを取り入れるために空いている窓の部分や、部屋の入り口を豆腐ブロックで目張りする。
よし、これで誰にも見られない。
当然、部屋の中は真っ暗になる。
「あ、あのあの! 明かりを付けますね!」
カナリアは上ずった声でそう答え、エーテル固定で蛍火のような光球を作り、宙に浮かべる。
幻想的な淡い輝きが、白い壁を穏やかな緑に染める。
緑色の炎を放つカンテラ、何となくそんな物を想像した。
「じゃ、じゃあ……始めるね」
「は、はい……」
心臓が破裂するんじゃないかと言うほどにドキドキする。
今の僕はカナリアが作ってくれた、体に負担の掛からないゆったりとした純白のローブに身を包んでいたが、服を緩め、生まれたままの姿になる。
「あ、あの! 私、こういった経験が無いのですが、何か気をつけることはないでしょうか!? 勿論、禊は済ませましたし、イカル達も寝かしつけましたし、あとあと……」
「いいから! こっちまで恥ずかしくなるから早く!」
「は、はい……!」
カナリアは何故か気をつけの姿勢を取った後、もじもじと胸元に手を伸ばす。
衣擦れの音が、僕の耳には妙に大きく聞こえた。
そうしてカナリアも、僕と同じ姿になる。
銀色の髪と白磁のように滑らかな体が淡い光に照らされて、まるで後光が差しているように見えた。
「失礼、します……」
「うん、よ、よろしく」
ひどく緊張した面持ちのカナリアをお姫様だっこの要領で抱え、二人でベッドへと身を滑らせる。
カナリアは殆ど抵抗することもなく、僕の腕の中でもぞもぞと動く。
彼女が体を硬くしていたのは一瞬で、すぐに「ふわぁ……」と感嘆のため息を吐いた。
「とても暖かいです……」
「うん、私も」
僕達は、仲睦まじい親子の鳥のように身を寄せ合う。
綺麗な物を汚してしまうのではないか、そんな後ろめたい気持ちもあったのだけれど、邪な感情は一瞬で打ち砕かれてしまった。
女性同士で『そういうこと』もできるのかもしれないけれど、そんな物は必要ない。
ただ、お互いの香り、体温、存在を感じられる。
それがとても愛おしく、尊く感じる。
僕は小さなカナリアを傷つけないように、細心の注意を払い神力をコントロールする。
普段は豆腐しか作れない僕だけれど、こうしてカナリアに力を流し込む時は、まるで自分の指を動かすみたいに簡単に操作できた。
僕とカナリアの力はお互いに交じり合い、黒と白のマーブル模様のように溶け合っていく。
この感覚が収まれば、神力の受け渡しは完了だ。
「どう? 苦しくない?」
「とても心地良いです……まるで夢のようで、少しふわふわします」
「あはは」
そう言うカナリアは子供のようで、僕は軽く笑う。
普段は格の違いを感じているせいか、彼女の方から抱きついてくる事は殆どない。
けれど今日のカナリアは、僕の胸に顔を押し付け、背中に両手を回して抱きついてくる。
先ほどまで僕も神力に酔っていたし、この娘も少し酔っているのかもしれない。
「ミサキ様は温かく柔らかで、とてもよい香りがします。羨ましいです……」
「あ、あの……ちょっと、くすぐったいんだけど……カナリアは甘えん坊さんだね」
「私、甘えん坊じゃないです。いつも頑張ってます」
「そうだね。カナリアは良い子だね。いい子いい子してあげよう」
「えへへ……」
カナリアはまるで赤ん坊のように、無垢な表情で僕の乳房に顔を埋める。
そんなカナリアに腕枕をしつつ、ひんやりとした滑らかな銀髪を透く。
そのたびに指の間から、幽かに爽やかな柑橘系の香りがして、ついつい何度も撫でてしまう。
「私、今とても幸せです……けど、同時にとても怖いです」
「怖い?」
「だって、幸せを手にするという事は、不幸も同時に持つということじゃないですか。最初から諦めてしまえば傷つく事もありません。でも、やっぱり欲しくて……私、何を言ってるんでしょう。おかしいですね」
「おかしくないよ。何となく分かる気がする」
「えっ、ミサキ様もそう思われるのですか?」
「うん」
僕とカナリアは、それぞれの社会の底辺に押し込められて生きてきたせいか、人の好意や無条件の愛情を受ける事にあまり慣れていない、ひどく不器用で滑稽な存在だ。
ある日突然、身に覚えのない幸せを手に入れても『やったぞ!』と素直に喜べず、『この幸せには何か裏があるのでは……』などと勘ぐってしまう。
美味しいご飯に慣れてしまうとそれまでの物に満足できなくなるように、それまで素晴らしいと思って――思い込んできた価値観が壊れてしまう。
それを恐れているのだと思う。
清らかで暖かい光に憧れつつも、実際に白日の下に晒されると、己の矮小さに嫌気が差して、影の部分を見てしまう。
こうしてカナリアと幸せを共有している間、養鶏場の人たちは何を思い過ごしているのだろうとか、そんな雑念が脳裏をよぎってしまうのだ。
まったく、二人だけの楽園に没頭できない思考回路がもどかしい。
「……私たち、同じなんですね?」
「そうだよ。私もカナリアも変わらない」
「……本当ですか?」
「本当だよ」
そういうと、カナリアは無言でしがみついてきた。
先ほどよりも力が篭っている。
「ミサキ様……私、立派な天使になります。モア様やエミュー様――いいえ、誰にも負けない、ミサキ様のように素晴らしい天使になります」
「私みたいになんて、ならないほうがいいよ」
これは本当に、心の底からそう思う。
僕のようないい加減な天使になったら、それはもう俗物であり、悪魔である。
「いいえ! ミサキ様は下級天使達の憧れです! 何があろうと私はミサキ様をお守りします!」
「ありがとう。でも、今は私から力を一杯貰うといいよ。お腹がすいていたら、いざという時に力が出ないからね」
「……わかりました」
そう言うと、力を篭めていたカナリアの手が緩み、完全に身を委ねてくる。
心なしか、カナリアに伝わる力の流れが速くなったような気がする。
こうして全てを委ねられるというのは緊張するけれど、同時に誇らしく思えるから不思議だ。
「ミサキ、さま、わたし、がんばります、守られるだけじゃ、なくて……ミサキさまを、守れるように……」
カナリアは目をとろんとさせ、うわごとのようにそう呟いた。
もう半分以上眠りに落ちているようだけれど、僕より早く寝てはいけないと、いじましい努力をしている。
僕はその背中を、軽くさすってやる。
「もうお休み。いい夢を見るんだよ」
「すみません、先に、眠ります……」
「うん、おやすみ」
そう言うや否や、カナリアは穏やかな寝息を立て始める。
それに誘われるように、僕の意識も乳白色の闇の中へと溶けていく。
口では言い表せない清らかな何かに心を満たされながら、僕もそっと目を閉じた。




