01話:岬死す→ミサキ誕生
「ミサキ様、お湯加減はいかがですか?」
少し古めかしいけれど、やたらに広い石造りの浴場の中、鈴を転がすような清らかな声が僕の背中から聞こえてくる。
声の主は、透けるような銀髪を肩の当たりで整えた、十四、五歳くらいの、とても顔立ちの綺麗な女の子だ。
外国人のように見えるけれど、彼女の背中には鳩のように小さく灰色の羽根が生えていて、それが彼女が人では無い存在であることを示していた。
カナリアという名のこの少女は、まるで繊細なガラス細工でも手入れするように、全裸の僕の背中を、献身的に磨いている。
もっとごりごりやってもいいのに。
「ミサキしゃま……まるでママみたいでしゅ」
「あっ……ちょ、ちょっと!?」
僕が背後に気を取られている間に、舌足らずに喋る、これまた小さな羽根の生えた幼女が、昨日まで存在しなかった、僕の豊満な乳房に吸い付いた。
物凄くくすぐったいけれど、いやらしい感じが全くしない。ただ純粋に母親を求めるような甘え方なので、ぶん投げるわけにも行かない。
「ツグミばっかりずるい! 私もミサキ様に抱っこしてもらいたい!」
「わたしも! わたしも!」
お風呂場には、背中を流しているカナリア以外にも、複数の幼い女の子たちが居て、ミサキ様、ミサキ様と僕を取り囲んでいた。
どの子もやたら端正な顔立ちで、もしも街中に『ご自由にお持ち帰り下さい』なんて書置きと共に置いておけば、カップラーメンを作っている間に全員連れ去られているだろう。
「こ、こらっ! 駄目でしょツグミ! 申し訳ありませんミサキ様! その子たちは天使に成り立てで、まだ常識が良く分かっていないのです」
「いや、私も成り立てだし、そもそも天使の常識なんて無いんだけど……」
そう言い掛けたのだけど、カナリアは、申し訳なさと悲しみの混じった眼差しで僕を見上げる。その切羽詰った表情に、僕は思わず口をつぐむ。
「いいえ! 上級天使のミサキ様に、命令も無しに私たちが触れることなどあってはならないのです。この子は今すぐ追放するしか……」
「いやいやいや! そんなことしなくていいから!」
「……え、で、でも、本当によろしいのですか?」
「良い良い。全然構わないから! だからほら、早く済ませてくれると嬉しいんだけど……ねっ?」
「……ミサキ様はお優しいのですね」
感極まったようにカナリアは目を潤ませる。別に良い事なんて何もして無いのに、そんなに感謝されると困ってしまう。
「どうしてこうなっちゃったのかなあ……」
僕は周りに聞こえないくらいに小さくため息を吐いて、昨日まで人間の男性、岬洋介として生きていて、上級天使ミサキとなるまでの記憶を思い返していた。
◆ ◇ ◆
出来る限り大惨事を起こして死んでやろう――僕はそんな事を考えながら、昼下がりの繁華街をあても無く歩いていた。
電車に飛び込んで、ダイヤを大幅に遅延させてやろうかという天啓も得たけれど、そんな事をすると他の人が困ってしまう。
もしも妊婦さんなんかが乗っていて、中で産気づいたりしたら大変だ。僕は小さく可愛らしいものが好きなのだ。その誕生を阻むのはよろしくない。
高層マンションから飛び降りようか――事故物件になって価値が下がってしまうじゃないか。
それに住んでいる子供にトラウマを植え付けて、トマトケチャップが食べられなくなったら可哀想だ。僕はチキンライスが好きなのに。
最近まで働いていた工場長を襲うことも考えた。でも僕は格闘技なんて学生時代に体育の授業で柔道をやったくらいだ。
工場長の頭髪は寂しいけれど、その代償なのか体格はいい。逆にやり返されるかもしれないし、彼はああ見えて妻子持ちだ。成功しても奥さんや子供が悲しむかもしれない。
なかなかいいアイディアが浮かばなかった。殺人鬼の友人でも居れば相談できたのかもしれないけど、僕は友達と呼べる友達も居ない。悲しいなあ。
なるべく大惨事を起こさずに大惨事を起こす案が思いつかない。
いい年をした男が、こんな時間にこんな事を考えながら歩いているのには理由がある。ぶっちゃけて言うと仕事を首になったのだ。
原因はちょっとした事だった。先日まで、僕はある工場で作業員として働いていたが、そこの工場長とトラブルを起こした。
別に物を壊したとか、暴力を振るった訳じゃない。
工場の作業工程は非常に手間が掛かる割に、効率がとても悪い。だから僕はちょっとやり方を変えたのだ。
実際その方が手早く終わってミスも少ないし、僕以外の同僚たちもその方が良いと言ってくれた。
ところが、現場なんて殆ど監視していない工場長がそれを知ると、まるで沸騰したヤカンみたいに激怒した。
この仕事はとても大事な物で、勝手にやり方を変えてはいけないと。
そんなに大事な仕事なら、みんなでより良い方法を模索すべきでしょう。止せばいいのに、僕はそんな抗議をしてしまった。
すると工場長は余計に機嫌が悪くなり、『お前は来週から来なくていい。新しい奴を入れる』と捨て台詞を吐いて、その話は終わりになった。
――お前の代わりなんか幾らでもいる、という訳だ。
自分でも悪い癖だと分かっているのだけれど、僕は空気が読めないので、周りとよくトラブルを起こす。それもこれも、元を正せばうちのおばあちゃんのせいなのだ。
僕の両親は早くに亡くなってしまい、僕はおばあちゃんに育てられた。歳の割にとても元気で、僕のことをとても大事にしてくれた。そのおばあちゃんが、いつも笑いながら僕にこう言っていたのだ。
「お前は偉くなんてならなくて良いんだよ。そんなことよりも、困っている人の味方になってやりなさい。神様の目はごまかせないよ」
でも、そのおばあちゃんはもう居ない。僕が仕事をクビになって帰ってみたら、眠るように息を引き取っていた。
台所には作ったばかりのシチューの鍋がまだ熱を持っていて、僕の帰りを待って、一緒に食べようとしていたのだろう。
「神様の目はごまかせない、か……」
参加者のほとんど居ない葬儀が済み、僕は一人きりの部屋で自嘲気味にそう呟いた。20年間、おばあちゃんの教えが正しいと信じてきたつもりだった。その結果がこれだ。
僕自身も「お前はつまらない」と言われ続け、そうして気がつけば社会の隅へと追いやられていた。
社会が悪い、景気が悪い、誰々が悪い、色々理由は挙げられるかもしれないけれど、一言で言うと――
「僕の要領が悪かったんだなあ」
もっと上手に嘘をついて、自分を誤魔化して、酒を呑んだり趣味に走ったり、とにかく社会に迎合出来れば良かったのに。自分の馬鹿さにようやく気がついたのだ。でも、もう既に遅すぎた。
こんな単純な理屈に気付くのに、20年もの歳月を費やした。力も頭脳も何も無い僕が、今から職を探して食いつなぎ、たった一人で生きて行き、その先に何があるのだろう。
そう考えると全てがどうでもよくなった。僕はただの凡人だ、聖人じゃない。人を恨みもするし、理不尽な事があれば反発だってした。そんな僕にも非はたくさんあるのだろう。
でも、金持ちは金持ち同士で付き合うし、どれだけ悪い事をしても、平然と生きている人は沢山居る。僕と彼ら、一体何が命運を分けたのだろう。
僕の頭で幾ら考えても、答えなんて出なかった。精神的にも金銭的にも追い詰められていた僕は、まともな思考が出来なくなっていたのかもしれない。
そうして僕は、一生に一度、最初で最後の社会的アピールをしようと考えた。テレビに出てくる犯罪者とかもみんなそんな感じなのかもしれない。そのくらいなら僕もお茶の間デビューできるかもしれない。そんな馬鹿みたいな事を考えた。
でも、どうも凶悪犯罪にもセンスがいるらしく、僕はそれすらも並以下だった。結局、僕は何もできないまま自宅でひっそりと息絶えた。いい加減な生活をしてきたせいで、知らず知らずのうちに栄養失調になっていたらしい。
不思議と恐怖や後悔はなかった。僕の周りには誰もいなかったし、未練――あるいは希望と呼べる物がないからかもしれない。
――ああ、でも一つだけ後悔している事があった。
それは、生まれてから一度も格好良くなれなかった事だ。僕に力や才能、容姿とか、何でもいい、何か一つでも優れたものがあれば、僕と同じような境遇の人達を、もうちょっとくらい何とかできたかもしれない。おばあちゃんの教えを守れたかもしれない。
それが達成できず、何も出来ずに消えて行くことが、とても悔しかった。今の僕に出来るのは、僕が消えることで、世界から僕の分の維持費が浮くくらいしか思いつかない。
「もし生まれ変わることが出来るなら。ほんの少しでいいから、何かが出来る力が欲しい――」
薄れゆく意識の中、最後の最後に僕は未練がましくそんなことを考えていたが、そのまま抵抗することなく、僕の意識は闇へと落ちた。