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未熟者ですが私にも独り立ちの時は来るようでございます(1)



変わらないものなどない。

変化は必ず誰の前にも訪れる。


大きな変化を前にした時、人はそれを困難と呼ぶ。

変化を前にし、不安を覚え、孤独を覚え、そして立ち止まる。


それこそ、後輩だろうが、先輩だろうが、ゆとりだろうが、団塊だろうが。

皆、そうだ。



これは、小さな変化を前にした二組の上司と部下の、ある飲み屋での物語である。






【未熟者ですが私にも独り立ちの時は来るようでございます】









その瞬間、春日 春は息を呑んでいた。

今しがた、耳に入って来た言葉を、受け入れがたい事実を前に目を見開いていたのだ。





春日 春。

12月25日。春日があのクリスマスの日にエレベーターに閉じ込められて、約2週間が経とうとしていた。

その間に、会社での忘年会、年末年始の休みによる実家への帰省、年越し、仕事始めの社内インフルエンザ猛威事件と様々な事が彼の身に降りかかった。

特に、新年早々、社員の半数以上がインフルエンザにより仕事を休んだその日は、春日はその持って生まれたのんびりとした雰囲気を一切封印せざる負えなかった。

そんな、彼の元来染み付いた性質さえ消し飛ばせる程、春日の過ごした年始の仕事は熾烈だった。

長期休み明けという事で、会社に鳴り響く電話の数は尋常ではなく、入社して初めて迎える仕事始めの忙しさと人手不足に、春日は目を回した。


あっちへ走り、こっちへ走り。

上司である宮野に怒鳴られ、また走り、電話を受け、パソコンへ向かい、そして怒鳴られる。


と、春日の新年は忙殺のうちに既に新年初の花金を迎えていた。


インフルエンザからまだ復帰せぬ社員達の仕事を代わりに請負い、クタクタになりながらもパソコンに向かう春日に宮野は言った。


『おい、春日!お前も新年早々大変だったな!よっし、今日は俺の奢りで飲みにでも行くか!』


そう言ってニカッと笑ってみせる宮野の姿は、どう見ても春日の見た目よりも若く見えた。

そんな彼も、新年を迎えた今年、39歳を迎えるのだが、その生き生きとした行動力と時に見せる子供っぽい笑みのせいか、宮野は素で相手から“お兄さん”と呼ばれる風体だ。


そんな宮野に、春日は疲れ果てていた気持ちがヒュンと音を立てて吹っ飛ぶのを感じると『はい!』と、やっといつのも彼の穏やかな雰囲気を取り戻しながら返事をした。

宮野は誰よりも厳しく春日に接する。

しかし、誰よりも春日を褒めて導いてくれる存在だ。

春日は宮野から怒鳴られる事など怖くない。怖くないと言えば語弊があるが、怖いのは怖いのだが恐くはない。春日が最も恐い事、それは道しるべたる宮野から見捨てられる事であった。


『いつもの店ですよね?』

『おう、何でも好きなもの食えよ!連慮なんかしたらタダじゃおかねぇからな!』


いつも、春日は宮野から怒鳴られる。

ミスをするのだから叱られるのは当たり前だ。

けれど、こうして飲みにも連れて行ってくれる。

春日にとってはいつもの事。そして初めての新年。

けれど、少しだけ、本当に少しだけ宮野はいつもとは違った。


宮野が春日を連れて行く飲み屋はいつも決まっている。

「つるかめ」というその飲み屋は、二人の会社のすぐ近くにある。

しかし、すぐ近くに来る割には会社関係の人間には余り知られていないようで、春日が宮野の連れてこの飲み屋に来る時に、他の社員を見た事はなかった。

確かに表通りには面しておらず、一本路地を抜けなくてはならない為大っぴらに分かりにくいというのは同僚から見つからない理由として大きいだろう。

この店では、宮野と春日はいつもカウンター席に座る。

個室もあるのだが春日は座った事がなかったし、今日は花金という事で人が混雑している。

故に春日も今日もいつもの如く隅の方のカウンター席に座るとばかり思っていた。

しかし。


「予約してた宮野でーす」


「あ、はい。伺っております。奥へどうぞー」


「…………へ?」


予約。

という言葉に春日は己の耳を疑った。予約なんて普通しない。花金だろうがなんだろうがこの店で二人飲みをする位で予約をした試しがない。


「宮野さん、今日はカウンターじゃないんですね」


「会ったり前だ。新年早々カウンターの隅で飲んでられっか!一年の計は飲み屋での初の飲みにあるんだ!お前も社会人ならよく覚えておけよ」


「へぇ、そうなんですか。覚えておきます」


「そうそう、お前も後輩を飲みに連れて行く時は俺みたいにテキトーじゃなく、ちゃんとしてやれな」


そう言っていつもの飲み屋の、見慣れない通路を通る宮野の背中を追いながら春日はのんびりとした思考の片隅で、小さな異変に気が付いていた。

けれど、余りにも宮野がいつものように笑うものだから「そういうものか」とスタスタと後をついていく。


そして、四方を壁と襖で仕切られた個室に通され春日が「こんな所もあったんですねぇ」とキョロキョロと部屋の中を見渡していると先に席についた宮野がメニューを広げながら小さく息を吐いた。


「俺、ウーロン茶な」


「へっ?!ビールじゃなくていいんですか!?」


「……アホ。こんな疲れた体でいつもみたいにガンガン飲んでたら家に帰れなくなるっつの。こういう時は一息入れるのが俺なんだよ」


「へぇ、でも。宮野さん、どんな残業続きの時でも、しこたまビール飲むじゃないですか。俺、あんまり飲まないので何かあったらいつもみたいに送って行きますよ」


「バカ。新年早々そこまでお前にやらせねーよ。つか、お前に送らせると俺が上司の前で酔っぱらって上司に送って貰ってるように周からは見えて気まずいだろうが。お前覚えてるか?初めてお前をここに連れて来た時の事」


そう言って宮野はなんだかんだ言ってウーロン茶を譲る事はなく、ペラペラと昔の話に華を咲かせ始めた。

そう、最初に宮野にここへ連れて来て貰った時、宮野は次々と酒を飲みほして行き、結果べろべろに酔っぱらってしまったのだ。まだ宮野の自宅がどこか知らなかった春日は道中フラフラとしながらも酔っぱらう宮野の説明を頼りに必死に家へと辿りついたのだった。


「そんで、次この店来た時、店の親父に俺は言われたんだぞ。『兄ちゃん、先輩にあんまり迷惑かけないようにな』って。最初何の事だかわかんなかったけど、しばらくしてお前の事だって気付いた時は泣き笑いだったね」


「あの時は俺も帰る間際におじさんに『部下の面倒は大変だね』って言われましたもん」


「おまっ!それならその時にちゃんと否定しとけよ!俺の方が部下ですって!」


「だって宮野さん、その瞬間に吐いちゃったじゃないですか!否定する暇なかったですよ」


「あー、すまん。一切記憶にございません」


笑いながら答える春日だったが、その時、その瞬間も小さな違和感は拭えなかった。

わざわざ個室を予約した春日、酒を飲まない春日、昔話をする春日。


「とりあえず、先に注文しちゃいましょうか。春日さん」


「おう、そうだな!」


そして、ここに来てまだ一度も宮野は春日と目を合せない。

春日は明確にその事を意識していた訳ではなかったが、体中から離れないその違和感を必死に抑えながら注文をとっていった。

そして、しばらく続く春日の入社したての時の話。

笑いながらからかわれるように口にされる昔話の折、ふと宮野の言葉が止んだ。


「あ、そうだ。春日」


「はい?なんですか」


そして次の瞬間には、今まで笑っていた宮野の表情がその瞬間真剣な色に染められた。

春日は小さく息を呑んだ。今まで合わされる事のなかった視線がこの瞬間を待っていたかのように、春日と合せられた。



「春日、俺、会社辞める事になった」



唐突だった。

唐突過ぎて春日には一瞬、その言葉の音だけが耳を素通りし、意味を脳内で理解出来ずに居た。

この瞬間こそ、冒頭の息を呑んだ春日の一瞬へと繋がるのだが、春日は1拍、2拍と呼吸を置き、静かに宮野の言葉を頭の中でリフレインさせた。

“会社辞める事になった”

誰が。どうして。何故。


「(いつも通りだったのに。さっきまで、いつもと変わらない仕事終わりだったのに)」


ぐるぐると頭の中を駆け巡るそんな疑問に、春日が自分で思い浮かべた言葉に疑問を呈した。

本当に今日はいつも通りだったか、と。

いつも通りだった、と間髪入れずに返せない言葉。何故なら、今日は全然いつも通りではなかったからだ。

こんな個室の予約なんて初めてだった。

ビールを頼まない宮野さんなんておかしいと思った。

昔話ばっかりするのも不思議だった。

そして、なにより。


店に来てから全然目を合せてもらえなかった。


春日は早鐘のように鳴り響く心臓の音を抑えつけながら極めて冷静に、そしていつも通りの自分であるように振舞おうとした。


「い、いつですか?」


「んー?3末」


さんまつ。

3月末。今が1月の頭だから、後2カ月強。

早い。余りにも早い。余りにも唐突。

春日が頭の中ではじき出されたリミットに目の前が暗くなるような感覚に陥った時。


「けど、まぁ有給消化もあるし……あんまし3月は会社には来ねぇな。実質2末と考えてもらっていい」


「2月、末」


その言葉にそれまで耐えていた春日の感情が一気に洩れそうになった。

しかし、春日はそれを寸での所で抑え込んだ。こういう時感情の起伏が他人よりも穏やかで良かったと心から春日は思った。

しかし、このまま此処に居たら危ない。

春日は自分の感情の高ぶりを悟ると、スクリとその場から立ち上がった。

そんな春日を宮野は驚いたような目で下から見上げていた。


「……宮野さん。すみません、ちょっとお手洗いに行ってきます」


「っあ、おい!ちょっ!」


宮野の呼びとめも聞かず春日はそのまま顔を俯かせて個室を出て行った。

出ていったのに通りから微かに聞こえる嗚咽。そして続いて、「ひぃいん」という情けない泣き声。その声に手を伸ばした格好のまま固まっていた宮野は思わずフッと笑ってしまった。

泣くだろうな、とは思っていた。それは自惚れや過信などではなく、確信だった。

あの、どこかのんびりした見た目だけでいえば自分よりも年上に見える、まだ頼りない新人。自分の言う事を何の疑いもなく信じ、そして後を付いて来る部下。


だから、こうしていつもと違うシチュエーションを用意した。

どんなに泣いても、いいように。


「何のために個室をわざわざ予約したと思ってんだ」


そう小さく呟きながら笑った宮野だったが、そのまま耐えるように目頭を押さえこんだ。

どちらの為に用意された個室かわかりゃしない。そう、抑え込んだ目頭の下で、またしても春日は小さく笑う。

大丈夫だ、しばらくあの後輩は帰って来ない。だから、大丈夫だ。

そう、静かに自らに言い聞かせたが、まだメニューの来ない現状を思い出し必死に唇を噛みしめた。




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