02話:魂の待合室
「ん……」
目を覚ますと、目の前にしわくちゃの化け物が見えた。よく見るとそれは怪物ではなくて、薄ぼんやりと光るお爺ちゃんの顔だった。
「おお、目が覚めたか」
「ここは……?」
どうも頭の感覚からすると、おじいちゃんに膝枕をされていたらしい、どうせなら美人のお姉さんとかが良かったのになんて思いつつ、僕は頭を振りつつ身を起こす。
「もうちょっとそのままでも良かったのにのう……」
蛍光塗料を全身に塗りたくったような謎の発光お爺ちゃんは、名残惜しそうに呟いた。辺りを見回すとお爺ちゃんだけじゃなくて、老若男女問わず沢山の人が居て、誰もがみんな同じようにぼんやりと光を放ち、うつろな目をして長椅子に座っていた。
そのまま視線をぐるりと動かし、周囲に目を移す。暗くも明るくも無い乳白色の空間で、何となく病院の待合室を思わせる雰囲気だ。天井も壁も無く、ただ地平線まで続くような長椅子が、ずらっと並んでいる。誰も彼もお通夜みたいに黙っていて、僕とお爺ちゃんだけがやたら騒がしい。
「あの、ここはどこです?」
「お前さんは死にたてほやほやだから知らんか。と言っても、わしらもよく知らんので、『魂の待合室』と呼んでおる」
「待合室?」
「生と死の中間地点みたいなもんらしい。人間の魂が集まり、死んだ後の運命を決める、その手続きの順番待ちの場所じゃと、巡回の天使がそう言っておった」
「ああ、そういうことですか……」
ようやく合点が行った。死後の世界、天使や悪魔なんてものを僕はあんまり信じて無かったけれど、どうやら本当にあるらしい。僕の一生に一度の一発芸は、どうやら成功したらしい。別に嬉しいとも悲しいとも思わなかった。
待合室という事は、しばらくここで待たねばならないということだろうか。こんな事なら、死ぬ時にポケットに携帯ゲーム機でも入れておけばよかった。持ってこれたか分からないけど。
「お爺さんも順番待ちの最中ですよね?」
「ああ、わしゃもう二十年もここで待たされておる。全く、天使とやらは仕事が遅くてかなわん。でも、お前さんが横に来てくれた事を考えると、仮に五十年待ったとしてもおつりが来るのう」
そうしてお爺ちゃんは役得、役得と呟いて、フヒヒといやらしく唇を歪ませた。一体何が嬉しいんだろう。話し相手を求めているのだろうか、悪いけど僕は面白トークが出来る人間じゃないのだけど。
「しかし二十年って凄いですね。逃げ出そうとか、魂同士でバトルロワイヤルでもしようとか思わないんですか?」
「ワシらはこの指定席から動けんのじゃよ。あの子も、もう三年近く待っているみたいだしの」
「あの子?」
「ほれ、あっちの長椅子に座っとる小さな女の子じゃ」
お爺ちゃんが顔を向けたほうには、幼い女の子が一人で座っていた。悲しそうに顔を俯かせて、時折しゃくりあげる声が聞こえる。
「ママ……どこ? 会いたい、会いたいよぉ……」
一人でべそをかいている幼い女の子に、周りは誰も声を掛けない。ただ正面を見て座っているだけだ。僕が不思議に思っていると、お爺ちゃんが言いづらそうに付け加える。
「あの子は、小さな頃に病気で死んだらしい。母親と死んだ時間に差があるから、恐らく処理の順番が離れてしまったのじゃろう。可哀想じゃが、わしらにはどうすることも出来ん」
「つまり、どうにもならないから放っておけと」
「そういうことじゃ。そもそも、わしら自身がどうなるかも分からんし、優しい言葉なんぞかけて何になる。さ、話は終わりじゃ。美しいお嬢さんや、時間は無限と行っていいほどある。わしと茶のみ話でもせんか? まあ茶は無いがな」
お嬢さんと言われて、僕はようやく自分の異変に気がついた。白魚みたいなほっそりした指に、新雪のような真っ白な細腕、何より、自分の胸にくっ付いてる、二つの丸くて柔らかな物体。思わず手を伸ばすと、ふにふにと柔らかい感触が手のひらに伝わってくる。
「どぅわぁ!? 何だこれ!?」
「何を大きな声を出しとるんじゃ?」
「あ、あの……ちょっと聞きたいんですけど、お爺さんは死んだ時もお爺さんだったんですよね?」
「質問の意味が良く分からんが、わしは死んだ時から大して変わってやせんよ。ああ、でも周りの連中と同じように、顔色は悪くなったかもしれん。お前さんだけ随分ぴちぴちした肌をしとるが、生前はエステにでも通ってたのかい?」
ハハハと笑いながら、お爺ちゃんはそんな軽口を叩く。他の人は蛍光色になった以外に姿は変わってないみたいだけど、どうも僕は女の子になってしまったらしい。なっちゃったんだからしょうがないでしょう。
でも困ったな。横に居るお爺さん、僕のことを女と間違えてるみたいだけど、僕の性癖はノーマルなのだ。男性に言い寄られるのはさすがに厳しい。お爺さんだって、僕が男だと知ったらがっかりするだろう。誰も得をしない。
「フヘヘ、いいじゃないかお嬢さん。ワシはもう何十年も女性の肌に触れていないんじゃあ!」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
僕の内情なんかお構いなしに、飢狼と化したお爺ちゃんが僕に襲い掛かる。本能的な危険を感じ、咄嗟に身を翻し――って、あれ?
「あれ? 普通に椅子から立てましたけど?」
「うおおおおーっ! ぐおおおーっ! 待て! 待つんじゃおっぱいいぃー!」
もはや僕の言葉など耳に入っていないようで、お爺さんは、ギリギリ届かない場所にあるバナナを取ろうとするチンパンジーみたいに、僕の胸に遮二無二手を伸ばすので、反射的に両腕で胸元を庇う。どうもお爺さんが席を立てないというのは本当らしい。
これ以上関わると色々面倒くさそうなので、理性を宇宙の彼方へ吹き飛ばしたお爺さんに一礼し、そのままぶらぶらと歩くことにした。
「何で僕だけ歩けるんだろうなぁ……」
そのまま僕は、色々な人が腰掛ける長いすを横目に、ひたすらに歩き続けた。もしかしたら僕みたいな人も居るのかもしれないと探したけれど、みんな首を横に振るばかりで、誰も椅子から立てないようだ。
さて、これからどうしよう。僕が女になった事も確かに問題なのだけれど、もしかしたら来世の下処理みたいな物なのかもしれない。考えても答えは出そうにないし、そうなると、天使が来るまでの時間を、どこでどう過ごせばいいのだろう。
天使とやらがすんなりと来てくれればいいのだけれど、それが明日なのか、はたまた百年後なのか検討がつかない。猿と化したお爺ちゃんの横に戻るのは嫌だったし、空いてる席は他に無い。
「あ、そうだ!」
やる事を思いついた僕は、踵を返してある場所へ向かう。先ほどお爺ちゃんが教えてくれた、泣いている女の子の座っていた席だ。まだ四、五歳くらいの女の子なのに、まるで疲れきった老婆みたいな表情で、足をぱたぱたさせて椅子に座っていた。
「ねえ君、ちょっといいかな?」
「え……? おねえちゃん、だれ? 天使さま? でも羽ないね? 変なの」
「僕は岬、お嬢ちゃんのお名前は?」
「つぐみ……」
掠れた声で女の子が答える。やっぱりこの子にも僕が女性に見えているらしい。
「お母さんに会いたいんだよね?」
「うん……でも無理だよ。だってわたしうごけないもん」
「じゃあ、僕が君のお母さんを探してきてあげる。お母さんの言葉を聞いたら、僕が君に伝えてあげる。そうすれば、離れていてもお話できるでしょう?」
「ほんとに……?」
「うん、見つけてきてあげる」
「ほんとにほんと?」
「う……うん」
「じゃあ、指きりげんまんして!」
「は、はい。分かりました」
何故か最後敬語になってしまったけれど、女の子はぱっと表情を輝かせた。この表情を見られただけでも、ここに来た甲斐があったのかもしれない。僕はそのまま身を翻し、女の子から離れる。
どうせ何十年も待たされるのなら、何か少しでもやることがあったほうがいい。そう考えて軽はずみに引き受けてしまったけれど、ちょっと短絡的過ぎたかもしれない。何せ地平線の彼方まで人魂、人魂、人魂なのだ。太平洋に逃げたメダカを見つけ出すような作業になるかもしれない。
「うう……でも引き受けた以上やるしかないか……つぐみちゃんのおかーさーん! 居たら返事してくださーい!」
僕は両手をメガホンのようにして、大声で叫んでみた。こんなので見つかるなら苦労なんて――
「うわっ!?」
叫び終わった瞬間、何かにぐん、と体を引っ張られる感じがした。一瞬視界が真っ白になって、気がつけば、目の前に、不安そうに目を泳がせるおばさんが座っていた。何が何だか分からないまま突っ立っていると、彼女がおずおずと口を開く。
「て、天使様……私の番なのですか?」
「いや、僕は天使じゃないんだけど……」
「あ、あの! つぐみは……私の娘はどうなったのですか!? あの娘はもう連れて行かれてしまったの!? お願いします! 私も同じ場所に連れて行ってください!」
僕の話なんか聞いちゃいなかった。この人も椅子から離れられないみたいで、上半身がちぎれるくらいの勢いで僕の腕を掴む。鬼の形相とはまさにこの事で、正直かなり怖い。とてもじゃないが、娘さんにお話だけ伝えておきますなんて言える雰囲気じゃない。
「わ、分かりました……何とかやってみます……」
気がつくとそう言っていた。天使じゃなくて、今はノーと言える日本人になりたい。
「本当ですか!?」
「いやその、保障は出来ないといいますか、失敗する確率のほうが高いと言うか、むしろ成功する可能性が微粒子レベルで……」
「構いません! どうかお願いします!」
「そ、それじゃ行きます……」
もうどうにでもなれと言った感じで、僕はおばさんの手を取り、つぐみちゃんの顔を思い浮かべる。お母さんを見つけたいとイメージしながら叫んで出来たのだから、その逆も多分……そんなに上手く行くわけ無いか。
でも断ったら、死んだのにまた殺されそうな勢いだ。やっぱり他人のプライバシーに軽々しく入り込むのは良くない。結果的にこの親子を落胆させる事になってしまった。もう誠心誠意謝るしか――
「つ、つぐみ……! ああ、会いたかった!」
「ママっ!? ママぁっ!」
「……出来ちゃったよ」
先ほどと同じように、一瞬真っ白になった後、僕とおばさんは、つぐみちゃんの席の前に瞬間移動した。理屈はさっぱり分からないが、上手くいったらしい。おばさんは号泣しながら、つぐみちゃんを抱き寄せた。つぐみちゃんの方も、わんわん泣いて最愛の母へと飛び込む。
「天使様、本当にありがとうございます。今まで私の声に耳を傾けて下さったのは、貴方が初めてです」
「天使のおねえちゃん! どうもありがとう!」
つぐみちゃんはお母さんの膝の上に乗ると、歓喜の涙を流し、眩しいほどの笑顔を僕に向けてくれていた。おばさんも、涙声で深々と頭を垂れている。僕が離れると、二人ともまた椅子から動けなくなったようだが、その表情は明るい。
内心冷や汗ものだったのだが、結果オーライという事にしよう。ついでなので、ちょっと聞き込みをさせてもらう事にする。
「他の天使はなかなか来ないのですか?」
「毎日来ていましたよ。でも、ここ数年はあまり来られる方がいませんね。何やら向こうも取り込み中で、私たちに構っている余裕が無いようです。貴方様が来られなかったら、いつまで待たされたか」
「天使はどこからやってきているのですか?」
「いっつもあっちの方から来るよ。つぐみ達のことひっぱっていくの。すっごくえらそうなんだよ」
おばさんに代わって、つぐみちゃんが一生懸命答えてくれる。あっちの方と指差している先は、乳白色の靄が掛かっていて、良く見えない。
「そっか、どうもありがとう。おばさんもありがとうございました。残念ながら、僕にはこれ以上何も出来ませんが……」
「いえ、これで十分です。この先どうなるかは分かりませんが、運命の決まるその時まで、この子と一緒に居られるのですから」
「お姉ちゃん、ばいばーい!」
親子二人で仲良く手を振ってくれたので、僕もひらひらと手を振り返し、その場を後にする。
「ふむ……」
僕は顎に手を当てて考える。たまたま僕が席を立ち上がれたから良いものの、あそこでずっと磔にされていたらと思うとぞっとする。それに、あの親子以外にも、座っている人達は退屈を通り越し、魂なのに魂の抜けたような表情で座っていた。
「あんまり気持ちのいい光景じゃないよなぁ……」
気がつくと僕は、足を乳白色の靄の方に向けていた。少しためらったけれど、その中に足を踏み入れる。
一寸先も見えない白い闇の中をしばらく進むと、靄の先に、高さ数メートルはある、重厚な扉が見えた。あくまで勘だけど、多分この先が天使の居るエリアなのだろう。
「ちょっと直談判してこようかな……何だかクレーマーみたいで嫌だけど」
僕は自分を鼓舞するように、胸元に手を当てて深呼吸する。手を伸ばしたとき、何ともいえないぷにぷにした感触があったが。今はそれを無視する。
天使とやらにも何か理由があって、凄く忙しいのかもしれない。でも、あのまま放置されっぱなしなのは、あんまりにもあんまりだと思う。
僕の独断であの親子は並び替えてしまったけれど、僕にすらできたんだし、離れ離れになっている、親しい人を繋げるくらいはしてくれてもいいんじゃないだろうか。それとも、それすらもやれないのか、してはいけないのか。分からないことばかりだ。
「ええい! 考えてても仕方ない!」
僕は無駄に大きな扉を力任せにノックするが、中からの返事は無い。鍵は掛かっていないらしい。少しの間逡巡したが、扉に両手を掛けた。少し力を入れて押すと、見た目に反して軽い扉が、重苦しい音を立てて開いた――。