第七章 探索
目の前に広がるその景色に、僕の目は釘付けになった。
空が七色に発光し、上空に吹く気流がそれをレースのカーテンのように穏やかに揺らしている。
「これはオーロラなのか……?」僕はひとりごちた。
僕たちが現世から灰色の街に戻ってくると、街は異様な雰囲気に包まれていた。遠くに見える山には青白く閃光する稲妻の結界が縦横無尽に張り巡らされ、山の上空には妖しく揺れるオーロラが幾つも出現していた。それはとても美しい現象のようにも見えたが、どちらかというと、この世の終焉を感じさせるものだった。
「どうやら完全に覚醒してしまったようだな。しかもよりによって、ガラス山が夜行さんに乗っ取られてしまうとは」
高くそびえるガラス山から吹き降ろす熱風を浴びると、ギルバードは目を細めた。
「ああ、これは非常事態だ。ガラス山には『月の女神』だっておられる。『キャビネット』は甲種厳戒態勢を敷いたみたいだな」管理人はその横で呟いた。
その時ギルバードは、何かの気配を感じ後ろを振り向いた。
「……ふんっ。そのキャビネットの連中が、お出でになったようだ」
遠くからギルバードと同じくらいの背格好をした大男たちが、三人横並びに歩いてきた。ダーク系色の服を身に纏い、首には幾何学的な模様の入った白いストールが巻きつけられ鼻の下まで覆われている。良く見ると、彼らの腰には日本刀のようなものを帯びており、その柄に付けられた数珠をカシャ、カシャと鳴らしながら、規則正しく歩幅を合わせ一歩一歩こちらに向かってきた。
三人の男たちは僕たちの前まで来ると、両足をぴしゃりと合わせ、中央の男が甲高い声を発した。
「我ら忠実なる女神の僕、キャビネットのエージェントである。死神ギルバード。もはや我々が来た理由は、分かっておるだろうな」
ギルバードは中央の男をギロリと睨みつけ、吐き捨てるように言った。
「よう、ウォンじゃないか。言っておくが俺は公僕には用はねえぞ」
三人の男たちは顔を見合わせた。
「面白い、分からぬと言うのなら教えてやろう。貴様は時を辿る回廊を、許可なく使用しただけに留まらず、その後、ネセシティでタイムパラドックスを引き起こしてしまった。それらは月典令第九条に抵触している。理解できたならば、おとなしく縛に就き給え」
ウォンと呼ばれる男が言うと、両脇の男たちがギルバードの腕を左右両方から押さえつけた。
「ギルバード!」
僕が前へ出ようとすると、ウォンは素早く腰に帯びた刀の柄に手を掛けた。
「駄目だよマサト!」管理人は慌てて僕を制止した。
「でも……」
ギルバードは僕を見ると、口を一文字に結んで大丈夫だと微笑んだ。
それでも不安そうに見つめる僕を尻目に、ウォンはギルバードを後ろ手に押さえつけた。
「よし、大人しく幽閉局まで来て貰おうか」
「ふん、単なる諮問機関の連中が、随分と偉くなったものだな」
背中越しに語るギルバードに対して、ウォンは押さえた腕を更に強く引いた。
「口を慎め、我々はもう貴様が言うような、単なる諮問機関ではなくなったのだ。事実、行政権はすでに我々が握っているに等しい」
ウォンは耳に残る不快な高音でそう言うと、首枷でギルバードの自由を奪った。
「行くぞ」
ギルバードはエージェントに腕を引かれながらも、強引に首枷をひねり僕たちのほうに降り返った。
「レド。俺の事務所に行って柳原に、正規ルートで二十年前のネセシティに行き、俺が落としたブリーフケースを、回収してくれるように頼んで貰えるか?」
「ああ、分かった」管理人は渋面を作り頷いた。
「それとマサト。お前に渡した魂の核が入ったガラス瓶をあの子供の前で開けるんだ。そうすれば二つの魂は一つとなり、魂の回帰は完了する」
僕はガラス瓶を取り出し、胸の前で握り締めた。
「……はい、必ず」
エージェントたちは暴れるギルバードを押さえつけ、熱風の吹き降ろすガラス山の方角へと連れ去って行った。
「管理人さん、ギルバードは大丈夫なんですか?」
「今回の件につきましては大した罪には問われないでしょうが、問題は危機管理室が夜行さん覚醒の責任を、ギルバードに擦り付ける恐れがあることです」
長年、夜行さんの観測を続けていた危機管理室は、今回の夜行さんの覚醒をギルバードが無断で時空移動した際に生じた、時軸の揺らぎが原因ではないかと考えているのだ。
「夜行さんとは、一体何者なんですか?」
「夜行さんはこの街の創造主。そしてそれと同時に、この街を破壊へ導く祟り神でもあるのです。まずは覚醒してしまった夜行さんを鎮めないと、覚醒したことで生じた不利益が全てギルバードの罪になり兼ねない。そうなる前に一度、ギルバードの事務所に戻り対策を考えましょう」
管理人は身を引き締める様に目に力を込めると、振り返りそこから歩き出した。
「そうですね、分かりました」
管理人の気持ちを受け止めた僕は、大きく頷くとその後姿を追いかけた。
夜行さんに乗っ取られてしまったガラス山からの熱風は、そこから遠く離れた灯火小路までも届いており、通りに並んだ街灯がプラズマの風よってバチバチと激しく音をたてていた。
「管理人さんすみません。僕が来たことで、こんな大変な事態になってしまって……」
灯火小路の薄暗い道を二人で歩きながら、僕は管理人に謝った。
「マサトが謝ることではないですよ。そもそもギルバードの不始末で起きたことですし、それに我々は全ての運命を受け入れることができます。たとえ何かの偶然でこの街が滅びてしまうとしても、勿論そうならぬように必死で抗うでしょうが、それでも免れぬようであればそれはそういう宿命なのだとして最終的には全てを受け入れます」管理人はまっすぐ前を向いたまま言った。
「この街の住人は、みんな運命論者なんですか?」
「運命論者? それは少し違います。未来は個人の力で変えることができます。ただ複数の未来に進むことはできません。選ぶことはできても、進むべき道はただ一つ。その進んだ道のことを結果的に運命と呼んでいるに過ぎないのです」
プラズマの風によって点滅する街灯で、管理人の横顔がチカチカと目に映った。
「そういう点では私たちは運命というものを信じています。だからどんな未来が待っていようとも全力で立ち向かうことができるのです」
「運命とは自分で切り開くものだから?」
「そうです。過去を反省するよりも、今は何とかしてギルバードを救い出し、夜行さんの力を鎮めることに心血を注ぎましょう」
薄暗闇に時折発光する街灯の明かりが、管理人の顔をぼんやりと照らす。何かに気付いた管理人がこちらに笑みを浮かべるとスーッと斜め下の方を向いた。その視線の先を追っていくと、そこには座り込んだリサの姿があった。管理人と話しているうちに、いつの間にかギルバードの事務所にたどり着いていたようだ。
「すっかり待たせちゃったね、リサちゃん」
リサの頭上にある街灯がチカチカと激しく点滅する。僕はリサの元に近づこうとすると、その街灯がダンダンッと激しい音をたててそのまま破裂してしまった。
「うわっ!」僕は思わず左腕で顔を抑えた。
辺りには割れた街灯のガラス片が飛び散り、事務所前に座り込んでいたリサの身体にもその破片が降り注いだ。
「大丈夫か!」
僕は急いで駆け寄ったが、リサは相変わらず何が起きても無関心のようで、降り注ぐガラス片など気にもせず、ただ人形のようにそこにじっと座っていた。
「……今、助けてあげるからね」
僕は上着の内ポケットから小さなガラス瓶を取り出すと、そっと蓋を開けた。すると開けたとたん瓶の中から、溢れんばかりに無数の光の粒が零れ落ち、そして座っているリサの頭上に降り注いだ。
直径10センチメートルにも満たない小さな瓶から湧き出る光の粒に、灰色だった街も僕たちの周りだけはいつか見た川の水面のように煌きで溢れた。
後ろから近づいてきた管理人が、僕に声を掛けた。
「人の魂は美しい。そうは思わないか、マサト」
僕は黙って頷いた。
その時だった。変化が起きたのは。
「……綺麗、綺麗な光」リサは静かに口を開いた。
その瞬間、永きに渡り虚空を見つめていたリサの瞳に光が蘇った。頭上から降り注ぐ光をゆっくりと見上げて深く長い呼吸をした後、リサは十五年越しの言葉を発した。
「……あたし、今まで何をやっていたんだろう。友達裏切って一人で死んじゃって、ずっとここで心を閉ざしていた。誰かに見られても知らない顔して、声を掛けられても聞こえない振りで相手を拒絶して。そんなことしても何にもならないのに、あたしは時間だけが過ぎていくなか、迷惑を掛けた人たちに対して何にもすることができなかった」
そう言うとリサは、また小さく肩を落とした。
「そんなことないよ、誰もリサちゃんのことを責めたりはしない。覚えているかは分からないけど、君は成仏する前、現世でエミに謝っていたんだ。エミちゃんは絶対に死なないでって、覚えている?」
リサは首を横に振った。
「その言葉がエミに伝わっていたかどうか分からなかったけど、あの時エミはまるで誰かに訴えるように墓石の前で頑張って生きるからって、何度も叫んでいた。今になって気付いたんだけど、きっとエミには君の言葉が伝わっていたんだ。時間は掛かってしまったけど、君は自分の言葉で償うことができたんだよ」
「……本当に?」リサは潤んだ瞳で、僕を見つめた。
「本当だとも。だから君はこれ以上苦しむ必要なんてないんだ」
「良かった。ありがとう、ありがとう……」
生前の頃のような表情に戻ったリサは、ゆっくりと時間を掛けて両足で立ち上がると、僕の背中に手を回して、そのまま僕のおなかにもたれ掛かった。
「……?」
その時リサは、自分の体に起きている違和感が何なのか分からなかった。
「リサちゃん、足が……」
見るとリサは間違いなく、己の両足で地面に立っていた。
「あたし、左足がある。自分の両足で立ってる……」
激しく動揺し気持ちの整理がつかず、この胸の奥からこみ上げてくる感情が何なのかさえも分からないまま、リサは僕のおなかに顔を沈めてふるふると震えた。
「リサちゃん」僕はリサの後頭部を手で押さえた。
何故ゆえにこんなにも小さい子供が、理不尽なまでに残酷な運命を抱えて生きていかなくてはいけなかったのか、僕などにその辛苦を想像することは到底できなかった。
リサは目を瞑り、強く肩を震わせた。
「あたし、ずっと、ずっと辛かった。何で自分は人と違うのか、何で自分ばかり苦しい思いをしなければいけないのか、ずっと現状を否定して生きていた。あたしはスタートラインにすら立っていなかったのに、いつの間にか自分で勝手にゴールラインを越えてしまったんだ」
「辛かったね、けどそれももう終わりだよ。これから君は生まれ変わる。そうでしょう管理人さん」
僕が目線を送ると、管理人はコクリと頷いた。
「そうですよ、リサさん。あなたの魂は無事回帰し、心の傷も癒えたようなので、新たな生命として生まれ変わって頂きます」
「あたし、生まれ変われるんですね」
「もちろんです。魂ある限り人は何度でも生まれ変わります」
管理人がそう言った時、突然ギルバードの事務所の扉が半分だけ開いた。
「あれっ、開いたぞ」
事務所の入り口の扉を内側から開けた人物は、半分だけ開いた扉から顔を出したが、完全に扉が開くとわかると、扉を全開にして外に出てきた。スーツを着用した小太りの青年だった。
「それにしても、何だこの熱風は? 暑くてしょうがないな」
青年は左の掌で首元を扇ぎながら、外に出てきて入り口の扉をばたんと閉めた。
「おかしいな、何で今まで開かなかったんだろう?」
その男は目の前にいる僕たちには見向きもせず扉の前に屈みこみ、ドアノブと鍵穴に異常はないか確かめ始めた。
「やあ、柳原君じゃないですか、お久し振りですね」
管理人が後ろから声を掛けると、青年はこちらを振り返り、まるで営業マンのような笑顔で立ち上がった。
「これは、これは、レドさんじゃないですか、お久し振りです。どうかされましたか?」
「いや、実はギルバードからの託けを頼まれて来たんだけど、今大丈夫かな?」
「私にですか? もちろん大丈夫ですよ。何でしょう?」
「実は今、非常に面倒なことになっていて、柳原君にネセシティの過去からギルバードのブリーフケースを回収してきて貰いたいんだ」
「ほう、ネセシティの過去?」
柳原と呼ばれた青年は、何かを思案するように左手でたるんだ顎の肉に触れた。
「そう、二十年前」
「えっ、二十年前? まさか過去の世界にブリーフケースを置いて来たってことですか? それって凄くまずいですよね。キャビネットに気付かれたら、ガラス山に閉じ込められますよ」
「残念ながらギルバードは、もうすでにキャビネットに連行されてしまっているんですよ」
それを聞いた瞬間、柳原の表情が固まってしまっていた。
「それは、別件での捕縛ですけど」管理人は付け加えて言った。
「別件? ギルバードさん、別件で捕まったんですか? へー、キャビネットもやるなあ」
柳原は酷く感心していたが、何の件でキャビネットに捕まったのかには特に関心がないようだった。色々と思い当たる節があるのかもしれない。
「そういう訳なので柳原君、申し訳ないですが、取り急ぎネセシティに行って貰えますか」
「ええ、それはもちろん行きますけど、久しぶりに事務所から出たと思ったら、今度はいきなり現世か……」
柳原は頭をぽりぽりと掻きながら、チラリと僕とリサの方に目を向けた。
「ちなみに、君たちは誰かな?」
いぶかしげな表情で見つめられたので僕は簡単に挨拶を済ませたのだが、リサは不意に珍獣にでも遭遇したかのような口を半開きの状態で、黙って柳原を見ていた。
柳原は少し困ったが、すぐに諦めるように目を背けた。
「あ、そう……まあいいや。あなたは西嶋さんね。ん、西嶋さん?」
柳原はその名前を聞いて、何かを思い出した。
「ああ、魂の器を返しに来た、西嶋さんですか?」
「そうです。その西嶋です」僕は頷いた。
「そうでしたか、わざわざご苦労様です。ですが申し訳ない、魂の器はギルバードさんがいないと返還することができないんですよ」
「それは、僕がガラス山幽閉局というところに行くだけでは駄目なんですか?」
「ああ、確かにギルバードさんも幽閉局にいるみたいだしなあ……。けどやっぱり鍵がなければ意味がないかな」柳原は余分な肉の付いた顎をさすりながら言った。
「鍵とは、何の鍵ですか?」
「それはもちろん『睡蓮の鍵』のことですよ。ご存知じゃないのですか?」
柳原は胸元で、その鍵と思われる形状を手で表してくれたのだが、良く分からなかったため、僕は管理人に視線を移した。
「申し訳ない柳原くん。ギルバードのところに行けば、詳しい話をしてもらえると思っていたので、私の方からは細かいことは何も話していないんだ」
「そうでしたか、まあそれはそれで構いませんよ。だけど私もネセシティに行かなければならないようなので、どうしましょうか?」
「とりあえず、ギルバードが釈放されるまでは私が何とかします。それで良いですねマサト」管理人はこちらに降り返って言った。
「はい」
「私は一度、リサさんを送りに駅に向かいますので、マサトはギルバードの事務所で待っていて下さい」
「分かりました」
「ああ、それと事務所の中にいれば大丈夫だと思いますが、一応夜行さんに出会ってしまったときの対処法を教えておきます」
「対処法があるんですか?」
「まあ、対処法と言うよりも一時的に難を逃れる術です。もしも夜行さんが近くにやってきたら頭を低くして地に伏せていてください。夜行さんと目が合うことがなければ、そのままやり過ごすことができますので」
「たったそれだけですか?」
「ええ。なるべく低く頭を下げてじっとしていていれば、後は勝手に通り過ぎていくはずです」
「分かりました。もしもの時は実行してみます」
僕がこくりと肯くと、柳原が「それじゃレドさん、我々は駅に行きましょうか」と言ってきた。
「そうですね。リサさんも一緒に駅に行きますよ」
「はい」リサは少し俯いて言った。
管理人は駅に向かって足を動かしたが、何かを思い出したかのように立ち止まった。
「あ、それとリサさんに転生について、まだ説明していなかったので簡単に説明させて貰いますね。まず現世と呼ばれる領域には二つの世界があって、あなたがいた世界をネセシティ、もう一つの方がチャンスと言います。通常ですと、どちらの世界でも亡くなった場合、もう一つの別の世界で生を受けるのですが、藤川リサさん、あなたにはもう一度ネセシティに行って貰います」
「同じ世界に生まれるんですね」
「辛いですか?」
管理人は優しく微笑みかけた。
「いえ、辛くはないですけど……」
「けど?」管理人は首を傾けた。
リサは少しだけ間を空けて、管理人に問いかけた。
「あたし、次に生まれる時は、ちゃんとした身体で生まれてこられますか?」
そう言われ、管理人はリサの目をじっと見つめた。
「あなたのこれまでの人生は、とても辛いものだったでしょう。しかしこれだけは分かっておいてください。ハンディキャップの有無に関わらず、人生において辛いことは山のようにあります。しかしそれは生きている限り必ず乗り越えることができて、その辛さを乗り越えることが人を成長させる糧となるのです」
リサは黙って頷くと、管理人はニッと微笑んだ。
「全てはさだめの星の元に……。リサさんの来世は、きっと大丈夫。健康な身体で生まれ変わりますよ」
リサは安心した顔で「よかった」と呟いた。
管理人とリサと柳原の三人が駅に向かって行く去り際、僕は堀川小学校の屋上で拾ったビーズのネックレスをリサに手渡した。
「リサちゃん、これ」
それを見たリサの顔は一瞬驚いていたようだったが、すぐに喜びの表情へと変化していった。
「嬉しい……。ありがとう、お兄ちゃん!」
その言葉を聞いた時、リサが幼い頃の妹の姿が重なって見えて、思わず僕は小さな声で「エミ……」と呟いていた。
リサは、僕の顔をまじまじと見つめた。
「やっぱりお兄ちゃんは、エミちゃんのお兄ちゃんなんですね?」
僕はすぐに我に返り、慌てて取り繕った。
「うん。僕のこと覚えてる?」
「覚えてますよ」
「本当に?」
「だって、子供の時と同じ顔をしてるんだもん」リサは笑顔で言った。
「そんなことないでしょう、もうおじさんだよ」
僕は笑い返したが、リサは急にうつむき神妙な面持ちに変わった。
「あの、あたし、エミちゃんのお兄ちゃんに、言わなきゃいけないことがあるんです」
「?」
「あたし、この灰色の街で会ったんです。いや、その時はいると感じただけなんですが、確かに会ったと思うんです」
その後リサが発した一言は、僕に驚愕と動揺を与えた。
「あたし、会ったんです。エミちゃんのお母さんに……」
部屋はしんと静まり返っていた。
僕はギルバードの事務所の応接室で、落ち着かない気持ちを抑えながら腰を下ろしていた。
「母さんがこの街にいるのか?」
リサは事務所の前に座っていた時、まるで目のスイッチを消してしまったかのように瞳に何も映らないような状態だったと言っていたが、それでも確かに自分の近くで僕たちの母の存在を感じたと言っていた。
「そうだ、母さんは交通事故で亡くなったんだ」
事件や事故で命を落とした人間は、心の傷を癒すために、この街にやってくると、始めに会ったとき管理人が言っていた。一体、何で今までそのことに気が付かなかったのだろうか。僕は自分の思慮の浅さに嫌気が差した。
やはり、ギルバードの件も含めて一度、自分の足で確かめてみよう。母がこの街にいることと、僕がこの街に呼ばれたことは、少なからず何か関係しているのかもしれない。僕は夜行さんと出会ってしまうリスクがあったが、一応対処法も聞いていたので構わずギルバードの事務所から外の街に出て行った。
空を見上げると、月が先ほどより傾き辺りは徐々に薄暗くなり始め、活気の無い街は更に静けさを増していった。
闇の刻を迎える前には、ギルバードの事務所に戻りたいけど間に合うだろうか……。
大通りから数本の小道を抜けた路地にある、朽ち果てた洋風の建物。僕はその脇にある狭くて暗い階段を下りた所にある小さな扉に手を掛けた。
部屋の中は相変わらず、古びた本とお香の匂いがする。
中を歩いていくと部屋の奥で充血した目が、ぎょろりとこちらを向いた。
「度々すみません」
「ああ、また君か。悪いが今、とても忙しいんだ。調べものなら後にしてくれるかな」
ロロはつっけんどんに言い放った。
しかしここまで来て、母の所在を聞かずには帰ることなどできやしない。
僕は積みあがった、幾つもの書籍の山を掻き分けて奥に進んだ。見るとロロの机の上に、大量の本が積みあがっている、見るとそれは全て夜行さんに関する書物のようだ。
「夜行さんのことを、調べているのですか?」
ロロはチラリと僕のことを見上げて、また本に視線を戻した。
「そうさ、君はこの間この街に来たばかりだと言っていたけど、夜行さんのことを知っているのかい?」
「灰色の街の創造主でありながら、この街を破壊へと導く祟り神」僕は、管理人が言っていたことを思い出しそのまま口に出した。
「そうさ、よく知っているね」
ロロは目の前にある本の頁をめくった。
「ええ、さっき、ガラス山を見てきました」
「えっ!」ロロはぎょっとした顔で僕を見た。
それほどまでに興味を示されるとは思っていなかった僕は、その過剰とも思える反応に逆に驚いてしまった。
「ガラス山を見てきたのかい?」ロロは興奮して席を立ち、僕に接近した。
「はい、山全体に稲妻の結界が張り巡らされ、大変な状態でした」
「大変って、具体的にどういう状態? オーロラは? オーロラは出ていたかい?」ロロは矢継早に質問をしてきた。
「山の上空にオーロラも出ていましたよ」
「おお、本に書いてある通りだ。凄いなあ」ロロは本をパラパラとめくり、オーロラの頁を見つけると、喜んで僕に見せてくれた。
「ロロさんは、夜行さんに興味があるんですか?」
「興味があるどころか、僕は夜行さんの大ファンなんだよ」
「そ、そうなんですか」
「そうさ、あのミステリアスな存在に惹かれるんだ。果たして何のために何処からやってきたのか……、一説には来世からやってきたともいうけどね」
僕はそれを聞いて、管理人が夜行さんの覚醒した原因について、語っていたことを思い出そうとしたが詳しい内容まではあまり思い出せなかった。
「君はタイムパラドックスというのを、聞いたことがあるかい?」
そういえば現世に行った時、管理人がそんな言葉をギルバードに言っていた。
「タイムパラドックスによって起こる、時軸の揺らぎが夜行さんを覚醒させた」僕は管理人が言っていた言葉を思い出し、口に出した。
「そう、タイムパラドックス。つまり時空を移動した際に生じてしまった矛盾が、時軸の揺らぎを引き起こし、それが結果的に夜行さんの覚醒を誘発するんだ」
ロロはそう言うと、得意げに笑みを浮かべた。
「これは夜行さんが時空までも管理しているという推測の下、僕が危機管理室に提唱した新しい論説さ」
「やはり、タイムパラドックスを起こしたことは、罪になるのでしょうか?」
「それはどうだろうね。もしも無許可で時空を遡っていたとしたら、もちろんその罪は問われるだろうけど、それだけで夜行さんを覚醒させた罪を立件するのは、今の段階では難しいんじゃないのかな」
「そうですか」僕はほっと肩を撫で下ろした。
「まあ、そういうわけで僕は忙しいんだ。今日はこれぐらいにして帰ってくれるかな」
そう言うとロロはまた、目の前の本に視線を戻してしまった。
「あの一つだけ、どうしても聞きたいことがあるんですが……」
しかしロロは、僕の言葉に何の反応も示さなかった。聞こえているのに無視しているのか、あるいは読むことに集中しすぎて本当に聞こえていないのか。ロロは何食わぬ顔で、そのまま読んでいる本のページをめくった。
そのめくった頁を見ると、黒い岩の様な塊の挿し絵と共に、夜行さんの封印された時空の淵ということについて書いてあるのが見えた。
「そう言えば現世に行った時、この漆黒の物体が突然頭上に落ちてきて大変だったんですよ」僕はわざとロロの興味を引くように言ってみた。
するとロロは口を大きく開けて僕を見た。しかもそれは驚いたというよりも、恐怖に近い表情だった。
「ダークマターを現世で見たって言うのかい? ……ということは、タイムパラドックスを起こしたのは君なのか?」
「どうなんでしょうか、キャビネットとかいう人たちに、ギルバードさんが捕まってしまったのですが……」
「そうか、君はギルバード氏の所に行ったのだったね」ロロは机の引き出しから横線の入ったノートを取り出した。
「僕に詳しい話を聞かせてくれないか?」
どうやら狙い通り、ロロが僕の話しに興味を示してきた。だがその前にこっちには聞きたいことがある。
「その前に一つだけ、調べて貰いたいことがあるんですけど……」
「何だい。何でも言ってくれて構わないよ」ロロは掌を返したように言った。
「実は僕の母がこの街のどこかにいるらしいのですが、そのことについて何か情報はないでしょうか?」
ロロは充血した目をぱちくりとさせた。
「申し訳ないが、さすがにそんなことまでは分からないな、君はこの街にどれだけの人口がいると思っているんだい?」
「無理を承知でお願いしています。灯火小路で母を見たと言う人がいたんです」
ロロは眉をひそめて、少し考えた。
「灯火小路か……、そういえば昔、闇の刻に灯火小路を一人歩きしていた女性が、グレイピープルにさらわれたという事件があったね」
「さらわれた!?」僕は思わず大きな声を出した。
「そうさ、そしてその女性はそのまま、朧の館に連れていかれたという話だよ」
「あの、朧の館に……?」こめかみから冷たい汗が流れた。
朧の館とはロロに灯火小路について聞いたときに、灯火小路の中で最も危険な場所と言われた所だ。
「まあ、別に君の母親がさらわれたと言っている訳じゃないし、そういう事件が頻発している訳でもない。あくまで過去にそういう事例が一件あったというだけの話だよ。どっちにしても朧の館みたいな恐ろしい所じゃ助けようがないしね。それより夜行さんの話を聞かせてくれないか。環水平アークとか見たのかい?」
「……カンスイヘイアーク? ああ、真っ直ぐな虹のことですね」
「おお、やっぱり見たんだ、災いの予兆。くー、羨ましい」
僕はそこで起こった出来事を、掻い摘んでロロに説明した。ロロはそれを少年のような顔つきで、一言一句漏らさないように聞いていた。
「いやあ、ありがとう。僕は訳あってここから外に出ることができないから、外の情報や本には書いていないリアルな体験話が聞きたかったんだよ」
「いえ、こちらこそ忙しいときに、押しかけてしまい申し訳ありませんでした」
「とんでもない、何か困ったことがあったらまたいつでも来てくれ」
「はい、それじゃあ失礼します」
僕はそれだけ言って振り向き、出口へ向かった。
「ちょっと待って!」ロロは突然、帰ろうとする僕を呼び止めた。
「なんですか?」
「君はもしかして、朧の館に行くつもりじゃないだろうね?」
「僕は朧の館に行こうかと思っています」それはもう決心していた。
「前に来た時に言ったと思うけど、あそこはとても危険なところだし、君の母親だっているかどうかは分からないよ」
「けど行かなくちゃいけないんです。そしてそれこそが僕がこの街でやらなくてはいけない使命のような気がするんです」
「……良いね、君。すごくカッコイイよ」
ロロは椅子から降りて、棚の下から埃の被った手提げのランプを出した。
「このランタンを君に貸してあげるよ。屋敷の中に入るのに必要なはずさ、それにあそこに住む化け物は光に弱いんだ。この中にはオレンジ色に発光する鉱石が入っていて、下にあるつまみをひねれば明くなる仕組みになっている。簡単だろ。燃料がいらないから重宝するよ」
「ありがとう」
僕はロロからランタンを受け取ると、早速下のつまみをひねってみた。すると中の鉱石が発光しはじめ、ランタンの窓がオレンジ色に薄っすらと光り、薄暗い部屋を暖かく染めた。
ロロの店を後にした僕は、再び灯火小路に向かった。
月は完全に沈み、時間は既に闇の刻。天を見上げると、漆黒と呼ぶに相応しい夜空に、無数の星々が煌いている。
街灯もない真っ暗な道で、僕は早速ロロから借りたランタンに明かりを灯した。ぼんやりとした明かりが少しだけ闇に広がった。
僅かな明かりを頼りに、幾つかの小道を抜けると、来た時に葬儀行列と出会った大通りに出た。
「ここは、まるで宇宙の様だな」
空を見上げると、美しく広がる雄大な星空があったが、ただでさえ人通りが少ないこの付近は、闇の刻を迎えまるで滅びてしまった世界のように静まり返り、僕は宇宙に一匹だけで放り出された夜光虫のように、圧倒的な孤独感を全身に感じながら一人街を歩いていった。
目指すは灯火小路の最奥にある朧の館。薄気味の悪い灯火小路は、闇の刻を迎え更に不気味さを増していた。
ロロの恐れる朧の館とは、一体どんなところなのだろうか。
薄暗い街灯もなくなり、真っ暗になってしまった道を恐る恐る辿っていくと、やがて袋小路に突き当たった。もしやここが思い正面に目を凝らすと、鉄柵の奥にまるで手入れが行き届いていない白亜の大きな屋敷があった。
間違いなくここが朧の館なのだろう。
屋敷の周りには高いフェンスが張り巡らされ、正面には鉄製の頑丈な門が、屋敷への侵入者を拒むように立ちはだかっている。
恐ろしい所とは聞いていたが、朧の館を目の前にして僕はようやくその恐怖を実感し始めていた。
湧き上がる恐怖を抑えて、閉められた門を開こうとしたのだが、その門には錠が掛けられているようで、何度揺さぶっても開くことはなかった。仕方なく僕は、ランタンを腰のベルトに引っ掛けて鉄柵の門を飛び越えると、敷地内へと進入した。
目の前には、何とも薄気味悪い建物が建っている。僕はランタンを手に取り屋敷を照らした。
その霞みに包まれた屋敷から発せられる、如何なる生命をも受け付けないような絶対的な拒絶感が、僕の弱い心に直接訴えかけてくる。
ここには来るな……。ここには来るな……。
僕は雑念を振り払った。もうすでに死んでいるのだ、怖いことなどないだろう。僕は自分にそう言い聞かせ、正面にある大きな入り口に力強く近づいていった。
扉の取っ手に手を掛けたが案の定、扉は開かなかった。困った僕は体当たりで強引に扉を開けようとしたが、堅牢な作りのようで、扉はびくともしなかった。
もしかしたら裏口があるかもしれない。そう思った僕は正面の扉を諦めて、屋敷の横手に回りこんだ。ふと側面から屋敷を見ると、窓という窓が内側から板が打ち付けられており、そこから中を窺い知ることはできなかった。
果たしてこんなところに入って、無事に出てこられるのだろうか……。僕の心の中で不安な気持ちが大きく膨らんだ。
すると突然、身の毛もよだつ恐ろしい呻き声が、屋敷の裏手から聞こえてきた。
僕はぞっとして一瞬足を止めた。声はしばらくの間辺りに響いて、そしてまた静寂に包まれた。僕は恐る恐る声の聞こえてきた屋敷の反対側まで回りこんだのだが、そこはフェンスで覆われて行き止まりになっている。探していた裏口も無いようなので、今度は逆回りから探ってみようと足を踏み出した時、何か足元に違和感があった。それまでの土の地面とは、踏みつけた時の感触が明らかに異質だったのだ。
僕は何度か地面を蹴った。
ガンッ、ガンッ、ガンッ。
鉄板を叩いたような音だ。しかもその下は空洞になっているらしく、音が地面の中で少し響いていた。僕は地面に屈みこみ、その上に積もった砂を払いのけると、赤く錆びた鉄製の蓋が姿を現した。耳を澄ますとそこから先ほどの呻き声のようなものがぐおぉぉー、ぐおぉぉーと響いていた。
僕は恐怖を押し殺すように息を呑み込むと、蓋の取っ手に手を掛けた。思い切って蓋を持ち上げると、何かが腐ったような饐えた匂いが中から立ち昇った。僕は思わず顔をしかめて、そこから体を反らした。
立ち昇る臭気に耐え中を覗き込むと、ちょうど人間が入れるほどの空洞になっているようで、呻き声のような音がその奥から響いていた。間違いなくこの下に何かがいる。
少し顔を近づけると真っ暗な空洞の横に、短い梯子が付いているのが見て取れた。それを降りればこの空洞から屋敷に通じているのだろうか。ロロが屋敷に入るのにランタンが必要だと言っていたのは、もしかするとここから入るということなのかもしれない。しかし、暗闇から漏れてくる呻き声のせいで、どうしても入る勇気が湧かなかった。
この下には一体何がいるのだろう……。僕は唾をゴクリと呑み込んだ。
しかし母がもしこの中にいるとしたら、一刻も早く助け出さなくては取り返しがつかないことになるかもしれない。暴走する車から身を挺して僕の命を救ってくれた母を、この僕が見捨てるわけにはいかない。
勇気を振り絞り、ランタンを腰にぶら下げその梯子に手を掛けた。
カツン、カツン、と一段一段踏みしめて降りていくと、そこから更に下に降りる階段が薄っすらと見えた。
僕は恐る恐る梯子から階段の上に足を降ろし、腰にぶら下げていたランタンを下にかざした。明かりの先には、橙色の照らされた階段が長く続いていた。
そこからは、あまり足音を立てぬように階段を下りた。それでも狭い空間では、自分の足音がどうしても響いてしまう。
一体どのくらいの距離を進んだのだろうか、その時、唸り声のような音が突如として消え去り、驚いた僕はそれと同時に足を止めた。辺りは急に静まり返り、ツーンという耳鳴りがしたが、しばらくすると階段の下から微かに声のようなもの聞こえてきた。
「ヒソヒソヒソ……」
何を言っているのかは分からない。とても低い音で脳に響く異形の言葉だ。
僕はその言葉を聞いたとたん恐怖のあまり足がすくみ、そこから動けなくなってしまった。
駄目だ、逃げなくちゃ……。
そう思ったが体がまるで、自分のものではなくなったかのように脳の命令を受け付けない。そうしている間にも階段の下から聞こえてくる声が、だんだんと近づいてくる。
「ヒソヒソ、ヒソヒソ……」
そしてその時、全身が凍りつくような悪寒が走った。前からだけでなく、背後からも何かの気配を感じたのだ。得体の知れない何かが、僕の後ろにいる。僕は力を振り絞って首を回し、何とか視線を後方に移すと、階段の上から暗闇ごしに睨みつける真っ赤に光る二つの眼が見つけた。
僕は思わず声にならない悲鳴を上げてしまった。するとそれを合図に二つの光る眼は獣のように階段を駆け降り、僕の頭上を一跳びに飛び越えた。
僕の心臓は、張り裂けんばかりに激しく打った。
光る眼の主は僕の頭上を飛び越えると階段の下に駆けていき、下から何かと争うような激しく音がしばらく続いた。僕は何が起きたのか分からぬまま、身を屈め身体を小刻みに震わせ呆然としていると、再び階段の下から二つの眼が赤く光り、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「マサト、恐れることはありません。グレイピープルは追い払いました」
度肝を抜かれた。腰を抜かして階段にへたり込んでいた僕は、持っていたランタンを近づいてくる二つの眼にかざした。
「私はあなたの味方です。この屋敷を案内して差し上げましょう」
暗闇の中ランタンの明かりを浴びて、ぼんやりと姿を現したのは一匹の犬だった。
「えっ、あ、犬?!」
「はい、黒毛のミックス犬です。私が幼い頃に亡くなってしまったご主人にはクロニクルという名で呼ばれていました」
こんな世界なので犬が喋ることに、それほど驚くこともないだろうが、しかし……。
「あなたは何故、僕の名前を……」
「実は私は以前あなたと会ったことがあるのです。そして、私はあなたにとても感謝しているのです」
「……?」
「とにかく、マサトは私にはできなかったことをしてくれた。だから私はマサトのできないことをして差し上げます」
「君にできなかったこと?」
僕には、その言葉がどういうことなのか分からなかった。
「それは、もうどうでも良いこと。ただ私はマサトに恩返しをしなくてはいけないのです。この中は非常に危険なので、私がご案内して差し上げましょう」
「本当に? 僕は屋敷に行きたいんだけど」
「承知いたしました。この通路は屋敷に通じています。私の後をついて来て下さい」
クロニクルは暗闇の中を先導して歩きだした。僕もランタンの明かりを頼りに、クロニクルを見失わぬように後を追った。
ポチャン、ポチャン。と、天井から水が滴り落ちる音が聞こえてきた。
心強い先導者がいるものの、奥に進むにつれ内部の不気味さは増すばかりだった。
僕はランタンの明かりを壁に近づけた。古びた煉瓦に木の根っこのようなものが天井の隙間から伸びていた。
何故こんなところに木の根っこが生えているのだろうか……。あの屋敷の周りには木など生えていなかったはずだ。
「マサト」クロニクルは歩みを止めた。
僕は嫌な予感がした。
「何?」
「耳を澄ませて」
言われたとおり耳を研ぎ澄ますと、正面奥深くから呻き声のようなものが聞こえてきた。入口で聞いたそれと同じものだ。
「この音は一体……?」
「この音は大入道の呼吸ですよ」
「大入道って? グレイピープルとは違うんですか?」
「グレイピープルとはまた別物ですが、まあ似たようなものです。残念ながら、私が戦って勝てる相手ではありません」
「えっ、じゃ、どうすれば?」
「どうやら。こちらに向かってきているようですね。奴はそれほど知能の高くない生物なので、隠れてやり過ごすことにしましょう」
僕たちは急いで途中にあった、人一人通れる程の小さな横道に身を隠し、ランタンの明かりを落とした。
明かりを落としてから気が付いたのだが、この辺りは天井から若干光が漏れ、明かりを消しても完全な闇にはならなかった。
大入道の声が大きくなっていく。
ぐおぉぉぉ、ぐおぉぉぉ。
僕はその声を聞いて、身震いが止まらなかった。
「やはり、こちらに近づいているようですね」クロニクルは淡々と告げた。
大きな足音も聞こえてくる。ドスッ、ドスッ、と音がするたびに、地下だというのに通路が小さく揺れた。
「大入道は光に弱いため普段は地下に潜んでいますが、闇の刻になると時々、屋敷の外に出ることがあるんですよ」
クロニクルにそう言われたが、僕はとても返事ができる状態ではなかった。
更に大入道は出口に向かってゆっくりと歩を進め、通路内には大きな音が響き渡った。
ぐおぉぉぉぉぉ。ドスッ! ドスッ!
僕たちが小さな通路で息を殺して身をすくめていると、先ほどまでいた広い通路に真っ黒な物体が横切った。
それが大入道だった。
通路いっぱいに膨れ上がったどす黒い体が、大きな足音をたてて目の前を通り過ぎようとしていた。僕は目を瞑ってしまいたかったが、何故かそれができずにまばたきも忘れて目を見開いた。
大入道が、僕たちのいる細い横道の前を通り過ぎようとした時、天井から僅かに漏れた光が一瞬だけ奴の姿を捉えた。真っ黒の顔に、黄色く濁った大きな二つの目を持った怪物が僕の目にはっきりと映った。
その姿を見た僕は、突然意識を失いそのまま倒れてしまった。
その後しばらくして目を覚ますと、クロニクルは僕の顔を舐めていた。
「……あっ!」
起き抜けに僕の身体はびくっと飛び上がった。しかしそこには僕とクロニクルしかいなかった
「大入道は?」
「安心してください。もう、通り過ぎていったので、恐らく外に出て行ったんじゃないでしょうか」
「良かった……」僕の心臓は、それでもまだばくばくと波打っていた。
「それじゃ、今のうちに先に進みましょう」
再びクロニクルに先導され煉瓦造りの通路を辿ってしばらく行くと、ようやく上に上がる階段が現れた。
「ここから、屋敷の一階へと通じています」
「よかった。やっと辿り着いたよ」
「マサトは、この危険な屋敷に一体何の用があるのですか?」
「そうか、それをまだ言ってなかったね。僕は母を捜しに、この屋敷に来たんだ」
「母親を?」
「グレイピープルに連れ去られて、この屋敷にいるかもしれないという情報があったんだ」
「そうでしたか。確かに過去、そんな話があったことを覚えています」
「クロニクルもその話を知ってい……」そこまで言うと、僕は辺りの様子がおかしいことに気が付いた。
どうやら囲まれてしまったみたいだ。
僕は持っていたランタンを背後に向かって掲げた。
「誰だ!」
僕が後ろを振り向くと、ランタンが何らかの力によって音をたてて砕け散った。
「うわっ!」
しかしランタンの光は、僅かにその生き物の姿を捉えていた。それは全身が灰色とも銀色ともつかない色をした、異様な身体の化け物だった。
人間の子供ほどの身体しかないのだが頭と目は異様に大きく、それに比べて極端に小さい鼻と口。瞬間的に見えたその恐ろしい姿が強烈な違和感となって僕の恐怖心をさらに煽った。
「ガルルルルルルルッ」クロニクルは唸った。
「ヒソヒソ、ヒソヒソ、ヒソヒソ」
暗闇の中で化け物たちは異形の言葉で囁く。
「十匹以上はいるよ」僕は身を半歩引いた。
「マサト、階段を駆け上がるんです!」
暗闇で見えなかったが、階段のほうにはまだ化け物がいないようだ。
僕はクロニクルの言われるがまま、階段を駆け上がった。
一段、二段、三段。階段を上るのが、これほど遅く感じたことはなかった。
僕は階段を上がりきると屋敷の一階に出た。
「はぁ、はぁ、はぁ」
僕に続いて、クロニクルも階段を上がってきた。
「ここは私に任せてください。マサトはこの廊下の一つ目の角を左に曲がり、その通路の左側三番目にある部屋を訪ねてみてください。そこにはこの屋敷の長老がおりますので、もしかするとマサトの母親のことも、何か知っているかもしれません」
「えっ、でも……」
クロニクルの眼を見るととても穏やかな表情をしていた。
「わかった。ありがとうクロニクル!」僕はおもいっきり駆け出した。
「礼を言うのはこっちの方ですよ、マサト……」
僕はクロニクルに言われた通りに廊下を進み、一つ目の角を左に曲がった。
途中、クロニクルの唸り声が聞こえたが、それでも僕は真っ直ぐに走った。廊下の左側一番目、二番目、三番目の扉。
「ここだ!」
その扉は他の扉と違い重厚な作りで、長老と呼ばれるものがいるに相応しい威圧感があった。
僕は息を呑み、扉を開いた。
く、臭い……。
扉を開けると中から眩しい明かりと共に、強い腐敗臭のような臭いが漏れてきた。
本当にこんなところに長老と呼ばれる人物がいるのだろうか。僕は鼻をつまんで中を見渡した。
その部屋の周りを囲む茶褐色の壁は一部蔓で覆われていたが、幾つかの照明がありそれが部屋を照らし、そして部屋の中央には床と天井を突き破るような形で、年輪を重ねているであろう一本の大きな樹が生えていた。
部屋の中にこんなにも巨大な樹が生えているなんて。
僕はなるべく臭いを嗅がぬよう、口で呼吸しながら部屋の中に進入した。
「すみません」僕は誰かいないかと、遠慮がちに声を掛けた。
だが、部屋の中からは空気が漏れるような音が聞こえるだけで、何の応答もなかった。
仕方なく部屋の奥へと進もうとすると、突然「誰!」という声が部屋の中に響き渡った。
驚いた僕は、立ち止まり慌てて部屋の中を見渡すと、樹の陰から六歳児ぐらいの女の子が顔を出した。
僕は思わず身体をびくっと震わせたが、小さな女の子だと分かると少しほっとして、何故こんなところに女の子がという気持ちもあったが、とりあえず声をかけようと試みた。
「あ、あの……」
しかし、話しかけようとするとその女の子も僕の姿に驚いたのか、またすぐに樹の陰に隠れてしまった。
「あの、僕はマサトっていうんだけど、君は誰なんだい?」
静かな部屋の中に、空気の抜けるような音だけが定期的に響いた。そして若干の沈黙の後、樹の陰から女の子は顔を出してきた。
「カナ」女の子は言った。
「カナちゃんって言うの?」
「うん。お兄ちゃんは何しに来たの?」
女の子は樹の陰から出てきて足元の大きな根っこを飛び越えると、肩の上まで伸びた栗色の髪の毛がふわりと宙を舞った。
「僕はこの屋敷の長老に会いに来たんだけど、カナちゃんは長老のこと知っているのかい?」。
「当たり前じゃない。長老様に会いに来たの?」
「はい、長老はいますか?」
「うん。長老様、お客様だよ!」カナは樹に向かって大声で話し掛けた。
「……」
勿論、樹が喋るわけがない。
「長老様、今まだ眠っているみたい」
「長老様って、その樹のこと?」僕はその樹を指差した。
「そう。樹齢千年の菩提樹だよ」
そう言われ、僕は樹の幹に目をやった。良く見ると、乾燥した大地のようなゴツゴツとした幹の表面が確かに人の顔のような模様になっており、口と思われる所から寝息のような空気の抜ける音が聞こえてきた。
「長老様に、何の御用ですか?」
「この屋敷に人を捜しに来たんだけど、長老なら何か知っているんじゃないかなと思って……」
カナは難しい顔をした。
「うーん、確かに長老様は物知りだけど、今病気で具合が悪いからあんまり起きてくれないの」
「起きてくれないって、長老は一体どのくらいの頻度で起きるものなんだい?」
「三十日に一回くらいかな?」
「三十日というと、一月に一回しか起きないのか……。ちなみに前回起きたのは何日前かな?」
「けどもう三十日以上前だよ」
「じゃ、もう起きるかもしれないね」
「うん。もうすぐ、起きるかもしれないよ」カナはこくりと頷いた。
さすがにこんな所で何日間も待つわけにはいかなかったが、もうすぐ起きることを信じて僕は樹の幹を見つめた。
「起きてくれるかな」
僕がそう言って溜息をつくと、カナは楽観的に「もうすぐ起きるよ」と言った。
すると、突然長老の寝息がふっと途絶えた。
僕はそのことに気付かず、ぼんやりと樹の幹を見ていたのだが、寝息が消えると共に何となく顔に見える程度だった長老の顔がみるみるうちにはっきりと表面に浮き出してきた。それはまるで明王のように恐ろしい顔だった。
「あ、あ、ああ、あ……」
僕は声にならず、その場にへたり込んだ。
「……案ずるな人間よ、わしはこの通りここから動くこともできぬのだ。取って喰ったりはせぬ」
そうは言われたが、僕の心臓の高鳴りは収まらなかった。
「あなたが、この屋敷の長老様ですか?」
「いかにも、わしはこの街に生き残った最後の植物。菩提樹の長老じゃ、動くことも無ければ人を襲うことも無い」
「ぼ、菩提樹の長老……」
僕は心臓の高鳴りを抑え、何とか平静を取り繕った。
「お主は何者じゃ?」
「あ、あの、僕は西嶋マサトといいます。人を捜しに来たのですが……」
「むむむ、人捜しか」
「以前グレイピープルにさらわれた人間が、この屋敷に連れてこられたという話を聞いて来たのですが、何かご存知ではないでしょうか?」
「無論、知っておる」
「本当ですか?」
「そう、それはこの娘じゃ」
女の子はそう言われ、不思議そうな顔で菩提樹の長老を見た。
「お主はこの娘を、連れ帰りに来たのか?」
「い、いえ、僕は捜しているのは子供じゃなくて大人の女性です」
「……」
菩提樹の長老は、何か考え込むように押し黙った。
「大人の女性は、ここにはいないんですね」
「ああ、ここにいる人間はこの娘だけじゃ」
「そうですか……」
僕が肩を落とし、カナの顔を見下ろした。
「お兄ちゃん、私のことを連れて帰りに来たの?」
「ううん。違うんだ、その……」とまで言うと、急に菩提樹の長老が話を制した。
「いや。お主がここに来たのも何かの縁かもしれぬ。この娘を屋敷の外へ連れて行ってはくれないか?」
「えっ! この子をですか?」
「この娘には何者かによって強い封印が施されてしまっており、その封印を解かぬ限り来世に転生することができぬのだ」
「転生できない?」僕は口には出さぬものの、正直またかと思ってしまった。
「そしてそれは、この屋敷にいたのでは決して叶わぬ。しかし屋敷の外ならばその機会は必ずあるはずだ」
菩提樹の長老は険しいながらも優しい表情でカナに微笑み、再び僕に視線を移した。
「マサトと言ったかな」
「はい」
「マサトよ、この娘の封印を解いてくれとは言わぬが、どうか屋敷の外に連れて出してはくれないだろうか」
確かにロロがあれほど危険だと言っていたこの屋敷に、幼い子供を放置してしまうというのは人道に反するのかもしれない。僕は下唇を噛みしめ頷いた。
「良いですよ。この子は僕が預かります」
「そうか、すまぬが宜しく頼む」
一部始終聞いていたカナは、菩提樹の長老に訴えた。
「嫌だ、外になんて行きたくないもん!」
「何故だ?」
「長老様と離れたくない」
「しかしお主も分かっている筈だ。いつまでもここにいてはいけないことを……」
「分かるよ。だけど、長老様、病気が……」
カナは菩提樹の長老の顔を覗き込んだ。
「そうかわしのことか、しかしそれなら案ずるな」
菩提樹の長老はそう言って、僕の顔に目をやった。
「お主にもう一つだけ、頼みたいことがあるのだが」
「何でしょうか?」
「わしの背中を見るが良い」
僕は菩提樹の長老の後ろに回りこんだ。
「分かるか?」
「この細い枝のことですか?」
見ると菩提樹の長老の顔の背面から、白く変色した細くて若い枝が突然生えていた。普通太い幹からは若い枝は生えない。
「この忌まわしき若枝が、わしの身体を大きく蝕んでいるのじゃ」
「じゃ、これを切れば治るんですか?」
菩提樹の長老は、目を瞑って顔をしかめた。
「面倒なのだが、切ったり折ったりするのではなく、根元から引き抜いてくれぬか」
「分かりました」
僕は細い枝を両手で掴み引っ張ってみたが、まるでびくともしなかった。
基本的には若い枝なので、多少左右に揺さぶってもしなるだけだった。だがこれなら思い切り引っ張っても途中で折れるようなことはないだろう。
僕は右足で幹を押さえ、左足で地面を踏ん張り、枝を両手で掴んでおもむろに引っ張った。
なかなか抜けずにもう駄目かと思った次の瞬間、シャンパンのコルクが吹き飛んだような音をたてて忌まわしき若枝が綺麗に根元から抜け落ちた。
「……抜けた」
カナは菩提樹の長老に駆け寄った
「長老様、大丈夫?」
菩提樹の長老は患部が痛むのか、恐ろしい顔が更に険しくなった。
「ああ、大丈夫だ。これでわしの病気も回復に向かうだろう。だからお主も安心してここから出て行け」
「うん、私、この屋敷を出ます」
「すまなかったな、こんなところに何年もの間、足止めさせてしまって」
「ううん」
カナは首を横に振り、そして僕に言った。
「お願いします。私を屋敷の外に連れてってください」
「勿論だ、一緒に行こう」
「はい」
僕はカナの手を繋いだ。
「それでは菩提樹の長老、どうかお元気で」
「長老様、今までありがとう。さようなら」
「ああ、気を付けて行くのだぞ」
部屋を出る時、カナは最後まで名残惜しそうにして、そして扉を閉めた。カナにとって菩提樹の長老が、どれだけ大事だったのかは容易に想像できた。だが別れの時は必ずやってくる。例えこんなに小さな女の子にさえ……。
部屋を後にした僕が何処から屋敷を出るか考えていると、カナに袖を引っ張られた。
「玄関はあっちだよ」
カナに腕を引かれながら大きな廊下を真っ直ぐ歩いていくと、左に曲がったところに大きな扉があった。
地下を通ってきたので位置的に良く分からなくなっていたが、玄関と言うのは恐らく僕が最初に入ろうとした正面の入り口のことだろう。カナは背伸びをして錠前を外すと扉が開放され、僕たちは朧の館から脱出した。
結局母を見つけることはできなかった。僕を助けてくれたクロニクルもどこかに行ってしまっていた。あの犬は一体何者だったのだろう。まるで人間のような犬だった。言葉は喋るし、首輪の変わりに桃色のネックレスを付けていた。
「久しぶりにお外に出た。とっても気持ち良い」
無邪気にはしゃぐカナの横で、僕は途方に暮れていた。
やはり、ロロが言っていた通り、この広い街の中で人捜しなど不可能なのだろうか。
「これから何処に行くの?」カナは聞いた。
「うん……」
僕は考えながらカナを門の鉄柵の上に乗せて、自分も乗り越えようとした。
「あれっ!」鉄柵の上に乗ったカナが朧の館を指差して大きな声を上げた。
見ると巨大などす黒い物体が、屋敷を覆うように乗りかかっていた。
「ぐおぉぉぉぉぉぉぉ!」
黒い物体はこちらを振り向いた。黄色く濁った大きな目が僕たちのことを捕らえた。
「お、大入道だ!」
僕はあまりの衝撃で心臓が止まりそうになった。
ドス! ドス! ドス!
大入道は真っ赤な舌を長く伸ばして、僕たちの方に進んできた。
大急ぎで門を越えた僕は、カナを抱えて一目散に逃げた。
幸い大入道の進む速度は遅かったが、それでも一歩一歩の歩幅が大きい。それもそのはず、地下の通路で見たときより何十倍もの大きさに膨れ上がっているのだ。
大入道が右手を伸ばすと、僕とカナをあっという間に一掴みにした。
もうこれまでかと思ったその瞬間、今度は逆に大入道が苦しみ出した。
「ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁ」
大入道は僕たちを掴んでいた手を放し、低い声を上げながら両手で目を押さえた。
どういうことだろうと思ったが、駅の方角を見て気が付いた。
「そうか、闇の刻が明けるんだ」
大入道は光に弱い。クロニクルはそう言っていた。
光を浴びた大入道は、赤い舌をだらりと伸ばして、目を押さえながら苦しんだ。
僕はその隙に倒れているカナを起こし走り出した。
月の昇る空に向かい、僕たちは手を繋いで駆けて行った。