11話:聖域
朝靄の中、僕は一人、真っ白な世界を歩いていた。
日が翳るとすぐに陰鬱な世界になってしまう最下層部も、この時間帯は徐々に昇り来る朝日に照らされ、煤けたクリーム色の建物を橙色に染めている。
「ええと……多分こっちの方向だと思うんだけど……」
時計が無いので細かい時間は分からないが、まだようやく日の出になるかならないかという時間帯だ。
下級天使たちもまだ眠っているのか、通りは静まり返っている。
こうして改めて周りを見直すと、中層の天使の住処に比べれば、随分と雑然とした世界である。
とはいえ、狭苦しい日本の街で暮らしてきた僕はあまり気にならない。
こうしたごちゃごちゃした感じは、何となく生命の息吹を感じさせるので僕は好みだ。
美術館はたまに寄るから美しく見えるのであって、あそこでずっと寝泊りしたいとは思わないでしょう?
話が逸れた。
何故僕一人で土地勘の無い最下層をふらふら歩いているかと言うと、別に観光がしたいとか、夢遊病患者とかではなく、ちゃんと理由がある。ある場所へ向かっているのだ。
「カナリアに内緒で出てきちゃったけど、まあいいか……」
昨夜、カナリアを手助けすることを正式に申し出た僕だが、あの後が結構大変だった。
何が大変かって? まず『どっちがベッドを使うか』で揉めたのだ。
カナリア宅は下級天使の長を務めているだけあって、下層の中ではかなり大きな家らしい。
それでもベッドが二つしかなく、一つはイカルちゃん、アトリちゃん、そして穢れから完全に回復したツグミちゃんの三人が使用中だ。もう一つのベッドはカナリアさんが使う。
僕の中ではそういう心づもりだったのだけど、
「ではミサキ様、小さなベッドですが、そちらをお使い下さい」
「いや、僕が床で寝るよ。カナリアは疲れてるでしょ」
「何を仰られるのですか! 上級天使様が床で寝るなんてありえません!」
「大丈夫だって。さっき寝たら余裕で眠れたし。柔らかくていいじゃないか」
「駄目です! 私のほうがミサキ様より上で寝るなんて! 不敬すぎます!」
「本当に大丈夫だってば! あんまり言う事聞かないと、私は外で寝るよ?」
僕としては、軽い冗談のつもりでいったのだけれど、
「そ、そんな……ミサキ様! お願いです! 私と一緒に居てください! 謝りますから! 捨てないで下さい!」
「いや、ウソウソ! 冗談だから! そんな人生終わったみたいな顔しないで!」
なんてやり取りがあり、カナリアは最後まで折れてくれなかった。
そりゃ僕だって、客人を床で寝かせて、自分がのうのうとベッドで寝ると考えると心苦しい。
でも、僕は本当に天界の地べたで寝るのが好きなのに。
仕方なく僕がベッドに横になると、カナリアは満足そうにベッド下の床にころんと転がった。
羽は既に引っ込めてあり、こうして見ると愛らしい歳相応の女の子にしか見えない。
「ミサキ様……私、精一杯頑張りますね」
「うん、でも余りプレッシャーに感じちゃ駄目だよ。さっきも言ったけど、カナリアはもう十分頑張ってるからね」
「えへへ……」
カナリアは擽ったそうに柔和な笑みを浮かべた。
その後、カナリアから少し話を聞いて断片的な情報を仕入れていたが、彼女が眠たそうにしていたので暫く黙っていたら、彼女は直ぐに眠りに落ちた。
やはり相当疲れていたのだろう。悪い事をしてしまったな。
僕はと言うと、実はちっとも眠くなかった。全然疲れていない。
生前の僕はお世辞にも体力があるほうじゃなかったのに、今からフルマラソンをしろと言われても頷いてしまいそうなくらい、活力に満ち溢れていた。
完全に寝付いた事を確認し、カナリアをお姫様抱っこの要領で抱きかかえ、そのままベッドへと寝かせる。
比喩では無く、本当に羽のように軽い体だ。
カナリアは全く起きる様子を見せず、ベッドの上で気持ち良さそうに寝息を立てる。
こんな小さな子一人の肩に重圧が掛かっていたのかと考えると、僕は悲しくなった。
僕はごろりと地面に横たわったが、今後の事を考えている間に、新しい一日が始まり出す時間になっていたのだ。眠気は全く無い。
「よし、ちょっと出かけてくるか」
僕は口の中だけでそう呟いて、安らかに眠っているカナリアを横目に外に出た。
目的地は決まっている。
それは、彼女から寝る前に聞いた『聖域』という場所だ。
◆ ◇ ◆
「ここが聖域のはずなんだけど……」
昨夜、カナリアから寝る前に聞きだした情報は二つ。
エーテル固定の方法と、どこか広い場所は無いかという物だ。
協力するとその場のノリで言ってしまったのは良いが、冷静に考えたら、何をどう協力すればいいのかさっぱり分からない。
ゲームみたいに『貴方のレベルアップのために、モンスターを千匹倒してください』みたいなクエストとかがあればいいんだけど、生憎そんなもん無さそうだし。
神力を溜める――カナリアと僕が強くなる方法は後で聞く予定だけど、僕は要領が良くないので、どうせ複数のタスクを同時進行など出来ない。
それにカナリアは頼りにしすぎると、頑張りすぎてしまう嫌いがある。
その辺を上手くコントロールしてあげないといけない。
なので、手始めに僕は『食事』からチャレンジしてみることにした。
仕事の無い自宅警備員だって、頑張れば家事くらいは出来るのだ。
現状そのくらいしか思いつかないのが悲しいが、おいしいご飯は生きる活力になるだろう。
そして僕の有り余る力を使えば、素晴らしい料理が作れるに違いない。
でも残念な事に、僕はまだ自分の力を完璧に制御出来ない。
万が一、暴走して家やその周辺をぶっ壊したりしたら大迷惑だ。
だから下層でどこか広い場所が無いかと聞いたら、カナリアは『聖域』を教えてくれたのだ。
カナリアから教えてもらった位置としては、ここが聖域という場所になる。
だが実際には、聖域という仰々しい名前に対し、本当にだだっ広いだけの場所だった。
この天界の地理を物凄く大雑把に説明すると、ドーナツ状の綺麗な円の形で、真ん中の穴の部分に、真っ白な三段重ねのケーキがある。日本のお城のような構造といってもいいかもしれない。
天守閣の部分が神や上級天使の住む『神域』、そこから下の部分が『中層』と呼ばれる天使族の住処。
お堀の部分が『最下層』、堀の底には下級天使たちが押し込められている。
中層以上には馬鹿馬鹿しいほどのスペースがあるのに対し、最下層はスラム街の如く、下級天使たちがすし詰めにされている。
そんな人口過密状態の最下層において、この聖域だけは何も置かれていない。
ちょっとした競技場くらいの広さはあるのだけれど、カナリアの家と同じ、綿飴みたいにもこもこした、整備されていない地面がむき出しになった土地だった。
地球でいうなら、草ぼうぼうの空き地みたいな物なのかも知れない。
聖域というには余りにも殺風景だ。
『私たちが勝手に聖域と読んでいる場所です。いつか私たちが手を取り合って笑えるような……そんな素敵な場所にしようねって、下層の皆で決めたんですよ』
不意に僕は、カナリアが昨日言っていた台詞の中に、そんなフレーズがあることを思い出した。
「鰯の頭も信心って奴かな……」
何となく嫌な気持ちになって、僕は短くなった髪をくしゃくしゃと掻く。
多分、この寒々しい場所がカナリア達にとっての『信仰』なのだ。
何も希望を持たないで生きていくのは辛いから、自分達で希望を捻り出したのだと思う。
それがどれだけ空しい物と分かっていても、未来を信じることで少しだけ安らぐのだろう。
――いつか何とかなる。
――みじめな暮らしから抜け出せる。
そんな希望が詰まった場所だから『聖域』なのだ。
まやかしでも、仮初めでも、自分達の心を守ってくれる場所だから。
「頑張らないとな……」
僕は頬を両手で叩き、気合を入れる。
カナリア曰く、エーテル固定自体は難しくは無く、飛行と同じ要領で出来るらしい。
本人の神力と想像力さえあれば、後は脳内のエネルギーを放出すれば良い。
放出とは、昨日僕がモア達相手に「吹き飛べ」と念じたあの感覚だろう。
「よし、まずは簡単な所でパンを出してみよう。ええと……パン、パン出ろっ!」
満漢全席とかフランス料理のフルコースだのをイメージするのは難しい。
僕にイメージできるのは、せいぜい一斤百五十円の食パンくらいなのだ。
「はああああああああああっ!!」
僕の裂帛の気合に呼応するように、全身が眩い光に包まれる。
よし! いける! いけるぞ!
「出でよっ! パンデモニウムっ!」
僕は片腕を突き出し、特に意味も無く謎の台詞を叫ぶ。
パンデモニウムって何だっけ。
掌から放出された光の塊が、目の前で徐々に形を作っていく。
「……何これ?」
そうして出来上がった物体に、僕は胡乱げな目を送る。
僕の目の前に現れた物は、二メートルを越える長方形の形をしていた。
角ばっているんだけど圧迫感が無く、表面はつるりとしている。
触ると何ともいえないひんやりとした感触がする。
僕のあまり豊富とは言えない知識のデータベースから、似たような食べ物を検索する――
「豆腐だこれー!?」
そう、目の前に聳え立つ、妖怪ぬりかべを白く塗ったような物体を一言で表すと『巨大な豆腐』だった。
おかしいな。僕はパンをイメージした筈なのに。
「そ、そうだ! 食パンが悪かったんだ。もっとこう、僕が食べたいと思う物じゃないと駄目なんだ」
見かけに反してやたらに軽い巨大豆腐を遠くにぶん投げる。
最初から上手く行くとは思ってないし、むしろ形を作る事に成功した自分を褒めてやろう。
偉いぞ僕。豆腐が作れたじゃないか。
よし、今度はステーキだ。ステーキ、牛肉、オージービーフ、松坂牛……
そんな僕をあざ笑うかのように、神々しい光の中から再び豆腐様が顕現なされた。
ガッデム。
「あ、あれ!? じゃあご飯にしよう! 日本人の遺伝子を構築する原初の食べ物!」
――そうして僕は、巨大な豆腐を量産していった。
していっちゃったんです。
「な、何故だ!? 何故豆腐しか出来ないんだっ!?」
三十回ほど挑戦したが、結論から言うと、豆腐しか出来なかった。
想像力が足りないのか、はたまた才能が無いのか。
僕は墓石のように並んだ豆腐の山を前に、がくりと両膝を付いた。
「この豆腐、どうしよう……」
作り続けているうちに妙なコツが染み付いてしまい、十回を越えた頃には、完全に均一な大きさの豆腐を作ることが可能な、巨大豆腐マイスターに僕は進化してしまったのだ。
せめて冷奴にでも出来ないかと、半ばやけくそ気味に齧り付いてみたのだけれど、この豆腐は異常な強度を誇り、恐らく強力な爆弾でも無ければ破壊できない。
屈強な鋼の体を持つ豆腐なのだ。
早い話、処分に困った産廃である。
「ミサキ様っ!」
「ひいっ!?」
天空からの声に、僕はびくりと身を震わせた。
「あ、カナリアじゃないか? どうしたの?」
「どうしたのじゃないですよ……! ミサキ様……ミサキ様ぁっ!」
「うわっ!?」
カナリアは目尻に涙を浮かべながら、僕めがけて急降下してくる。
慌てて僕は彼女を抱きとめた。
「私を置いていくなんてひどいです……朝起きたらミサキ様がいらっしゃらなくて、ひょっとして何か粗相をしたのでは無いかとか、呆れられて出て行っちゃったんじゃないかって、私、凄く不安だったんですよ!?」
「ご、ごめん……起こしたら悪いと思って……」
カナリアを不安にさせてしまった事に謝り、頭を撫でてやる。
すると彼女は僕の胸の中で、とろけるような表情で上目遣いで僕の目を覗き込む。
「いえ、もういいんです。そこまでミサキ様に気を遣っていただけるなんて。ああ、私は何て幸せ者なんでしょう……」
カナリアは朝起きるとなぜか自分がベッドに寝ていて、僕が居ない事に気が付くと、半狂乱で飛び出してきたらしい。そして文字通りここまですっ飛んできたとか。
「それでミサキ様、一人で何をされていたのですか?」
「え、ええと……それはね……」
僕は口ごもる。本当は美味しい食事を用意して、寝起きの彼女達にサプライズをする予定だったのに。
今の僕はというと、どう廃棄すればいいか分からない粗大ゴミを大量生産していた。
現実とはままならないものだ。
「ミサキ様、そのモノリスは……?」
「いや、これはモノリスじゃなくてね……」
カナリアは二メートルを超える豆腐が大量に並んでいる不気味な光景に、今更気が付いたようだ。
「ミサキ様……」
「はい……」
カナリアは神妙な表情で僕を見ている。
まずいなあ。彼女達の聖域を、得体の知れない豆腐で汚してしまった。
怒られても仕方ない。
僕の工場時代の癖で、こういう物はつい等間隔に並べてしまうので乱雑にはしていない。
だが幾ら整列させてもしょせん豆腐は豆腐であり、それ以外の何物でもない。
「ストーンサークル――結界をお作りになられていたのですね……」
「……けっかい?」
「こうしちゃいられない! ミサキ様、すぐに皆を集めます!」
「ちょ、ちょっとカナリアー!?」
僕が呼び止める前に、カナリアは天高く舞い上がる。
彼女の体をうっすらとした燐光が包むや否や、カナリアの朗々とした声が響く。
「下級天使たちよ! 至急聖域に集いなさい! 上級天使であられるミサキ様が、我々の大地に結界を張って下さったのです! 至急聖域に集いなさい!」
普段のカナリアからは想像もできない、威厳に満ち溢れた声が下層に木霊する。
離れているのに僕の耳元で囁いているように聞こえるし、テレパシーのような物なのかもしれない。
カナリアのその言葉が響き渡った途端、煤けた姿をした下級天使達が、我先にと聖域へと集まってきた。
みんな小学生くらいの女児にしか見えないのだが、さすがにこれだけ揃うと圧巻だ。
一体どれくらいいるのか想像も付かない。数百、数千?
広々とした聖域を埋め尽くし、皆が畏敬の念を籠めて僕と豆腐の柱を眺めている。
ざわざわと妙に熱気だった集団に囲まれ、僕は逆に縮こまってしまう。
「ミサキ様、ここは私にお任せ下さい!」
カナリアは慣れているのか、これだけの人数相手に物怖じした様子は全く無い。
ふわりと宙に浮かぶと、それまでざわついていた子供達が、固唾を呑んで言葉を待つ。
「皆の者も知ってのとおり、我々はここを聖域と定めてきました。でもそれはあくまで心の安寧のため。報われず、誰にも省みられない我らの希望として――けれど今、希望は現実となったのです」
僕は状況をまるで把握できない。
けれど周りの下級天使たちは、おおお、感嘆のため息を漏らす。
カナリアはそのまま、魂を吐き出すように熱弁を奮う。
「上級天使であるミサキ様が、我らの聖域に、御自ら精製された力の象徴――モノリスを立て、結界を張られたのです! それはつまり『この地は私のものであり、誰にも侵されない土地だ』という事! 他の天使族に穢れた土地と罵られ、侮蔑の視線を向けられてきたこの大地が、上級天使の聖域として認められたのです!」
熱狂が熱狂を呼び、会場はどんどんヒートアップしていく。
いや、本当にどうしようこれ。
ニュアンス的に、ライオンの縄張りになったから、他の連中は近寄らせないみたいな感じなんだろうけど、僕は単に美味しいご飯が作りたかっただけなのだ。豆腐が作りたかった訳でも、無論、結界なんぞを張る気も無かったのに。
「あ、あのね、カナリア……さん……?」
「もちろん、ミサキ様がお認めになられたこの聖域を、我々は死守していかねばなりません。それは並大抵のことでは無いでしょう。でも、今まではただ漠然と『希望』と呼んでいたものが、私たちの元に降りてきて下さったのです。下級天使の皆さん、どうか私に……ミサキ様に力を貸してください! この聖域を本当の聖域にするために! 我ら下級天使達の矜持を守るために! 我らにただ一人手を差し伸べてくださった、救世主ミサキ様のために!」
その瞬間、『わああああーっ!』っと歓声が巻き起こる。
もう誰も僕の話なんか聞いちゃ居なかったし、話せる状況じゃなかった。
カナリアは歓喜の涙をきらきらと輝かせ、今までの溜まった鬱憤を晴らすかのように天を仰ぎ喋り続ける。それに感応するかのように、下級天使たちも、ある者は泣き、ある者は笑い、ある者は抱き合い、思い思いの方法で、迸る感情を表現している。
誰もが、僕の作った豆腐に向かって、ありがたそうに両手を合わせ深々と跪く。
ここで『これは豆腐なんです』なんてとても言えない。
本人の意思とは裏腹に状況だけが加速していき、もう手に負えない状況になっている人をたまに見かけるけど、その気持ちが良く分かった。
ミサキ様万歳! ミサキ様万歳! という万雷の拍手を浴び、僕は実に強張った表情で、愛想笑いを浮かべながら手を振ることしか出来なかった。
その後ろでは、旭日の光を浴びて純白の輝きを放つ豆腐たちが、神々しくも燦然と輝いていた。




