第六章 悲劇
藤川リサが自殺した後、学校は激しく混乱していた。
身体に障害のある児童が自殺したという、センセーショナルな事件にマスコミが挙って押し寄せて、取材合戦を始めたので学校は一週間、前倒しにして夏休みになり、学校に人がいなくなると、マスコミもあっという間にその姿を消した。
そして夏休みが明けると、何事もなかったかのように今までと変わらない二学期が始まった。ただ一つ、妹が登校していないことを除いては。
不登校になった妹は、自分の部屋に引きこもるようになっていた。一日の大半を二階にある自室で過ごし、トイレ、風呂、食事の時だけ一階に降りてくる。とはいえ食事の時も、学校に行かないことを引け目に感じているのか、一言も話さなくなった。
僕は傷ついた妹を何とか助けたてやりたかったが、無理やり学校に行かせることもできなかったので、時々妹の部屋に行っては、一方的に学校の話をしたり、図書室から借りてきた本を貸してあげたりしていた。だがしばらくすると、僕のことも疎んじるようになってきて、しまいには部屋にも入れて貰えなくなった。
妹のために何かできることはないだろうか? 誰も喋ることのない静かな食卓で、僕はいつもそれを考えていた。
この家の夕食の時間は相変わらず早い。家の近くのスピーカーから午後五時を知らせる夕焼小焼が流れている途中で、妹はさっさと夕食を食べ終え自分の食べた食器だけを片付けて、ごちそうさまも言わずに二階に上がっていった。
母は何か言いたげだが口には出さずに、食事を終えるといつものように戸締りに気を付けるよう僕に伝え、夜の仕事に出掛けて行った。
つまらないな。
テレビを観ながら考えた。いつまでこんな、気まずい状態が続くのだろう。兄として何とかしなくてはいけないと考えているのだが、傷ついた妹の心を癒せる方法は中々思いつかなかった。
そのまま観るでもなく点けていたテレビをぼーっと観ていると、映画のクライマックスで美しい朝焼けのシーンが流れた。
全てを捨てて逃げ出した主人公とヒロインが、崖の上から夜が明ける瞬間に立ち会う。海岸線から朝日が顔を出し、海と空との境界が真っ赤に染まる。
「新しい一日の始まりだ」
主人公とヒロインは抱きしめあった。
これを観ていた僕の脳裏に、ひらめきが走った。
そうだ、これだ。
僕はその翌日、妹のためにあることを計画した。
家の押入れから、使っていない座布団を引っ張り出して、それを自転車の後部キャリアの上に置いた。見ると、後部キャリアのサイズにちょうど良い大きさの座布団だった。
それを紐で括りつけようとしている時、母が買い物袋を抱えて家に帰ってきた。
「何してるの、マサト?」
「えっ、自転車の後ろの席を座りやすくしてるんだよ」
僕は座布団を括りつけながら言った。
「駄目よ、二人乗りは危ないから」
「一日だけだよ」
「そういう問題じゃないでしょ」
「エミを連れて行きたいところがあるんだ」
母は妙に生真面目なところがあるので、僕は母の目を見ながらできるだけ実直に言った。
「だからって駄目よ。歩いて行きなさい」
「……」
しかし、だんだん押し問答になってきた。
そのくらい良いじゃないかと思ったが、母は意固地になる性格だったし、それに母の方が明らかに正論だったのでその場は黙って引き返した。
母には悪いが計画を実行するのは夜明け前、寝ている隙に決行できてしまうのだ。
僕は翌日に備えて、夜十時前に床に就いた。
次の日の早朝、四時に起きた僕は妹の部屋に上がりこみ、寝ている妹を叩き起こした。
妹は何事が起こったのかと唖然としていたが、僕はお構いなしにパジャマ姿のまま無理やり上着を羽織らせて家の外に連れ出した。
「痛い、痛い! 一人でも歩けるよ!」
玄関先で妹は僕の手を振り払った。
「何なのよ、一体!」
僕は準備していた自転車に跨り、不機嫌に立っている妹に言った。
「エミ、後ろに乗れ!」
「馬鹿じゃないの? 夜も明けてないのに何処に行くって言うのよ!」
「まだ、決めてないよ」
それは本当だった。この時点で何処へ行くかは決めていなかった。
「えっ?」
妹は一瞬絶句した後、余りの無計画さに思わず笑ってしまった。
「ハハハ、ハハッ、こんな時間に起こしておいて決めてないって……」
「とにかく乗れよ!」
僕が座布団を括りつけた後部キャリアをポンポンと手で叩くと、妹は少々呆れた顔で僕の後ろに跨った。
「高いところ。ここらへんで一番高いところに行くぞ」
僕は左足で地面を思いきり蹴って、自転車を走らせた。
外は真っ暗で僅かにある街灯が、誰も歩いていない道路を薄っすらと照らした。
「一体高いところに、何をしに行くの?」後ろからしがみついた妹が聞いてきた。
「朝日を見に行くんだ」
「朝日を?」
「そう、今日一日の始まりを見に行きたいんだ」
「……」妹は不思議そうに後ろから僕の顔を覗き込んだ。
「けど、何処が良いかな?」
僕が考えていると、妹は大きな声で言った。
「それじゃ、御神山に行こう!」
「そうか、御神山か。あそこなら町が一望できるな」
御神山とは市街地から少し外れたところにある小高い丘のことだ。
「でしょう。進路を東に変えろ! 面舵いっぱい」妹は左を指差して言った。
「面舵って右に曲がることだぞ」僕は笑って返した。
「あ、そうか。左は何て言うんだっけ?」
「取舵」
「良し、取舵いっぱい」
「取舵いっぱーい」
僕と妹を乗せた自転車は左に大きく曲がった。空の色が少しだけ変わった。方向を変えたらネイビーブルーに染まった東の空が見えてきた。
「もうすぐ夜が明けるな。エミ、寒くないか?」
秋はこれからだが、九月末のこの時間帯は少し肌寒い。
「うん、ちょっとだけ寒いけど大丈夫」
「飛ばして行くから、少しだけ我慢しろよ」
空が明るくなるにつれ、徐々に今日という一日が始まり出した。新聞配達と牛乳配達の原付が道路を走っている。豆腐屋には明かりが灯り、夫婦で仕込み作業をしている。朝早くに散歩している老夫婦には、多少好奇の目で見られたようだ。
妹をパジャマのままで連れてきてしまったのは、さすがにまずかったかなと思ったが、妹も「さっきの人、私たちのこと見て変な顔してたよ」と笑っていた。
僕たちの自転車は商店街を抜けて、見通しの良い街道沿いの道に出た。空はコバルトブルーに染まっていて、見慣れた町の景色もまるで違うもののように見えた。
「綺麗な空」妹は天を見上げた。
まだ星の残るその空は、夜でもなく、朝というわけでもない。それは夜と朝の狭間にある、ほんの僅かな地球の瞬きだった。
僕はペダルを漕ぎながら、大きく深呼吸した。朝方の澄んだ空気が肺の中に送り込まれると、胸が何だかドキドキしてきた。
「この空より、もっと綺麗なもの見せてやるからな」
「楽しみ」
僕たちは幹線道路を右に曲がった。
「後はこの先の坂を上りきるだけだ」僕はペダルを漕ぐ速度を上げた。
「頑張れ、お兄ちゃん!」
僕たちを乗せた自転車は、スピードに乗って坂を駆け上がった。
しかしこの坂はとても長い。あっという間に速度は落ちて立ちながら漕がないと、とても進まなくなった。
ふと横に目をやると、東の空に光が射してきた。
「早くしないと間に合わなくなる」
僕は全体重をかけてペダルを漕ぎ、必死に頂上を目指した。
家を出てからちょうど一時間たったとき、僕たちは御神山の頂上にある公園に辿り着いた。
「お兄ちゃん急いで、夜が明けるよ」
僕はその場で倒れたかったが、妹に手を引かれて無理やり高台に連れて行かれた。
空はだいぶ明るくなっていたが、太陽はまだ出ていなかった。
「良かった。まだこれからだな」
僕は高台に一本だけある、大きなケヤキの木に登った。
「そこから日の出見える?」
下からそう聞いてくる妹に、僕は手を差し伸べた。
「エミも登ってみろ」
妹が手を掴むと僕は思いきり引き上げた。久しぶりに持ち上げた妹はとても重かったが、僕は残されたエネルギーを全て使いきって持ち上げ、妹を枝の上に座らせた。
「どうだ!」
「わぁ」妹の口から吐息が漏れた。
少しだけ姿を見せた朝日が辺りの雲を真っ赤に染め、その回りには鳥たちが見事な編隊を組んで飛行している。
そして僕たちの眼下には、朝日によって染められた白く輝く町がどこまでも、どこまでも、広がっていた。
僕は大きく息を飲み込んだ。自分で妹を連れてきておきながら、まさか朝日がこれ程までに美しいとは思っていなかった。
「夕焼けも綺麗だけど、朝日はもっと綺麗だな」
「そうだね。夕日の物悲しさとは違う、朝のエネルギーのようなものを感じる」
辺りには初秋の、清々しい空気が流れている。
僕は着ていた上着を妹の肩に掛けた。
「どんなに暗い夜の後でも、必ず美しい朝がやってくるんだ」
「……」
妹は表情を変えずに真っ直ぐ朝日を見ていたが、しばらくして何かを吐き出すようにポツリと言葉を漏らした。
「……そうだね」
風が吹き僕たちの頭上で、ケヤキの枝葉がザワザワと音をたてて、そしてまた静寂を取り戻した。
「だからなエミ……」
「分かった。分かったよ、お兄ちゃん」妹は少し苛立ったように僕の話を遮り、そしてしばしの沈黙が続いた。
風もなく辺りは静けさに包まれ、僕たちは黙って目の前の朝日を見つめた。
すると妹は、突然静寂を破り「お兄ちゃん」と呼んだ。
「何?」
「お父さんって、どんな人だった?」
唐突な妹の質問に驚いた。そうか、家族の中で父の話をするのは長年タブーのようになっていたから気付かなかったのだが、父が失踪した時、妹はまだ幼かったからあまり父のことを覚えていないのかもしれない。僕は兄として妹のそんなことにも気付いてやれなかったのかと、少し恥ずかしく感じた。
「父さんは普段無口な人だったけど、家族をとても大事にする人だったよ。特にエミのことは本当に可愛がっていたし、エミも父さんのことが大好きで良く肩車をせがんでいたんだよ」
「あっ!」妹は声を漏らすように言った。
「私一つだけ、お父さんのことで鮮明に覚えていることがあった。どこかの芝生の広場でお父さんが私を肩車して歩いているの」
「そうか」僕は、妹が父を覚えていてくれたことに少しだけほっとした。
「あれは私がお父さんに、せがんでいたのか……」
妹は、悦に入った表情で呟いた。
どうやらまだ妹の中でも、父さんは生き続けていてくれているようだった。
朝日はゆっくりと昇り、編隊を組んで飛んでいた鳥たちは、僕たちの頭上を旋回して何処かに消えていった。
帰り道の途中、僕たちは家の裏の雑木林に立ち寄った。クロのお墓がある雑木林だ。
エミはクロのお墓の前で祈った。
「クロ。リサのこと守ってあげてね」
果たしてクロはリサと同じところに行ったのだろうか。
僕は朝から、くたくたになって玄関の扉を開けた。
「ただいまー」
「おかえり、おはよう」
さすがに朝から何処に行っていたのかと怒られるのを覚悟したが、母は何も聞かずに朝食を出してくれた。
僕と妹は、手を洗いうがいをして食卓に着いた。
「頂きます」
御飯に塩鮭にお味噌汁。それと胡瓜の漬けもの。
三人で食事を始めると、いつもは無言で食べている妹が珍しく口を開いた。
「今日、お兄ちゃんが凄いものを見せてくれたんだよ」
家族で話す会話なのに、それはとても緊張した声だった。話しかけるタイミングを間違えないように、何度も間を気にしていた。
母は少し驚いてから、可能な限り平静を装い「何を見せてもらったの?」と妹に聞いた。
「知りたい?」
「勿論」
「今日一日の始まり」妹は、僕の声色を真似て言った。
「何それ、日の出のこと?」
「そう」
「えーっ、マサトったら気障なこと言うのね」
母と妹は顔を見合わせて笑い、僕は耳が真っ赤になった。
「でしょう。けどね、それが本当に幻想的で綺麗だったの」
妹はこちらにちらりと視線を送ったが、僕は気付いていない振りをした。
「良いわね、次はお母さんも一緒に行きたいわ」
「うん。一緒に行こう。ね、お兄ちゃん」
「ああ、そうだね」
それは、久しぶりの家族の会話だった。
結局のところ、それでも妹の登校拒否は治らなかったが、その後母の提案で毎週日曜日には家族三人で外に出掛けるようになった。
僅かな前進だったが、これをきっかけに妹の心が少しでも回復してくれれば良いと僕たちは願った。
十月初旬のとある日曜日、その日は家族三人で隣接する町の境にある大きな川にサイクリングに来ていた。
土手の上に自転車を置いて、僕たちは河川敷にレジャーシートを敷き、お弁当を食べる準備をした。
ピクニックやサイクリングの時に持っていくお弁当はいつも決まって、おにぎりに玉子焼き、それと鳥の唐揚げかウインナーという組み合わせで、決して豪華なものではなかったが僕と妹はこれが大好きだった。母は大層なものは作れないけど、おにぎりの海苔だけは良いものを使っているということを、何故か誇らしげに語っていた。
「いただきます」
僕はおにぎりに手を伸ばし、遮るものが何もない広い空を見上げた。
秋の空は高くて青い、上空には筋状に伸びたうろこ雲が一面に広がっていた。
「こんなおにぎりでも外で食べるだけでご馳走になるね」
「こんなおにぎりでもね」母は嫌味を込めて言った。
「あっ焼鮭だ!」
僕は聞こえない振りをして話を続けた。
「エミのおにぎりは中身何だった?」
「私も鮭だった」
妹は一口が小さいく、まだ中の具まで辿りついていなかったので、おにぎりを割って見せてくれた。
「ねえ、お兄ちゃん。鮭は赤身と白身どっちの魚だと思う?」
「えっ、知らない。赤身?」
「ブー! はずれー」
妹は必要以上にしかめ面をして、手で罰印を作った。
「正解は白身魚でした。お母さん知ってた?」
「いや、知らなかったわ。何で白身なのに白くないの?」
そう言われると妹は、待っていましたと言わんばかりに解説を始めた。
「鮭がエサとして食べるプランクトンの色素が、体内に蓄積されてあの色になるんだって。この間テレビでやっているの観たの」
「何だ、やけに詳しいと思ったら、テレビでやっていたの観ただけか」
「最近、テレビばっかり観てるからね」妹は少し自虐的に言った。
「エミ、いつも家にいて何をしているの?」
母はそう聞いたが、決して嫌味のある言い方ではなかった。
「テレビ観たり、本読んだり、後、本当に退屈な時は逆に勉強しているよ」
「本当に?」自ら勉強するなんて、僕には信じられなかった。
「一応、教科書はあるからね。皆、学校ではどんなこと教わっているのかなって、その程度の勉強だけど」
母は頷いた。
「そうね、学校に行かなくても勉強は続けなさい。絶対役に立つから」
「……うん、わかった」
妹はそう返事して、おにぎりを頬ばった。ご飯粒が少しだけ口からこぼれた。
早く学校に通えるようになれば良いのだが、今は焦らずじっくり進んで行こうというのが母の考えらしい。
食事を終え、僕たちは川原を散策した。涼しげな秋風が肌に心地良く、辺りには枯れ草と秋の野草の匂いがした。背の高いススキとその手前にはチカラシバが穂を揺らし、足元にはイノコヅチやメヒシバ等が生え、ところどころに咲いたノギクのような花には小さな蝶が止まっていた。
「あっ、飛行機!」
日が少し傾き始めた。飛行機は横から日の光を受けて、金色に輝きながら南の空に飛んでいった。
一体あの飛行機は、どこに飛んでいく飛行機なのだろうか。地上からではそれを確かめることはできなかった。
「それじゃ、そろそろ帰りましょう」母が言った。
「うん」
僕たちは土手に置いていた自転車に跨った。
土手の横を走る道から一本路地に入り、そこを抜けると街道に出られる。住宅地を通ると家の庭先からキンモクセイの甘く華やかな香りが漂ってきた。どんな視覚的情報よりもこの香りを嗅いだ時に、季節が秋になったことを実感させられる。僕たちはその香りを鼻先に感じながら住宅地を抜け街道に出た。
縦に三つ並んだ自転車が街道を進む。後はこの道を真っ直ぐ進むだけだった。僕たちは周りに田んぼと山しかない道をただひた走った。
日も暮れ始めた頃、一息入れようと街道沿いにある小さな集落で自転車を停めて、自動販売機でドリンクを買った。
「あー、おいしい。生き返るね」僕は縁石に座り、スポーツドリンクを一気に飲み干した。
「もう少しゆっくり飲めば良いのに……」
母はそう言って僕の横に座っている妹にオレンジジュースを手渡した。
妹はプルトップを開けてオレンジジュースを一口飲んだ。
「うん、おいしい」
「少し休んだら暗くなる前に出発するわよ」そう言って母は妹の横に腰掛けた。
自動販売機の設置してある民家の横にはコスモス畑があり薄紫や白いコスモスがたくさん咲いていた。
「母さん、そこにコスモス畑があるよ」
僕はそれを指差したが、母はまるで無反応で険しい顔をしながら僕の後ろを凝視していた。何かあったのかと思い僕が後ろを振り向くと、白い乗用車が猛スピードでこちらに走ってきた。
僕はその時、どうすることもできなかった。
「マサトッ! エミッ!!!」
そして次の瞬間、悲劇は起こった。
スピードを出しすぎた白い乗用車はカーブを曲がりきれずに、そのまま勢い良く歩道に突っ込んできたのだ。
時間がまるでスローモーションのように流れた。
避けなければ……。そう思ったが僕の身体は、その場で凍りついたように全く動いてくれなかった。目の前に近づいてくる乗用車に対して、なす術もなくその場に固まっていると、母の悲痛な叫び声が響いた。
「ダメエエエエエッ!」
刹那の瞬間、母は身を挺して僕たち兄妹と乗用車の間に割って入り、衝撃を受け止めようと立ちふさがった。そして乗用車と衝突した母の身体はくの字に曲がり、僕の目にはその瞬間までの映像がはっきりと映し出されていた。
ドンッ―――!
気が付くと夕暮れの空を見上げていた。だがすぐに視点がぐるりと回転して地面に叩きつけられ目の前が真っ白になった。
僕たちは三人共車にはね飛ばされ、コスモス畑の中に倒れていた。暴走した乗用車はそのまま、自動販売機と民家の塀に激突し大破した。
綺麗に咲き誇るコスモス畑で、白いコスモスだけが僕たちの血で赤く染まった。
運転手と同乗者は全身打撲で病院に運ばれたが、二人ともまもなく死亡。被害者は意識不明の重体一名、軽傷二名。乗用車を運転していた男性の血液から酒気帯び相当量のアルコール分が検出されたため、酒気帯び運転と業務上過失傷害の現行犯で被疑者死亡のまま書類送検。新聞では黄昏時の国道で家族を襲った惨事などと報道があった。
事故の翌朝、僕は何だかとても懐かしい匂いがして目が覚めた。見慣れない天井と薬品の匂いで、そこが病院であることはすぐ分かった。僕はこの病院の匂いが、嫌いではなかった。
「生きてる……?」
左手が少し痛む、左腕を布団から出して持ち上げた。包帯でぐるぐる巻きになっていた。
「おお、マー君気が付いたのかい」
見ると病室には祖母の姿があり、隣のベッドには妹も横になっていた。
「エミは大丈夫なの?」
「ああ、マー君より軽傷だよ」
「母さんは?」
「お母さんは容態が重いから今は別の病室にいるんだよ。マー君動けるかい?」
「別に動ける」僕はベッドから半身起こした。
「お母さんのところには、おじいちゃんがいるから会いに行ってあげて」
「ばあちゃんは行かないの?」
「エミちゃんが起きるまで側にいるから」
「分かった」
僕は祖母に言われた場所に向かった。中央階段を下りた右手一番奥の部屋。そこは大きな病室だった。
扉を目前にして、僕は病室に入ることを躊躇した。何だか分からないけど、とても怖かったのだ。早く母に会わなくてはいけないという気持ちもあったのだが、重傷を負ってベッド横たわる母を見たら、その現実を受け入れられなくてはいけないという気持ちが心の中で強まり、僕は扉の前でガタガタと足を震わせていた。
すると擦りガラスの向こう側から気が付いたのか医師が扉を開けて、入りなさいと目で合図してきた。
僕は空気すら動かさないように、できるだけ静かに病室に入ると、奥のベッドの上に痛々しい姿で横たわっている母を見つけた。
顔や身体のあちこちが管で繋がれて、全身は白い包帯が巻かれていた。
僕は病室に入ってしまうと、それまで躊躇っていたのが嘘のように、もう母のことしか見えなくなった。横にいた祖父が何度か声を掛けていたが、それも聞こえない程に僕の意識は母に集中していた。
「……母さん」
ベッドに横たわる母のそばには、容態の深刻さを物語るように幾つもの重苦しい機器が鎮座し、そこから出ているたくさんの管が母の身体のあちこちに繋がれていた。
横で医者が言っていた。頭蓋骨骨折、頭蓋底骨折、脳挫傷、そして脳の中枢神経が傷ついているため手術することができない……と。
その説明は僕の耳に届いていなかったが、直感的に母はもうすぐ死んでしまうかもしれないと感じた。
だがそれは僕にとって、どうしても受け入れられない事実だった。
僕は眠っている母の手を握った。
「母さん、なんで……、なんでこんなことに……」
物言わぬ母の手を、僕はできる限りの優しさで包み込んだ。
それから僕と妹は翌日も、翌々日も、毎日病院で過ごした。だが母の意識は一向に戻らない。
そして事故から四日目。その日も僕たちは学校に行かず、病室で母の容態を見ていた。
病室には医者と看護師が、カルテのようなものに何かを書き込んでいる。
僕は時間だけが経つ中、何もできずに手をこまねいている状態に苛立ちを感じていた。
「先生、母の意識は戻らないのでしょうか?」
医者は少し困ったような顔をしながら言った。
「申し訳ありませんが、お母さんは脳幹と呼ばれる生命を維持するのに重要な中枢神経系の集合体が損傷しておりまして、残念ながら手の施しようがないというのが現状です」
しかしそれは何度も、何度も、聞いた台詞でしかなかった。
「そうですか……」
僕は諦めて椅子に座ると、不意に病室の扉をノックする音がした。
一体誰だろうと思い一拍置いて「どうぞ」と答えた。するとゆっくりと扉が開いて、その向こうに大人の女性と男の子が一人ずつ立っていた。その男の子は妹とリサをいじめていた主犯格の佐久間という児童で、大人の方はどうやら佐久間の母親らしい。
佐久間は小刻みに身体を震わせて、顔を伏せたままそこから動けないでいた。妹も不安と怒りと悲しみで、顔を伏せて泣きそうになっていた。
病室は静まり返り、母に繋がれた医療機器の無機質な電子音だけが等間隔で響いた。
沈黙に耐えかねて佐久間の母親が何か話そうとした時、佐久間はもの凄い勢いで床に平伏して土下座した。
「西嶋さん、御免なさい!」
僕は佐久間が土下座する姿をあくまで客観的に見つめた。何故なのかは分からないが、まるでテレビドラマでも観るかのように黙って成り行きを待った。
「今更謝って済む様なことじゃないけど、自分たちがやっていたことの罪の重さに、ようやく気が付いたんです。西嶋さんや藤川さんの気持ちを考えないで、とんでもないことをしてしまいました。許してくださいとは言いませんからどうか西嶋さん、学校に来てください!」
そう言って佐久間は頭を下げると、額が床にぶつかり鈍い音がした。
「佐久間君はずるいよ。あんなに私たちのこと傷つけて、私は一生恨んでやるって思ったのに……。佐久間君が謝ってもリサは帰ってこないんだよ……」
妹は目を真っ赤に腫らして言った。
佐久間も床に額を擦り付けて泣いていた。
そして佐久間の母親は申し訳なさそうに頭を下げた。
「こんな時に病院まで押しかけてしまいまして、本当に申し訳ありません。どうしても西嶋さんとお母さんに謝りたくて、非常識なのは十分分かっていたのですが伺わせて頂きました。どうかこの子が言うように学校に来て頂けないでしょうか? うちの子をよその学校に転校させても構いませんから、是非ともエミちゃんには学校に通って欲しいのです」
僕は横にいる妹をチラリと見た。
「そんなこと言ったって、学校には行きたくないんだもん……」
妹が声を震わせながらそう言うと、病室に重苦しい空気が流れた。
すると病室から出るタイミングを逃していた医者が、突然「あっ!」と声を上げた。
母の瞼がゆっくりと開いたのだ。
「意識が戻った!」医者は驚いた。
後から聞いた話では母の意識が戻る確立はほぼ0パーセントだったらしい。それでもその時、間違いなく母の意識は戻ったのだ。
「母さん! 母さん!」僕は必死で叫んだ。
すると母は僕の言葉に反応し、ゆっくりと唇を動かした。
「……」しかし、それは言葉にならない。
「分かる? マサトだよ。エミも無事だよ」
そう言うと言葉が通じたのか、母さんの目は涙で潤んだ。
すると、いきなり佐久間の母親は大きく頭を下げた。
「本当にすみません。私、佐久間の母でございます。何度か西嶋さんのお宅にも伺おうと思っていたのですが、どう謝ったらいいのか分からずに今日に至ってしまいました。どうか許してください」
母は視線を右に移し、佐久間と佐久間の母親を見ると左手を持ち上げてこっちに来なさいとゆっくりと手招きをした。
二人は恐る恐る、母の病床に近づいた。
佐久間たちは母の右側にいたのだが右手が動かせないのか、母は左手を動かして佐久間の手を掴んだ。佐久間はビクッとして母の表情をうかがった。母はとても鋭い眼光で佐久間を見つめていた。佐久間は後ろめたさから視線を逸らしそうになったが、あまりにも強い意志を持った母の視線にとてもそうすることができなかった。
母は必死に何かを訴えた。しかし言葉にならず、何を言っているのかは分からない。
しかしそれに対して、佐久間は喉を詰まらせながらもはっきりと「……ハイッ」と答えた。
どうやら佐久間は、母の言いたいことが理解できたようだった。
母は佐久間の返事を聞くと、そっと手を放した。
佐久間と佐久間の母親は深く、深く、頭を下げた。それはまるで神仏に捧げる祈りのようにも見えた。
そして母は優しい表情になり、妹のことを見つめて左手を差し伸べた。
妹も言葉にならず母の手を握った。
その時突然、母は発作のように呼吸を荒げた。
「お母さん!」
妹が呼びかけたが、母はもう息も絶え絶えだった。
「お母さん、死んじゃ嫌だ!」
しばらくすると母は何とか息を吹き返したが、すでに目の焦点が合っていなかった。
「フゥー……、フゥー……」
焦点の合わない目で天井を見つめながら、母は唇を動かした。妹はその横で、母の手を握り言葉にならない声で泣いた。
佐久間親子も泣き崩れていた。
「……マ、サト、……エ、ミ、……ア、リガ、ト、……アリ、ガトウ……」
母は最後の力を振り絞り、唇を動かした。そしてゆっくりと瞼を閉じてそのまま、この世から去っていった。
……まるで目の前が真っ暗になるような絶望感だった。そして異常なまでに全身から汗が噴き出し、身体が岩のように硬直した。その後のことはあまり覚えていない。
妹は今まで聞いたことのないような声で泣いた。病院中に響き渡っているのではないかという程の泣き声で、それはもう悲鳴にも近い嗚咽だった。
ただ、その時の妹の泣き声だけは、やけに鮮明に覚えている。