第八章 手紙
白い乗用車がカーブを曲がりきれずに、こちらに向かって勢いよく突っ込んできた。しかし僕の体はまるで鉛のように重くなり、まるで動かすことができなかった。どうすることもできずに恐怖に怯えていると、僕の目の前で更なる悲劇が襲い掛かる。全身の筋肉が引きつり、ビクッと体が揺れたところで急に現実世界に引き戻された。
目の前にあるテレビ画面では、料理番組が放送されていた。どうやらテレビを見ている途中で、うたた寝をしてしまったらしい。
またあの夢か……。
僕は足の裏まで汗で濡れているのを感じ、炬燵からもぞもぞと足を出した。
「マサト、大丈夫? うなされていたよ」
台所から、河合サワコが姿を見せた。
「あ、御免。来てたんだ」
「一昨日、御飯作りに行くって言ったでしょ。忘れてたの?」
「いや、もちろん覚えているよ。ただ少し眠くなっただけなんだ」
「もー、最近寝てばっかり。おじさんみたい」そう言うと、サワコは振り返り台所に戻っていった。
それはそうだ、僕だって三十歳過ぎた立派なおじさんだ。若い頃のようにはいかないこともある。ただ三十歳代にしては、体力の低下が最近著しくも感じていた。時々眩暈がするし微熱が続いたりしている。仕事をしているときは集中しているせいか、それほど気にならないが、一週間の疲れが溜まった土日などは風邪のような症状で寝込んでいることが多く、デートの途中で具合が悪くなったりすると、サワコに「また?」と嫌な顔をされることもしばしばだった。
僕は眠い目を擦りながらゆっくりと立ち上がり、歩きながら台所を覗き込んだ。
「おいしそうな匂いがするね」
「当たり前でしょ、私が作ってるんだから」サワコは鍋を見ながら、少し嬉しそうに言った。
だが最近、なんだか味覚がおかしい。甘味の感じ方が、鈍くなったような気がする。そのせいで、サワコの作る料理が美味しいのかどうかは本当はよく分からなかったのだが、人の作ってくれた料理というのは、ただそれだけでとても美味しく感じられた。
子供の頃に両親を失ってからは母方の祖父母に育てられていたが、僕が高校に進学した後、祖父母共に相次いで亡くなってしまい、それ以来家事全般は僕がやってきていた。そのためそれ以降は、人の作った料理を食べる機会というのが極端に少なかったのだ。
「もうすぐできるから、テーブル片付けてくれる」
「今日は、何を作ったの?」
「鶏肉と大根の煮物。好きでしょう、和食」
「そうだね。好きだよ和食は」
僕はテーブルの上の雑誌とテレビのリモコンを片付けて、冷蔵庫から緑茶のペットボトルを出しグラスに注いだ。
サワコはでき立ての煮物を盛った大きな器を、テーブルの上に置いた。
「ご飯は普通で良い?」
「うん」
僕は頷きながら、煮物の大根に手を伸ばした。
「ああ、うまそうだね」
「こらっ! つまみ喰いしてないで手伝ってよ!」
ご飯を持ってきたサワコは、まるで子供を叱るように言ってきたので、僕は仕方なく台所に行き煮物と焼き魚とサラダを茶の間に運んだ。
「鯖だ」僕はそう言って鯖の塩焼きをテーブルに並べた。
僕は魚があまり好きではなかった。そのことはサワコも、勿論知っている。ただ彼女の家では、魚料理が食卓に欠かせないものだということも僕は知っていた。
「文句あるの?」
味噌汁の入ったお椀を二つ持ってきたサワコは、少し苛立ったようにお椀を二つとも自分のところに置いた。
それに気が付いた僕は「いいえ。鯖は好きです」と言って、サワコのところに置いてある味噌汁に手を伸ばした。
「魚はおいしいわよね」
僕はそれに頷き「いただきます」と言うと、サワコも「いただきます」と言い、味噌汁のお椀を手に取った。
僕もそれに合わせて味噌汁をすすったのだが、味が極端に薄く感じた。おかしいなと思った僕はサワコの顔を窺ったのだが、彼女はおいしそうに味噌汁を口にしていた。
まいったな。さらに味覚が鈍感になっているようだ。
「どうしたの、少し味が濃かったかしら?」
僕が顔をしかめていると、サワコが心配そうに聞いてきた。
「いや、おいしいよ」僕はそう言って味噌汁をもう一口すすった。
「そう。あ、そうだ。来週、グランモールに行かない?」サワコはお椀をテーブルに置き、そう言った。
「え、いいけど。買い物?」
グランモールというのは、一昨年前、隣町に出来た大型の商業施設のことだ。
「見たい映画があるの」
「映画か、そういえば久しく見てないね」
最後に劇場で映画を見たのはいつだったろうか。記憶にあるのは確か、宇宙からの侵略者と空軍が戦うSF映画だったような気がする。
「じゃあ、また来週の土曜日車で来るね」
「うん」
サワコは嬉しそうだった。そういえば彼女と付き合ってから、何処かに連れて行くということを、僕はあまりしていなかった。彼女も自分から何処かに連れて行ってなどとは、あまり言うタイプの人間ではなかったので、結局近くで買い物をしたりお互いの家を行き来する程度の付き合いしかしていなかったのだ。
サワコは、僕みたいな男で本当に満足しているのだろうか?
翌日、昼休み中に食事をしていると突然携帯電話のバイブレーターが震えた。平日のこんな時間に誰からだろうと思い画面を見ると、西嶋エミと表示されていた。
「はい、もしもし」
「もしもし、お兄ちゃん、元気?」
妹は地元の高校を卒業後、東京の大学に進学してそのまま東京で就職していたのだが、僕の具合が最近あまり良くないということを話していたので、心配なのか時々こうして電話を掛けてきてくれる。
「ああ、元気だよ。どうかしたのか?」
「御免ねこんな時間に、突然思い出したんだけど、今年はおじいちゃんとおばあちゃんの十三回忌だよね」
「そうだな。亡くなったのは僕が十六歳の時だったから、今年で丁度十三年目だ」
「やっぱり」電話の向こうで妹が、何かを考えるように唸った。
「七回忌の時もそうだったけど、法要はともかく、墓参りくらいはしようか」
「うん、分かった。それじゃ、近いうちにそっちに帰るから」
「帰る日が決まったら連絡してくれ」
「じゃ、また」
僕は携帯電話の終了キーを押した。
そうか、もう十二年も経つのだな。
僕が高校一年の時、祖父と祖母が相次いで亡くなったため、祖父母の年回忌などは一緒にやっていた。
祖父が亡くなった翌月、祖母は病院で後を追うように亡くなったのだが、祖母は病床で僕に対して何度も謝っていた。
それは母が事故で亡くなった後に、祖母が話してくれたことについてのことだ。
今では珍しい話でもないのだが、母は結婚する以前に僕のことを妊娠していたらしく、そのことが祖父の逆鱗に触れ父と結婚することは勿論、出産することもさえも頑なに反対されてしまったのだ。それでも僕のことを産みたかった母は、断固として祖父に反論したのだが話は平行線を辿り、どうしても産むというのなら、親子の縁を切るとまで言われてしまったらしい。
祖父も本気でそう言った訳ではないのだろうが、売り言葉に買い言葉で、結局母は父と駆け落ちのような形で別の地に移り住むことになり、そしてその地で僕が産まれたのだ。
新しい土地での生活もそれなりに幸せに送っていたらしいが、それから何年かの月日が経ちお互い熱も引いた頃、父は里帰りすることのできない母を不憫に思い、母と僕を連れて改めて母の実家に頭を下げに行ったというのだ。
父は祖父に土下座する覚悟して母の実家に行ったのだが、祖父は顔を合わせるなり酷いことを言ってしまったと逆に謝り、頑なに産むことを反対していた僕のことを見ると、涙を流して抱きしめたそうだ。これはまだ、妹が産まれる前の話だ。
僕はそんな話は、聞かされるまで知らなかったのだが、祖父が母に僕を産むことを反対したのについては正直どうでも良いことだった。だって僕は今こうして産まれ生きているのだから。
しかし祖母は、良心の呵責に耐えられなかったのか何度もそのことを謝った。
「そんなこと気にしていないよ」
そう言ったが、それでも祖母は死ぬ直前まで何度も何度も謝った。
「大丈夫だよ。気になんかしてないよ。じいちゃんとばあちゃんには感謝しているよ」それは嘘じゃない。本当にそう思っていた。
祖母は最後にそれを聞くと、事切れるように息を引き取った。
そうして保護者を失ってしまった僕は、その後しばらく茫然自失の生活を送っていたが、それから五十日目、何かが吹っ切れて高校に退学届けを提出した。もちろん、先生には反対されたが、僕は妹を養うために働きに出ると決心したのだ。祖父母が残してくれた貯蓄も残っていたのだが、いつ使い切ってしまうかもしれないし、妹を大学まで通わせるとなると、恐らく今の財産では足りないだろう。
就職先については何の当てもなかったのだが、たまたま訪問した小さな工場で運良く働かせて貰えることになった。
最初の何ヶ月間は正直、肉体労働に身体がついていかずに大変だったが生活のため、そして妹のために頑張った。いや妹のためというよりは、むしろ妹がいたおかげで僕は頑張れたのかもしれない。父が失踪し、母と祖父母が亡くなり、これで妹までいなかったら弱い僕は生きる希望を失い、自らの命を絶ってしまっていたかもしれない。
この広い世界にたった一人だけだが、僕には家族がいるのだ。その時、僕は一人じゃなかった。
そして次の土曜日、家の前に車が停まる音がして、大きくクラクションが鳴った。僕はサワコが来たことに気が付き、玄関を出た。
「やあ、天気が良くないね」
薄暗く重苦しい雲が、空一面を覆い隠している。
「大丈夫よ。映画は室内で見るものだから」サワコは運転席の窓から言った。
なるほど確かにそれはそうなのだが。
僕はサワコの言葉には反論せずに、助手席に乗り込んだ。
「運転変わろうか?」
一応儀礼的にそう聞いてみたが、サワコは「いや、いい。私が運転する」と言って断られた。
サワコはこの買いたての車を、まるで我が子のように大事にしていて、誰が頼んだところで運転させてはくれないのだ。
車は僕の家の前を出発すると、幾つかの路地を曲がり幹線道路に出た。この道を約二十kmほど下っていくと、目的の商業施設グランモールがある。
「田舎は嫌だね。買い物するのにもわざわざ車で出掛けなくちゃいけないから」
僕は助手席の窓から、田園風景を眺めて言った。
「そういえば今度、県境の大黒岩の近くに新しくショッピングセンターを建設するって噂だけど」
「うそっ?」
僕は何であんな山の中に、という気持ちでサワコの方に目をやった。
「あの辺りの山を削って、ニュータウンを造る計画があるらしくて、それと一緒に商業施設も建設するって聞いたんだけど」
サワコは真っ直ぐ前を向いてそう言った。
「あそこに住宅地ができるなんて、ちょっと想像がつかないな」
「確かにね。人口二万人の町に、そんなもの造って住む人がいるのかしら」
車は田園地帯を抜けると、長いトンネルに侵入した。オレンジ色のライトが等間隔で車の中を通り過ぎていく。
運転中トンネルに入ると、サワコは妙に無口になる。トンネルの中では、運転するのがとても緊張するらしい。僕もそれに合わせて、黙ってトンネルが終わるのを待った。
そしてしばらくすると車はトンネルを抜け出した。目の前が明るくなり、サワコは緊張から解けたように肩の力を抜いた。後は、この道の先にある一級河川が隣町との町境だ。
車が大きな橋を渡り、田園地帯から住宅地を越えていくと、左手にそのグランモールが見えてきた。
僕たちはやたらと広い駐車場に車を停めると、映画館のある中央の建物に向かった。このグランモールは映画館とレストランのある本館と、輸入雑貨や衣料品を扱う西館、それとCDや電化製品、各種イベントなどを行う東館の三つのエリアに分かれていた。
本館三階にある映画館前までやってくると、入り口には現在公開している映画の看板が幾つか並んでいた。
「どの映画観るの?」
「この映画」
サワコが指差したポスターは、何かと話題になっている青春恋愛映画だった。
「ああ、これか……」
「こういう話は嫌い?」
「いや、興味あるよ。丁度観てみたいと思っていたんだ」
「それなら良いけど」
サワコはそう言うと、僕の手を引き映画館の中に入っていった。
映画はだいたい僕が予想した通りの内容だった。とはいえ決してつまらないものではなかった。主人公の不幸があるからこそ成立する感動の物語なので、ストーリーに入り込みやすい女性などは好む内容だろうが、物語を客観的に観てしまう男性はもしかしたらチープなストーリーだと感じてしまう人もいるのではないだろうか。
物語はいよいよ佳境を迎え、隣に座るサワコが鼻をすすった。
やはり女性はこういった物語が好むようだ。まあ、泣ける映画イコール面白い映画という式にはならないかもしれないが、つまらな過ぎて泣くことはないだろうから多分、好きな物語だったのだろう。
エンドロールが流れ始めた時、僕はふとサワコの顔を見た。彼女はまだ物語に浸っているようで銀幕をじっと見つめていた。あまりに真剣に見つめているので、もしかしたらスタッフ全員の名前を覚えようとしているのではないかとも思えたが、しばらく見ているとこちらに気が付いて「感動しちゃった」と小さな声で囁いた。
上映が終わり、館内に明かりが灯った。周りの人間が立ち上がる中、僕も席から立ち上がろうとしたのだが、どうも足元が覚束ない。半分ぐらい腰を上げたところで、結局立ち上がりきれずにまた腰を下ろした。
「どうしたの、また具合悪いの?」
「いや、大丈夫」
またという言葉に敏感に反応した僕は、足腰を踏ん張り、何事もなかったかのように立ち上がって見せた。
映画館を出た僕たちは、サワコの買い物に付き合うため西館に向かって歩き出した。
「具合が悪いんだったら、今日はもう帰る?」
当初の予定としては、今日は映画を観て、買い物してから食事をして帰るはずだった。
「いや、別に平気だよ」僕はぎこちなく歩きながら言った。
「平気じゃないでしょ、そんなふらふらなのに」
「だってサワコ、またデート中に具合が悪くなったって思っているんだろ」
「思ってないわよ、身体のことはしょうがないでしょう。ちゃんと病院に行って診察してもらいましょう」
「いいよ、病院なんて。どうせいつもの微熱なんだから」
「いつも、微熱が続いているから問題なのよ」
その時、突然僕たちの上空で雷鳴が轟いた。
驚いた僕たちが曇った空を見上げると、朝から空に留まっていた湿り気を含んだ雲が、とうとうその重さに耐え切れなったように、ぽとぽとと大きな雫を地表に向かって落としだした。
「ほら、雨も降り出したことだし、もう帰りましょう」
サワコは建物の屋根のあるところに駆けていった。しかし僕は雨が一気に強まっていく中、田んぼの案山子みたいに、そこに呆然と突っ立っていた。
「マサト!」
サワコは雨を凌げるところで、鞄から折り畳み傘を取り出し広げ、そしてまた僕のところに走ってきた。
「風邪ひくから帰ろう」
激しく降り出した雨が、あっという間に道に水たまりを作った。小さい折り畳み傘では二人分の雨は防ぎきれず、サワコの左肩と足元はぐっしょりと濡れていた。
しばらく黙っていたが溢れる感情が抑えられなくなり、僕は震える口を開いた。
「サワコ。本当は僕のことが、好きじゃないんじゃないのか?」
僕はずっと不安だった。僕が一方的に、サワコのことを愛しているだけなのではないかと。
それに対してサワコは、困惑とも悲嘆ともとれない表情を浮べた。
「どうして、そんなこというの?」
その言葉が、鋭利な刃物の様に僕の胸へと突き刺さった。
僕はどうしてそんなことを言ったのだろうか? そんなこと口にするつもりはなかったのに、気が付けばそれはごく自然に僕の口からそう発っせられていたのだ。
「ずっと、思ってたんだ。僕はサワコにとって本当に必要な人間なのかって。僕よりももっと相応しい人がいるんじゃないのかって」
「何でマサトが私の好きになる人を決めるの? 私が好きな人は私自身で決められるから」
サワコがそう言うと、お互いしばらく沈黙が続いた。
雨は一層激しさを増し、グランモールの中は休日とは思えないほど人がいなくなってしまった。
「……私、帰るね。悪いけどマサトは電車で帰って」
サワコはそう言うや否や、折り畳み傘を僕に押し付けるように渡し、土砂降りの中駐車場に向かって走っていった。
僕は黙って、その後ろ姿を見つめた。追いかければまだ間に合うかもしれない。そう思ったのだが、足が氷のように硬く冷たくなりその一歩を出すことがとうとうできなかった。
僕の言った不用意な一言で、この恋愛が終わってしまう気がした。それはとても悲しい出来事のはずなのに、何故だか僕の心は少しだけほっとしていた。恐らく僕が一方的にサワコのことを愛しているのではないかという疑念を抱く必要がなくなるからかもしれない。恋愛が終わってしまえば、もうそんなことに怯える必要はないのだから。
天高く再び稲妻が光った。辺りは雷の音と雨が地面を叩きつける音しか聞こえなくなっている。
僕はこんな時だというのに心に安堵感を覚えている自分自身が、滑稽に思えてならなかった。
「全く、酷い雨だな」
大雨の降る中、ようやく動き出した足で僕はよたよたと駅へ向かって歩いていった。
その日の夜、家に帰ると留守番電話が録音されていることに気が付いた。
僕はサワコからだと思い、僅かにためらった後、赤く光る再生のボタンを指で触れた。電話のスピーカーから何秒間かの沈黙が流れたその直後「どうして……」とサワコは一言だけ言ってメッセージはすぐに切れてしまった。
もうこれまでなのかな……。心は安らいでいるはずなのに、何かが満たされない。果たして人が生きていく中で、全てが満たされることなどあるのだろうか。
その翌週の土曜日、今まで以上に倦怠感を感じた僕は、やはり医者に見てもらったほうが良さそうだと思い、町の総合病院まで出かけることにした。
病院で診察と簡単な検査を済ませた。結果は二週間後に出るということだったので、そのまま家に帰るとまた留守電にサワコからメッセージが残されていた。
内容は、もう別れて欲しいということだった。
お互いに結婚だって考えていたはずなのに、なぜこんなことになってしまったのだろうか。僕は布団に包まって無理やり瞼を閉じた。
それから何度かサワコに電話を掛けてみたのだが、彼女の決意は固いようで僕からの着信を取ることはなかった。
結局サワコとは一言も話せぬまま二週間が過ぎた頃、病院から再検査が必要になりましたと言われた。血液検査に尿検査、レントゲンに心電図、超音波での検査などの様々な検査を行った。大げさな検査だなと思いつつも、不謹慎だが、どうせなら重い病気にでもなっていて欲しいと思っていた。入院してサワコに心配して欲しいなどと、子供じみた考えを思い浮かべていたのかもしれない。
そして数日後、再検査の結果を聞きに病院に行くと、担当の医師は僕に淡々とこう告げた。
「残念ながら病状が、かなり進行してしまっているようです。現段階で科学療法による延命治療を行ったとしても、余命は持って後一年です」
「えっ?」
医者は確かに余命が後一年と言ったのだが、僕の脳はそれを瞬時に理解することができなかった。いやむしろ理解しようとしなかっただけなのかもしれない。
その後、医者は僕の病気について詳しい話をした。専門用語を並べられて何を言っているのかさっぱり分からなかったが、どうやら血液の病気らしい。すぐにでも入院しなければいけないと言われたが、生憎その病院のベッドは満床で違う病院を紹介された。しかしその時僕は何を考えていたのか紹介されたその病院には行かず、家の方角へとぼとぼ帰って行った。
余命は持って後一年……。
時は十一月の末で、町にはもう既にクリスマスソングが流れていた。浮かれている町中を僕は一人、医者に言われたそのリアリティーのない台詞を心の中で何度も反芻しながら呆然と町を歩いた。重い病気だったら良いのに、などと考えていた罰が当たったのかもしれないな。
真っ直ぐ前を向くと、道路の向こう側がなんだかぼやけて見えた。乾燥する季節だというのに、霞がかかっているのだろうか? 町を彩る華やかな電飾が、滲んで広がり花火みたいにキラキラと輝いて見えた。
僕は頭を左右に大きく振った。これは何かの間違いに違いない。医師に余命宣告されたことは、まぎれもない事実だと分かっていたのだが、今の僕には唐突に訪れた死をとても受け入れることができず、根拠のない否定でその辛い現実から逃げ出していた。
それから僕は死の事実を告げる病院には、近づくことをしなくなり、サワコのことも考えないようにしてただ仕事に没頭した。
余計な気は使わせたくなかったので、勤めている職場には病気のことは隠して働き続けた。しかし病気による激しい疲労感と不安定な精神状態は、日常生活に支障をきたし始め、身体は疲れているというのに、夜も碌に眠ることができなかった。
ある日僕が、仕事帰りに夕御飯の買い物をしようとスーパーマーケットに立ち寄った時のことだった。買い物を済ませ表の駐車場に出たところでふと夜空を見上げると、一面に広がる漆黒の中、東の空に初冬の月が浮かんでいるのが見えた。その不気味に光る真円の月は、僕の死を嘲笑いお前にはどうすることもできないのだと、そこから見下ろしているかのようだった。暗くて寒い夜が、またやってくる。
僕はその大きな満月から、逃げだすように走りだした。しかし月はどこまでも僕を追いかけてくる。
夜の象徴が追いかけてくる……。僕は病気じゃない。僕はまだ死にたくないんだ。
僕は月から逃れようと、スーパーマーケットの前の通りを駆け出したが、その角にある地方銀行の前まで来たところで目の前が急に真っ白になり、走っている途中でそのまま前のめりに倒れてしまった。
地面に横たわり意識が朦朧とする中で、何者かが駆け寄ってくる音が耳に響いた。
「ちょっとあなた! 大丈夫!」
薄っすらと遠くの方から、そんな声が聞こえてくる。
僕の意識が途切れそうになった時、近づいてきた人の両腕が僕を優しく包み込んだ。その瞬間、僕の意識はすっと元に戻り、目を開けると目の前には四十代ぐらいの女性の姿があった。
「……ありがとうございます」
僕は介抱してくれている女性に礼を言うと、その女性は酷く驚いた表情で僕の顔を見ていた。
「あ、あなたは……」
正に信じられない、といった表情だった。
僕は身を起こして、その女性のことを見た。エキゾチックな服装からすぐに、占い師だということが分かった。いつも銀行の前で夜、酔っ払いなどを相手に占っている人だ。
「あなた、私のことを覚えている?」
その言葉に、今度は僕が驚いた。ここで占い師をやっている人だということはすぐに分かったが、全く面識のない人間だったからだ。しかし助けてもらった手前、質問を無下にもできず、一応過去の記憶を辿ってみた。しかし僕の記憶の中にその女性のことはあらず、ただ静かに首を横に振った。
占い師はそれを見ているのかいないのか、更に不可解な質問してきた。
「あなたはもしかして、本当に生きているの?」
言っている意味が全く理解できなかった。本当に生きているのとはどういうことだろうか? なんだか僕はこの占い師のことが恐ろしくなり、そこから立ち上がると逃げるように走り出した。
「ちょっと、待ちなさい!」
僕はすぐに路地に入り込み家と家の隙間に身を隠して、追いかけてくる占い師をやり過ごそうとした。
「はぁ、はぁっ」
少し走っただけなのに、激しく息が切れてしまう。しかし占い師はここまで追ってはこないようだっ たので、呼吸が落ち着くのを待ってからそこを抜け出た。
一体何だと言うのだろうか。あの占い師は、あなたはもしかして、本当に生きているの? と聞いてきた。僕のことが死んでいるようにでも、見えたということだろうか?
「ふっ」僕は何だか可笑しくなって鼻で笑った。占い師の言葉が可笑しかったんじゃない。医者に余命宣告をされているというのに、いつまでも自らの死を否定している自分が可笑しくて堪らなかったのだ。
やはり病から逃れることはできないということか。僕がどれだけその死を否定しようとも、病は僕の身体を蝕み、寿命は今も確実に減っている。
僕は薄暗い路地を歩きながら考えた。人は余命一年と言われた時、何をするものだろう? 好きなもの食べて、好きなもの飲んで、やりたいこと全部やって死ぬのかな。それとも病院のベッドの上で、最後まで希望を捨てずに病魔と闘うのだろうか。
寒風吹き荒ぶ空の下、僕は苛立ちを抑えきれず、飲食店の裏に置いてあった青いポリバケツを思い切り蹴り飛ばした。中身が入っていなかったポリバケツは、乾いた音をたてて遠くまで転がっていった。
まるで三流映画のワンシーンのようだった。
その日の出来事を境に、僕は死に対していくらかは受け入れられるようになったが、今度は逆に何故僕が死ななければいけないのかという疑問が頭の中を駆け巡るようになっていた。僕だって働いている以上、世の中の役にだって少しは立っている。死ななければいけないような罪は犯してはいない。僕はこんな答えの出ない問いに、激しい苛立ちを感じていた。その苛立ちは仕事や私生活にも及び、仕事をしていても病気による不安定な精神状態の性で失敗が増えていき、そのくせに後輩の些細なミスは口うるさく叱るようになっていった。
仕事ができないのに口だけはうるさい先輩からは、徐々に後輩も離れていき勤務中は誰も僕に近づかなくなってきた。ただ上司である工場長の山口は、そんな僕のことを気に掛けてくれているようで時々食事に誘ってきたが、それすらもうっとおしく感じた僕は、適当な用事を見繕ってその誘いを断り続けた。
僕は仕事が終わり家に帰ると、少しだけ食事を摂って小一時間ほどしたらすぐに布団の中に入る。最近はそんな生活だった。しかし死への恐怖からなのか夜は中々眠ることができず、いつも掛け布団を頭まで被って布団の中で極度に怯えていた。
「こんなに早く死にたくない……、もっと生きていたい……」
僕は布団の中で死神と戦っている。心臓が氷の如く冷たくなり、体中に冷水のような血が駆け巡る。あまりの寒さに全身の皮膚から鳥肌が立ち、ガクガクと震える。命は永遠じゃない。それは母が亡くなった時に分かっていたはずなのに。
僕の死が確実にそこまで近づいてきている。
怖いよ父さん、死にたくないよ母さん……。
今、寝てしまったとして、明日の朝必ず起きることができるという保障が、今の僕にはないのだ。
そうして布団の中で死の恐怖に震えていると、静寂を破るように突然携帯電話の着信音が、狭い部屋に鳴り響いた。
肩の筋肉が一瞬硬直し、少し経って布団から首を出した僕は、鳴っている携帯電話を見つめた。
「サワコ?」
僕はこの電話が彼女からの着信だと思い、着信の表示も見ずに急いで電話を取った。
「もしもし」
「あっ、お兄ちゃん?」
サワコからの着信だと勘違いしていた僕は、電話口から妹の声が聞こえた時、状況がうまく理解できずに言葉を失ってしまった。
「もしもし、お兄ちゃん聞こえてる?」
「ああ、御免、聞こえているよ」
ようやく自分で勝手に勘違いしていたことに気が付き言葉を返したのだが、落胆の色までは隠せなかった。
「元気ないね。また体調が良くないの?」
「……いや、大丈夫だよ」
「そうなんだ、ふーん」
妹にはまだ僕が医者に余命宣告されたことは言っていなかった。余計な心配はさせたくないから、恐らくこれからも言うことはないだろう。
「何?」僕は聞いた。
「えっ?」
「何か用があって、電話を掛けてきたんだろ?」
「うん、そうなの」
何だか電話の向こうで、妹が浮き足立っているのが分かった。
「何かあったのか?」
「あのね、実はお兄ちゃんに会って欲しい人がいるの」
会って欲しい人。そこまで言われれば、勘の鈍い人間でもさすがに気が付く。
「……彼氏か?」僕の心の中で、だんだん苛立たしい気持ちが芽生えてきた。
「うん」
東京に住んでいる妹が、わざわざその彼氏を田舎にいる僕に会わせたいということは、どういうことなのか考えてみた。
「結婚を考えているのか?」
僕は苛立ちを抑えながらそう聞くと、妹は嬉しそうに「この間、プロポーズされたの」と言った。
僕は思わず電話口で「ふざけるな!」と叫び、更にこう続けた。
「お前に彼氏がいるなんて、今日初めて聞いたぞ! 挨拶に来るのなら、まずは結婚を前提に付き合っていることを報告するのが先だろう。そんなけじめも付けられないような人間と付き合っているんだったら、中途半端にわざわざ挨拶なんか来なくても良い! 勝手に付き合って、勝手に結婚しろ。僕はもうエミの保護者じゃないんだ!」
「えっ?」妹は驚いた。
僕が妹に対し、こんな理不尽な怒り方をしたことは今まで一度もなかった。
「けどね、どうしてもお兄ちゃんに会って欲しいの」
「うるさい! いい加減にしろ!」僕はそう言うと、一方的に電話を切りそのまま電源を落として、再び掛け布団を頭から被った。
何でこんな言い方をしたのだろう。僕の中で芽生えていた親心のようなものが、妹の恋人を認めたくなかったというのだろうか。それとも未来のある妹の人生に、嫉妬でもしているのだろうか。今の僕は、それを判断することができないくらい、意識が朦朧としていた。
それからは妹からの連絡もなくなった。まあ、当然の報いだろう。
日が経つにつれ、僕の苛立ちは増していき、激しく心が荒れていった。
外を歩くだけでも、僕の苛立ちを募らせるものは山のようにある。道幅いっぱいに広がって歩きながら、こちらを避けようともしない学生集団に苛立ち、当然のように、歩道を走り抜ける原付に苛立ち、携帯電話でメールを打ちながら、自転車に乗っている人を見ただけでも苛立ちを感じた。
ある日の夜、トイレの電球が切れてしまい、あまり外には出たくなかったのだが、仕方なくコンビニエンスストアまで買いに行くことにした。
「いらっしゃいませ」機械の自動音声が響いた。もう遅い時間だったので他に客もおらず、ただレジカウンターの前で若い男性店員が二人突っ立って笑いながら会話を楽しんでいた。僕はそのレジカウンターの前を通り過ぎたのだが、まるで挨拶をするのは音声装置の仕事だと言わんばかりにその店員たちは、目の前の客の存在を無視して大きな声で談笑を続けていた。
しかしまあ良い。僕は電球さえ買えればこんな遅い時間でもない限り、コンビニエンスストアなど利用しないのだ。僕は手早く棚から自分の買うべき電球を手に取り、レジに持っていくと、そこでようやく店員が口を開いた。何と言ったのかは分からない。恐らくいらっしゃいませと言ったのだろう。
右にいた金髪の店員が無機質に電球を掴み取り、バーコードを読みとった。レジスターに値段が表示されると、左にいた店員はそれを読み上げた。
「百六十八円です」
それは辛うじて聞き取れた。というよりも目の前にその金額が表示されているから、そっちで理解しただけなのかもしれない。僕はお金を出そうと財布を開くと、どうも小銭がなかったので一万円札を店員に渡した。
「一万円かよ」
左にいた店員が履き捨てるようにそう言った。始めはどういうことか分からず、少し考えてしまったのだが、千円以下の商品を買う際は一万円札で支払ってはいけない。という法律が国会で可決された話は聞いたことがない。
「どういうこと?」
僕は左に立つ店員の顔を睨んだ。二十代前半くらいの若い男で、バサバサの髪が何かを威圧するように放射状に伸びていた。その男は僕の質問に何の反応も示さず虚ろな目でレジスターを操作している。ふと違う視線に気が付き右にいる金髪の店員を見ると、電球を袋に詰めながらニヤニヤと笑ってこちらを見ていた。その金髪の店員の顔は、にやつきながら僕にこう告げる。文句があるなら買わなくても良いんだよ。こんな夜中に電球が買えるだけでもありがたく思え。
僕は無性に腹が立ち、金髪の店員の顔を覗き込んだ。しかし面倒なことは御免だとばかりに、すっと目を反らした。しかしそれだけではこの苛立ちは抑えることができない。
僕は再びバサバサ髪の店員を睨んだ。虚ろで覇気の感じられない目が、釣り銭の札を数えている。釣り銭を数え終わり、店員がそれを渡そうと手を伸ばした瞬間、僕とその店員の目が合った。
「はい?」
その店員の一言に、僕は瞬間的に反応し、釣り銭を乗せた手を上からレジカウンターにバチンと叩きつけた。
小銭がばらばらと下に散らかり、札がカウンターの上にはらはらと落ちた。
「何なの、一体?」バサバサ髪の店員は、放射状に伸びた髪を僕に近づけて睨み返してきた。
「何でなのか、分かんないのかよ!」
僕が一際大きく言うと、裏のバックヤードからこの店の責任者らしき小柄な中年の店員が現れ、小走りでレジカウンターに近づいてきた。するとレジカウンターにいた二人の店員は、中年の店員にボソッと「休憩入ります」と言い残し、ふてぶてしい態度でバックヤードに消えていった。
中年の店員はそれに対して何も言わずに、レジスターの画面に表示されている釣り銭の金額を僕に渡して深々と謝罪した。
「何があったかは分かりませんが、本当に申し訳ございませんでした」
何だか、この責任者と思われる中年の店員がとても哀れに思えた僕は、電球と釣り銭を受け取り黙って店を出ていった。
「はぁ……」
溜息が外の冷たい空気に触れ、白い煙と化した。
哀れなのは僕の方か……。
なぜ僕は、こんなふうに苛立たなければいけないのだろう。幼い頃は、こんなことで苛立ったりはしなかった。それが理不尽な文句だったとしても、むしろ何か自分に非があったのではないかと考えていただろう。年を取って温厚になるならともかく、なぜゆえにこんなにも、肝が小さくなってしまったのだろうか。病が心までも蝕んでいくのが、自分でも良く分かった。
無駄に長く生きるよりも、僕はもう死んだ方が良いのかもしれない……。
これ以上、心が壊れてしまっては人として生きられないのではないかとさえ感じた。病気の苦しみもそうだし、妹のこともそうだ。僕はいささか生きることに疲れてしまっているらしい。
僕は家に帰ると物置からゴム製のホースを引っ張り出して、仏間と茶の間を仕切る鴨居にホースを頑丈に結び付けた。
僕は釣り下がったホースを二、三度強く引っ張った。
良し、これで大丈夫だろう。
僕の心の中に、死に対する恐怖というものは確実にあった。しかし、どうせ一年後には死んでしまうのだ。逃れられない死への恐怖を抱えて生きていくくらいなら、今ここで死んでしまった方が、遥かに楽のように思えた。
僕はゆっくりと踏み台に上り、ホースを首に掛けた。
「さようなら……」
静かにそう呟いてから踏み台を後ろに蹴ると、ゴム製のホースが首にぎゅっと巻きつき、とてつもない苦しみに襲われた。苦痛の中少しずつ意識が薄れていき、やっと苦しみから解放されたかと思ったその瞬間、ベチッという激しい音と共にホースが鴨居から外れて、僕は敷居の上に尻餅をつき、更にその衝撃で鴨居に飾ってあった額縁が床に落下し、額縁のガラスが激しい音をたてて割れてその破片が辺りに飛び散った。
「うっ、げほっ! げほっ!」
咳き込みながらも、激しく呼吸を繰り返した。
「はぁ、はぁ、生きている……」
僕は死のうとしたにも関わらず、生きるために必死に呼吸をした
なんということだろう、僕は生きようとしているのか……。涙で滲む目に、床に散らばった額縁がぼんやりと映った。その落下した額縁は、僕が小学生の時にコンクールで入賞した絵が飾られたものだった。
しばらく呼吸を落ち着かせてから何げなくその絵を手に取ると、後ろから二通の封書がぽとりと足元に落ちた。
「これは……」一体なんだろうか?
見ると二通の封書には、それぞれに宛名が書いてあった。一通は僕宛で、もう一通にはエミへと書いてあった。
「母さんの字だ」
僕は高鳴る鼓動を抑えきれないまま、自分の名前が書いてある封書を手で破り開け、中の便箋を取り出した。
マサト、結婚おめでとう。便箋の冒頭にはそう書かれていた。一瞬どういうことなのかわからなかったが、どうやらこれは僕が結婚したときのために、母が書き残していた手紙のようだった。
マサト、結婚おめでとう。きれいなお嫁さんね、しっかり者のマー君が選んだ人ですもの、私は何の異存もございません。だけど私は嫌な姑になりたいと思います。襖の開け方から、ご近所付き合いまで厳しく教えていきます。だからマー君はお嫁さんに逃げられないように、優しくしてあげてください。凝った料理を作った日は「おいしいね」と言ってあげてください。髪を切った日は「似合っているね」と言ってあげて下さい。泣いている時は、後ろからそっと抱きしめてあげてください。それでもお嫁さんが実家に帰ってしまったときはお母さんも一緒に謝りに行きます。だからずっと家族でいてください。お願いばかりになってしまいましたが、お母さんはあなたたちの幸せを切に願っています。
三十五歳のお母さんより
「……嘘でしょう」
もちろん嘘じゃない。正真正銘、母からの手紙だった。
母は一体どういう気持ちで、この手紙を書いていたのだろう。母が三十五歳の時ということは父が失踪した年だ。子供たちが結婚する前に、自分にもしものことがあることを、考慮して書いていたのだろうか。僕はその手紙を、穴が開くほど何度も読み返した。気が付くと僕は、声も出さずに涙を流していた。母さんの葬式でも泣かなかったのに、その時初めて母が恋しくて泣いてしまった。
「母さん、ごめん。母さんだってもっと生きたかったはずなのに……」
本当のところ僕は、手紙を読むこの瞬間まで、母の死を受け入れることができずにいたのかもしれない。そして母の死を現実のものと悟った時、僕の中で自殺しようなどという気持ちは、微塵も無くなっていた。何故なら僕は、母に愛されていたのだから。人の子供である以上、自らの手で人生を終わらせて良いはずがない。生きなくちゃ、母さんのために。この命尽きるまで生き抜いてやる。
心の中でそう誓った瞬間、僕の体内に不可思議な現象が起こった。
目の前に無数の花びらが舞っているのだ。周りは春の陽だまりのような暖かさに包まれ、薄桃色の桜の花びらが、ゆっくりと円を描きながら上昇していた。えも言えぬ高揚感と抑えきれぬ喜びに、僕は目を見開いたまま涙が止まらなかった。この世界はなんて素晴らしい。耳を澄ませば楽しげな歌が聞こえてきて、目に映る風景は全てが美しかった。
死という現実によって僕の心の中を締め付けていた、怒りや不安定な精神状態もこの時ばかりは全てなくなっているように感じた。
僕はその時、夜の十二時を過ぎていたにも関わらず、まるで何かの衝動に駆られたように携帯電話を手に取り妹に電話した。
6コール鳴らしたところで、妹は電話を取った
「……もしもし、どうかしたのこんな時間に?」
妹のいぶかしげな声を聞いた途端に、僕はしばらく声が出せなくなってしまい何秒間かの沈黙が続いた。
「お兄ちゃん?」
僕は、肺の奥から何かを吐き出すようにして声を出した。
「今度こっちに帰って来ることがあったら、エミの彼氏を連れてきてくれないか?」
「えっ?」
妹は電話の向こうで動揺しているようだった。まあそれは無理もなかった。
「勝手なことばかり言ってすまない。けどこれが最後のわがままにする。エミの彼氏に会わせて欲しいんだ」
そしてまたしばらく沈黙が続いて、受話器からすすり泣く声が聞こえた。
「……う、うん……。とう、ありがとう、お兄ちゃん」
「それじゃ、遅いから切るぞ。おやすみ」
「うん、……やすみ」
僕はそっと受話器を置いた。
妹はこんなにも苦しんでいたのだな。僕は死という現実から逃げるあまり、周りのことがまるで見えなくなってしまっていたのかもしれない。
翌日、僕は職場の上司である山口工場長に病気のこと、余命のことを全部話した上で辞表を渡した。急な話ではあったが病気のこともあるので、工場長は神妙な面持ちで辞表を受け取ってくれた。
その後、同僚たちには病気や余命のことは言わず、ただ辞めるということを伝えた。最近は口うるさい先輩になっていたから若い連中は喜んでいるかなと思ったが、急な出来事だったので少し戸惑っているようだった。
そしてその日の就業後、僕は事務所に立ち寄り山口工場長と二人で少し話をした。
事務所にある応接用のソファーに腰を下ろすと山口がお茶を出してきた。
「西嶋もお茶飲むだろ?」
「なんだかすみません。ありがとうございます」
「なあに、お茶ぐらいでそんなに恐縮するな」
山口はそう言うと対面のソファーに腰を下ろして、自分の湯飲みも目の前に置いた。
「なんだか急な話で本当に申し訳ありませんでした」
「いや、良いんだ。今まで、会社のために尽力してくれて本当にありがとう。西嶋が入社してからの十年で、会社は大きく成長することができたよ」
「僕はただ山口さんの言うとおりに、やってきただけですから」
「それが難しいんだよ。この最近は、半人前の癖に自分の主張ばかり言ってくる奴が多いからな」
山口は目の前の湯飲みを手に取った。
業務の終了した工場は静まり返り、事務所の中も壁に掛けた時計の秒針の音だけがチッチッと静かに音をたてた。
「これからどうするんだ、何処かに入院するのか?」
「そうですね。その辺はこれから追々、決めていこうかと思っています」
「そうか……。実は西嶋の具合が良くないことは分かっていたんだ。分かっていながら、お前に休まれてしまっては業務に支障をきたすと思って、中々休みもやれないでいた。結果こういう事態になってしまって、本当にすまなかった」
工場長はそういうと僕に封筒を渡してきた。中を見ると、一万円札が束になって入っていた。
「山口さん、これは……」
「退職金のかわりだよ」
「こんな大金、受け取れないです」
「社長に渡されたものだから、納めておきなさい」
「社長が、ですか……」
工場長はお茶を一口飲み込んだ。
「懐かしいな」
「?」
「西嶋が最初にうちの事務所に来た時だよ。あの時はちょうど昼休みで事務所には私と社長しかいなかったんだ。そしたらそこに、学生服姿のお前がやってきていきなり社長に向かって高校を辞めてきたんで、ここで働かせてくださいって言ってきたんだ。覚えているだろ」
僕は黙って頷いた。
「履歴書も持ってこずにふざけているのかと思い、私は追い返そうとしたが、社長はその常識知らずの若造を睨みつけて、明日から来いって言ったんだ。思わず驚いて社長の顔を見たら、鬼瓦みたいな形相で睨んでいるんだよ。西嶋が事務所を出て行った後、社長に本気で採用するのか聞いてみたら、あいつ隣の県立高校の校章を付けていたぞって言うから、始めはそれが何のことか分からなかったが、その後、散々断られてここまでやってきたんだろって言う社長の言葉に、西嶋がここまで県境を越えて歩いてきたということに気付かされたんだ」
「あの時は、どうやって就職先を探せば良いのか本当に分からなかったから、一軒、一軒訪ねて回ることしかできなくて……」
「その不器用なところに、社長も共感したのかもしれないな」
「この会社で雇って貰えたことは、本当に感謝しています」
「会社の皆も、西嶋には感謝しているよ。病気が治ったら、いつでも戻ってきても良いんだからな」
山口には余命のことまで話していたのだが、病気が治ることを前提に話してくれるその気遣いに、僕はこみ上げる感情を抑えられず思わず顔を横に反らした。
「あ、ありがとうございます……」
会社を辞めてからその二週間後の土曜日、約束どおり妹は彼氏を連れて帰省してきた。
「始めまして、お兄さん。真山アキオと申します。ご挨拶が遅れてしまいまして本当に申し訳ございませんでした」
妹が連れてきた男は深く頭を下げた。顔を上げるとスラリと背が高くて清潔感のある二枚目の男だった。
「いや、良いんだ。良く着てくれたね」
僕は二人に家へ上がって貰い、出前で取っておいた寿司をテーブルに並べた。会社から貰った退職金のお陰で、多少見栄を張ることができた。
僕はビールの瓶を手に取りアキオと妹のグラスに注いだ。アキオは僕のグラスにビールを注ごうとビール瓶に手を差し出したが、僕はアルコールが飲めないのでそれを丁重に断ると、席を立った妹が冷蔵庫から麦茶の入ったポットを持ってきてアキオに手渡し、僕はそれを注いで貰った。
僕は注いで貰ったグラスを何となく前に出すと、目の前の二人はそれに合わせて乾杯をしてくれた。
しかし乾杯はしたものの、こうやって三人テーブルに向き合うと中々食べづらいものだ。それに残念ながら食欲がまるでない。しかし僕が箸をつけないと、二人とも食べにくいだろうから無理やり一つ口の中に放り込んだ。
その後は何となく世間話など、とりとめもない会話を交わした。だがそんな話をしにわざわざ来て貰ったわけではなかった。
僕はアキオのグラスにビールを注ぎながら聞いた。
「二人は結婚するのかい?」
アキオは注がれたグラスをテーブルの上に置くと、軽く後ろに下がるように座り直し頭を下げた。
「必ず幸せにしますので、エミさんと結婚させてください!」
その立ち居振る舞いは、実に男らしかった。
僕は「妹のこと、どうかよろしくお願いします」とだけ言って頭を下げた。
結婚式は五月に考えているという。それは今から約半年後だ……、僕の余命は後一年。大丈夫間に合うさ。
僕はその時、生きるために病院に入院することを決意した。
神様お願いです。どうかエミの結婚式までは、生き続けさせてください。
そして月日は流れ、五月。
エミの結婚式当日の朝、僕は珍しく父の夢を見ていた。
玄関の扉の向こうから、誰かが何かを言っている。
「今日、エミの結婚式だな。マサト身体の具合がどうだ?」
姿こそ見えなかったが、その声は間違いなく父の声だった。
「相変わらず良くはないよ」
「そうか、だけどマサトは頑張っているからきっと大丈夫だよ」
「どうかな?」
僕はそう言った後、父に入ってきて貰おうとドアノブに手を掛けたのだが、外側からロックされているようで扉は全く開かなかった。
「父さんのことは気にするな。そんなことよりアレ持っているだろう」
父にそう言われて気が付いたのだが、僕は左手に何か果実のようなものを持っていた。
「何、この果物は?」
「食ってみろ。うまいから」
僕はその果物をおもむろにかじってみた。幾重にも重なった薄氷のようにシャリシャリとした食感で、一噛みごとに旨みのある果汁が口の中いっぱいに溢れ出た。
ああ、なんてうまい果物なのだろうと幸せな気分に浸りながら全て食べきると、そこですーっと目が覚めた。
瞼を開き見つめる先には、懐かしい天井が見えた。昨日から結婚式に出席するために病院から一時帰宅していたのだ。
よく分からない夢だったが、起きた時少しだけ涙が出た。だけど頭の中がスッキリしていて、何故か身体の調子がとても良かった。これなら結婚式に出てもなんら問題ないだろう。
「父さん、娘の結婚式にも来ないつもりかい。父さんが来ないなら僕が代わりにバージンロード歩いちゃうよ」僕はそう独りごちた。勿論返事は返ってこない。
「けど安心してよ。ちゃんと送り出していくから」
僕は久しぶりに髭を剃り、礼服は持っていなかったので、ダークグレーのスーツに着替えた。
スーツを着るなんて成人式の時以来だったので、鏡に映る自分の姿に少し照れくささを感じながら、身支度を整えて仏壇に手を合わせた。
「それじゃ、いってきます」
朝一番の新幹線に乗り東京に着いた僕は、妹からメールで貰った案内を見ながら地下鉄を乗り継いで青山にあるホテルに向かった。
少し遅れて式場に到着した僕は、花嫁の控え室に直行した。
控え室の扉を開けると、純白のドレスに身を包んだ妹がいた。
大きな窓から降り注ぐ柔らかな光を斜めに受けて、鏡の前に座る妹の姿はまるで別人のようで、僕は一瞬話しかけるのを躊躇ってしまった。
「あっ、お兄ちゃん」こちらに気付いた妹が振り向いて言った。
「遅れてすまない」
「ううん、大丈夫だよ」
窓からの日差しを受けた妹は、眩しそうに目を細めた。
「今日は天気が良いな」
何を話しかければ良いのか分からなくなった僕は、そう言って大きな窓から晴天の空を仰いだ。
「日頃の行いが良かったからね」
「エミの?」
僕が返す言葉でそう言うと、妹は少し頬を膨らませて、そして笑った。
「そう。それと皆が私たちを祝福してくれるから」
「ああ、それじゃ晴れるね」
「勿論、お兄ちゃんを筆頭にだよ。ありがとう」
そう言われて僕は、その時妹のウェディングドレス姿を改めて見つめた。
「何?」
「何が?」妹の言葉に、僕はすぐに聞き返した。
「何か言いたそうに、ずっと見てたでしょ」
「いや、綺麗になったなと思って」
「嘘ばっかり」
妹は少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
僕には、妹に言ってあげたい言葉があった。今日会った瞬間から脳裏に浮かんだ言葉だが、面と向かって口に出すのはためらわれる言葉だった。
「本当だよ。世界で一番綺麗な花嫁だ」僕は小さくそう言って、後ろを向いた。
「……泣かないでよ、バカ」
花嫁側の親族は僕しかいなかったので、僕は妹を連れて花婿の親族に挨拶に行き、そこで打ち合わせ、写真撮影を行い、チャペルでの挙式が始まった。
参列者は既に入場している。その後、新郎が入場したら僕たちの出番だ。
妹が僕の腕を取った。僕は妹の顔を見た。非常に落ち着いた凛とした横顔だ。僕らは真っ白い絨毯の上に歩を進めた。目の前にいる新郎は、じっとこちらを見ている。バージンロードとは和製英語で欧米ではないようだが、そこはこれまで歩んできた道のりを表しているらしい。僕と妹はそれまで歩んできた道のりを、一歩一歩踏みしめながら、その先で待っている新郎に歩み寄った。そして妹は僕の手から離れ、新郎の腕を持ち、更にその先の未来へと歩き出した。嬉しいような、切ないような、複雑な気持ちで僕はその後ろ姿を見つめた。
これで僕の役目は終わったんだな。そっと肩の力を抜くと賛美歌が聴こえてきた。
いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを とり去りたもう
こころの嘆きを 包まず述べて
などかは下ろさぬ 負える重荷を
僕はキリスト教徒ではないが、それでもこの賛美歌を聴いた時、心に安らぎを覚えた。もしかすると僕は死んでしまうのではなく、今日というこの日のために、生かされてきたのかも知れない。そう考えれば全てのことに感謝することができる。ありがとう、父さん。ありがとう、母さん。ありがとう、エミ……。
いつくしみ深き 友なるイエスは
かわらぬ愛もて 導きたもう
世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて いたわりたまわん
そして挙式が終わり披露宴に移った。
司会者が開宴の挨拶と新郎新婦の紹介をして、主賓の祝辞は両家を代表して新郎の父親が述べた。
それから乾杯、ウェディングケーキ入刀を済ますと一段落して歓談の時間になった。その時僕は、体調は良いのだが緊張のせいなのか食事が全く喉を通らなかった。
ふと新郎新婦の席に目をやると、妹は満面の笑みを浮かべていた。余興で新郎の友達たちが踊りながら歌う姿を見て、妹は新郎と顔を合わせて笑っている。
子供の頃、妹ははにかむと頬にエクボが浮かび、その愛らしい表情を見た人たちは皆釣られて笑顔になったものだったが、大人になり顔が少し細くなってからはエクボももう出なくなってしまったようだ。しかし今、改めて妹の笑顔を見た瞬間、僕の心はとても幸せな気持ちになった。この笑顔を今まで守ることができて本当に良かったと、心の底から感じていた。
それから来賓の祝辞や余興などが終わり、いよいよ披露宴は佳境を迎えた。
会場の雰囲気が余興のときとは一転し静まり返った。次は新郎新婦から両親への花束の贈呈、これは勿論僕が受け取るわけだ。
新郎が両親に花束を渡した後、新婦である妹から僕は花束を受け取った。妹は照れ笑いをしながら花束を渡した。やたらと大きい花束だった。
そして妹は手元から手紙を取り出して、僕の顔を見上げた。
「お兄ちゃんへ……」
妹は目の前に広げた手紙を読み出した。
「お兄ちゃんへ。私のお兄ちゃんは、兄でありながら私の父であり、母でもありました。というのは私が小学生で兄が高校生の時、私たちは保護者を失ってしまったのですが、まだ幼かった私を養うために、学校を辞めて働くようになったからです。疲れて帰ってきても育ち盛りの私のために、晩御飯を作ってくれました。何故当時十六歳の少年が、さも当然であるかのように家事をこなせるのですか? 何故私が夜、寂しくて泣いていると仕事で疲れているにも関わらず、泣き止むまで側にいてくれるのですか? 何故自分は高校を中退しなければいけなかったのに、私には大学まで行かそうとするのですか? 高校卒業後の進路については、本当に兄と揉めました。あの時反抗期だった私は、そのことをとても疎ましく感じていて大喧嘩の末、恩着せがましいのよ! と言ってしまいました。あの時のことは今でも後悔しています。あれは本心じゃないからね、ごめんなさい。しかし結局のところ兄の言う通りに、進学の道を歩んだおかげで大学を卒業し、今の会社に就職してアキオさんと出会うことができました。私が意地になって自分で決めた進路を進んでいたら、今の幸せは確実になかったでしょう。自分を犠牲にしてまで私のことを養ってくれた兄に、一通の手紙だけでは感謝の気持ちをとても伝えきれません。……だから今は一言だけ言わせてください」
妹は少し鼻をすすった。
「お兄ちゃん、今まで育ててくれて本当にありがとう。そしてお父さん、お母さん、お兄ちゃんと私を産んでくれて本当にありがとう。私はあなたたちに恥じることがないようにアキオさんと生きていきますので、これから少しずつ恩返しさせてください」
妹は泣きそうになりながらも、最後まで読みきり手紙を僕に渡した。
会場からは割れんばかりの拍手が鳴った。
僕も妹がまだ小さかった頃を思い出してしまい、思わず瞼の裏が熱くなった。
これから両家を代表して、謝辞を読まなくてはいけないのに泣いていては駄目だ。これから妹に、絶対に伝えなくてはいけないことがあるんだ。
そして僕の出番がきた。
マイクを持つ手が震えた。僕は原稿を読むことに気持ちを集中させ、心を落ち着かせた。
「えー、新婦の兄、西嶋マサトでございます。両家を代表致しまして、お礼の言葉を申し上げます。本日はお忙しい中、大勢の皆様にご列席賜り、またご祝辞や励ましのお言葉なども頂きまして、誠にありがとうございます。新郎新婦には皆様のご期待に添えるような、明るい家庭を築いて欲しいと願っております。今後とも皆様にはお世話になることと存じますが、ご支援のほど何卒宜しくお願い申し上げます。結びに妹には内緒にしていたのですが、実は母の遺品の中に結婚後の私たちに宛てた手紙がありました。私もまだ読んでいないのですが、最後にこの母からの手紙を読ませて頂きまして、結びの言葉とさせて頂きます」
そう言うと式場は不思議な緊張感に包まれて、しんと静まり返った。僕は少し震える手で、母の手紙を広げた。
「エミ、結婚おめでとう。どんな大人になっていますか? 旦那様は素敵な方ですか? あなたは今、幸せでしょうか? 五歳で甘えん坊のあなたが結婚するだなんて、まだ想像もつきませんが、きっと私の娘なので、お父さんに良く似たハンサムな旦那様の横でにこにこと笑っているのでしょう」
読んでいる途中で母の声が脳裏に蘇った。僕は一度咳払いをして、こみ上げてくるものを押さえた。
「エミ、生まれてきてくれて本当にありがとう。あなたたちに会えたおかげで、お父さんとお母さんはとても幸せでした。エミにも子供が生まれれば、きっと今以上に幸せな気持ちになれると思います。その時、私はお婆ちゃんになってしまいますが、それでも早く、孫の顔が見たいものです。あなたたちの未来が幸せであることを、ずっと願っております……。三十五歳のお母さんより」
僕は手紙を閉じた。
「……本日は誠にありがとうございました」
そう言って僕は一礼した。
するとパラパラと拍手が起こり、それに釣られて皆が手を叩きしばらく鳴り止まなかった。妹を見ると顔を真っ赤にして泣いていた。
母さんの残してくれた言葉、しっかり胸に刻み込むんだぞ。僕はそう囁いて席に付いた。
そして司会者が閉宴の言葉を述べた。僕は新郎新婦と共に招待客を見送った。
最後に退場する客に綺麗にラッピングされたパステルカラーの糖衣菓子を渡し見送った後、僕は新郎に声を掛けた。
「アキオ君」
新郎と妹は緊張した面持ちで、僕の顔を見つめた。
僕は一度目を瞑り、深く呼吸した。
「アキオ君もご存知の通り、こいつには両親がおりません。しかしながら妹に寂しい思いだけはさせまいと、力及ばずながら私が両親の代わりとなって大事に大事に育てて参りました」
新郎は静かに頷いた。
「君のことを一方的に受け入れなかった僕が、言う権利はないのかもしれませんが、……どうかエミのことを幸せにしてやってください」
僕は深く頭を下げた。
新郎は少し驚いてから、慌てて僕の手を取った。
「はい。必ずエミさんを幸せにします」
「ありがとう……」
妹はまた泣いていた。
けど、これで良いんだ。そうだよね父さん。